てらさわおおぜき

3 寺沢大堰


君津市
産業関係・農業・堪提

堰堤延長200m,灌漑面積10.4ha
1928(昭和3)年

寺沢地区は,不動谷831番地(倶利迦羅不動下)から湧出している水源をもって不動谷に4個の溜池(不動谷833番地,同857番地,同846番地および堰上363-1-2番地)を作った。現存しているのは,4番目の溜池であり,1928(昭和3)年に拡張した。この地域は,近隣の地域と同様に,河床が低く水利には苦労したことがうかがえる。このため,昔は水をあまり必要としない農業が採用されていた。1899(明治32)年頃より,養蚕が盛んで現金収入は他のものを作っている農家より多かったが,大正時代に入り,人絹の出現と国際情勢の変化により,生糸の価値が暴落し,養蚕業の経営も至難となった。このため,一般農民として主食の米作農家への切り替えが行われた。

特に,1923(大正12)年9月1日の関東大震災で水源が減水するとともに溜池の漏水による貯水能力の減退によって,農業用水に対する地元の要望は深刻であった。このため,1928(昭和3)年2月に地主と地権者は木村理助を代表者として寺沢耕地整理組合を設立し,県の補助と反別割賦課金をもって,総工事費10,447円で旧大堰の拡張を完成した。

この対策後といえども旱害より脱出はできないため,1936(昭和11)年に組合は総工事費27,247円にて揚水機施設を計画し,重油原動機(ディーゼルエンジン)15馬力ベルトかけ渦巻ポンプを字志多田568番内に建設し,484番地各隅に噴出口を造築した。幸いにして旱害より脱出することが出来た。ところが,それもつかの間の1938(昭和13)年秋の水害のため揚水機場は倒壊し使用不能となり,やむをえず,組合は翌年度に揚水機場を災害復旧工事として,寺沢1番地に工事総額16,647円を以って移転した。竹下302番地内に噴出口を設け,灌漑を行なったが,第二次世界大戦中の1943(昭和18)年に物資の統制に依り,重油の配給の減少のため運転不能に陥り,やむなく25馬力の電動機を購入し,運営を続行した。それでも電力の供給が豊富でないため,1945(昭和20)年〜1947(昭和22)年の旱天続きでは植付け不可能地もでた。また,一部には畑作物を栽培し,比較的水持良好な田を灌漑したところもある。1948(昭和23)年度に至り電力の供給も順調となり,揚水運営もスムーズに進む。一方,農耕地は農地法により殆どが耕作者に解放されて,組合員もその数54名を数えることになった。

1958(昭和33)年11月,加藤半三郎より敷地116坪を購入し,同所に旧揚水機場に多少の補修をし200馬力電動機,口径400mm立軸渦巻きポンプを据付け,寺沢字原913番地の1に噴出口を設け,事業費15,600,000円を以って施工し,1959(昭和34)年度に完成した。1959(昭和34)年,1960(昭和35)年度には小水路工事を事業費2,390,000円で施工し,1960(昭和35)年度に完成した。

今では青田となった寺沢地区の出荷米も1958(昭和33)年度以前に比べて,その数は倍となった。米作農家もその後,数を増して行った。

1965(昭和40)年度に於ては現況の揚水の力のもとに不動谷813番地より湧出する水量(半分)東瀧口を環境衛生面から小櫃村寺沢簡易水道(村営)で上水道用水として寺沢岩出の部落に供用していた。

(金成英夫)

地形図 「久留里」(略)

写真3-1 倶利迦羅不動
写真3-2 寺沢大堰 (1997年)
写真3-3 取水施設 (1997年) 写真3-4 寺沢小櫃越流塔 (1997年)

参考文献

1) 木村利夫氏(君津市教育委員会文化財審議委員)所有資料:君津郡小櫃村寺沢地区土地改良区沿革


Back
Home
Up
Next