しょうじがいけはいすいとうかん
4 庄司ヶ池排水桶管
習志野市 |
産業関係・農業・排水施設 |
暗渠,鉄筋コンクリート管 直径約60cm |
現在の習志野市立第一中学校の周辺には,大正初期まで「庄司ヶ池」と呼ばれた池があった。この池は,船橋市前原にあった庄司上東野和泉守の邸があったため,これにちなんでつけられたといわれている。
池の広さは約9町歩(約9ha)で,この池には,流末がなく大雨や長雨が続くと水が溢れ,付近一帯の畑に侵入してたびたび被害を与えた。代々地主たちは,これに対し何の施策を得ることもなく,天気まかせでいたずらに長く大きなため息をつくのみであった。
1909(明治42)年まで在任した田久保節造津田沼町長は,庄司ヶ池の排水路の構築を考えた。そして,次期中島佐内町長と,県議会議員となった田久保との協力により県の補助を受け排水工事を完成させたものである。
排水工事の難関は,現谷津5丁目の畑であった。砂質の畑地は,掘割式排水溝を風雨のたびに埋めた。そこで,直径2尺(約60cm)の鉄筋コンクリート管による排水路400間(約720m)を造り池の水を海に導いた。
着工したのは,1914(大正3)年1月で,総工費5,625円,そのうち県の補助金が3,100円,残額は,川奈部佐五右衛門他36名の地主の寄付金によって同年9月完成した。
この工事の細かな経過については,谷津丹生神社境内にある「排水記念碑」に記されている。
(在原 徹)
地形図 「習志野」(略)
図4-1 明治時代の庄司ヶ池 (習志野市教育委員会庄司ヶ池解説板より) | 写真4-1 丹生神社境内の排水記念碑 (1998年) |
排水記念 庄司池排水桶菅工事者大正三年一月起工至九月 干葉県千葉 尋常 高等 小学校訓導織戸喜代吉 撰并書 大正七年三月三日(以下発起人氏名) |
図4-2 排水記念の碑文1) |
|
写真4-2 上の弁財天(1998年)庄司ヶ池周辺には, 豊作を祈願して「上の弁天」「中の弁天」「下の弁天」 の弁財天が祀られていた。(撮影協力:三代川氏) |
参考文献
1) 習志野市企画調整室広報課:わたしたちの郷土習志野,1978年
2) 習志野市企画調整室広報課:ならしの風土記,1978年
3) 将司正之輔:雑文のたのしみ,1983年
4) 習志野市教育委員会:庄司ヶ池解説板