ともえばし

34 巴橋


館山市

交通関係・道路・道路橋

橋長11.0cm,幅員3.0m
1906(明治39)年

旧神戸村(現在の大神宮)は,四国の阿波(徳島県)忌部一族の一部を率いて黒潮に乗り,沃土を求めて房総半島を開拓された天ノ富命が,その祖神天ノ太玉命を祀った安房神社のある所で,大神宮の地名は故なしとしない。また,千祥寺が,巴川を少し上ったあたりの竜岡には小塚大師が,神余の弘法井戸が,更に足を進めると汐入川の上流へとつながる。その上流の出野尾には小網寺がある。このように,神社仏閣などの多いのがこの地域の特徴として上げられよう。

巴川の最下流部にひっそりとした佇まいをなして架かっている石橋が巴橋である。白浜町への街道(市道5002号線)と巴川との交わる地点に造られたアーチ状の橋で,その諸元は次の通りである。

構    造:石造アーチ形上路橋(1径間)
規    模:橋長11.0m,幅員3.0m
         (歩0.0+車3.0+歩0.0)
        1径間,アスファルト路面。
材    質:砂岩
橋    格:2等橋

ここで,巴橋より上流,神余(カナマルまたはカナマリと呼ぶ)にも街道が巴川を渡る橋として,石橋が造られている。

旧富崎村は,相浜・布良の2区0.78km2の県下最小の村に,人口3000余という当時密度最高の漁村であった。耕地に乏しいので,布良の千枚畑といわれるように,山の頂きまで耕し,畑百枚の持ち主といっても1反にも満たない程である。マグロやカツオ取りの舟は,昔は漁場に近い布良の港を根拠地にしていたのであるが,気象観測も発達しない頃のことであるので,遭難する船が多く,俗に「布良の後家船」または「遺るな船」などと呼ばれていた。

また,平砂浦に注ぐ巴川の上流にあった旧豊房村は,往古神戸の50戸に余った余戸を移した山間盆地の神余地区と,鏡ヶ浦の沖積平野の一部をなし,内湾に注ぐ汐入川の上流の流域地区とから成る純農山村であった。さらに,神戸・西岬の海岸地帯と共に白土の採取が行われていた。とは言え,当時,木橋が一般に広く使われていたことなどからして,当地域の石橋が地域性を色濃く持った橋と言えないだろうか。

(瀧 和夫)

地形図 「館山」(略)

写真34-1 巴橋全景(1997年)

参考文献

1) 千葉県館山市橋梁台帳
2) 館山市編さん委員会:館山市史,第一法規,1971年
3) 君塚文雄著:ふるさとの想い出 写真集明治大正昭和館山,国書刊行会,1981年


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