水郷の原風景

稲とともに

十六島の暮らしの中心は稲作にある。シマの内はほとんどが水田といってよく、これまで長らく米を作って生活してきた。平均すると、ひとつの農家で1町歩余の水田を持っていたという。かつての田は、大きなものや小さなもの、深いものや浅いものなどさまざまで、しかも、それが1枚々々分離独立し、かつ、各所にあったことから、手入れをするにも難儀した。水車を踏んで水揚げする風景は、端からみればいかにも詩情的だが、汲んでは次、汲んでは次と巡ってゆくのは辛い仕事の一つであった。また、田はおおむね湿田で、わずかの雨でもすぐ冠水してしまうため、なおさらだった。

シマの田植えは早い。5月下旬ともなれば、そろそろはじまった。しかも、品種はもっぱら早生種。そして、変形田が多かったことから、直接手植えする方がむしろ都合のよい場合も少なくなかったのである。それゆえ、大正期から昭和初頭にかけて役畜牛が導入されたとはいっても、全部が全部そうしたわけではない。あるいはまた、縦横無尽に走ったエンマは、しばしば大型農業機械の受入れを拒む弊害ともなっていた。さらに、刈り入れの9月は台風シーズンとも重なったことから、急を要した。そこで、このあたりは早場米地帯として、いち早く出荷するようにしていたのである。この時季は、毎日が天気とのにらみ合い。オダ掛けした稲も、すぐさま運び出せるよう、ところ狭しとエンマに面した田の縁に干しあげた。大雨と察知するば、我先にと舟を漕ぎ出したものである。

※なお、図と写真の番号は、『写真集 水郷の原風景』に準拠しています。また、各資料に付してある番号および資料名は便宜上のものです。図と写真の所蔵者は千葉県立中央博物館 大利根分館です。(写真49、58は窪木栄佑氏撮影)