はくどさいくつこうあと

11 白土採掘坑跡


岬町

産業関係・鉱業・採掘坑

主坑道 幅1.8m 高さ2m
明治時代

岬町三門から東小高にかけて,白土採掘坑跡が残る。1903(明治36)年〜1969(昭和44)年にかけて操業された房総白土商会跡である。

主坑道はおよそ幅1.8m,高さ2m。さらにトロッコの軌道用に1.2m掘り下げてある。坑道は山腹に平行に分布する白土の層に沿って掘り進まれ,坑道内部は柱を残して掘削され碁盤の目状になっている。(写真11-1)

そもそも三門に産出する白土とは成分の70%が珪酸であり,用途としてはセメントの混和剤,窯業原材料,クレンザー,研磨剤,精米,精麦などの用途に用いられた1)。

また,この地域の地層の特徴から“白土”は4〜5mの火山灰の層からなり,これらが泥岩を主体とする地層の間に薄く挟まっている。この火山灰層のうち,おそらく下部の1〜2mの層が質が良く,この部分が採掘対象となっていたものと考えられている2)。

白土採掘は,房総鉄道の創業者である大野丈助が房総鉄道の付帯事業として始められた。

鉄道の国有化後も三門駅構内に工場を持ち,工場から採掘坑入口まで1.6kmは軌道車や牛車がトロッコを牽いて往復した。構内では人夫がツルハシで白土塊を掘り出し,工場ではそれを20cm角の大きさにして乾燥させた。乾燥後は粉砕機で粉末にし,55kgの袋詰で貨車に積み込み出荷した。(写真11-2)

白土採掘のピークは1922(大正11)年で,従業員も100人を越えるこの地域一番の企業であった。農閑期には近在の農家が働き,賃金も浜の仕事より良かったという。

1922(大正11)年から1959(昭和34)年までの房総白土商会の白土の売り上げ数量は表11-1の通り。

また,閉坑直前には採掘坑はさらに遠くへと延び片道で1時間半を要し,1日に2往復の採掘運搬がやっとであったという。

岬町史によれば閉坑前の会社の概要は

原料関係

埋蔵量約300万トン,レール(延)5km,役牛2頭,
従業員8名,採取能力20トン/日,4800トン/年

製造関係

倉庫3棟(75坪),作業場4棟(242坪),乾燥小
屋5棟(240坪),乾燥能力1200トン,従業員9人

となっている1)。レールの延長が延び生産効率が悪化していく一方,人工のクレンザーの出現などで1969(昭和44年)に会社は操業を停止した。

現在,千葉県で白土を採掘しているのは館山市に1ヵ所あるのみである。

白土採掘坑跡では県立大原高等学校生物部によって1983(昭和58)年にアルビノ(白子)のコウモリが発見され,稀少動物の生息地となっている。

(齊藤 望)

地形図 「上総長者」(略)

写真11-1 採掘坑入口 (1997年)
写真11-2 房総白土商会工場跡
会社名の一部「房」の文字が残る(1997年)

参考文献

1) 岬町:岬町史,岬町,1983年
2) 高橋直樹:三岬町井沢に産する“白土”及びその採掘坑について,1996年
3) 千葉県立大原高等学校生物部:COMMUNI‐CATIONWITHNATURE クラブ記念誌版,大薮健,1985年


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