きゅうみょうがねずいどう

43 旧明鐘隧道


鋸南町

交通関係・道路・隧道

1888(明治21)年

金谷から元名,保田を通って富山町へぬける街道が明鐘街道である。そのなかで,最も難所といわれる明鐘岬に明鐘隧道がある。この開通以前は,明鐘岬には,岸壁が海に迫っており,「関東の親知らず」と呼ばれ,ほとんど道らしい道はなかった。上総への交通は,磯伝いの徒歩によるほかは,保田からの舟便を利用して百首(天羽町竹岡)や天神山に至るものであった。その後,千葉県が置かれてから,行政区域が拡大したことと,郵政業務の諸制度の確立にともなって,県庁から各大区取扱所に対しては,毎日往復便を差し立てることが予定され,道路整備に一層力が注がれるようになった。

1879(明治12)年になると,県会で県下の需要路線の道路,橋梁等の支出について審議されたが,その必要性について強調されながらも財政難から進展しなかった。しかし,初代安房四郡郡長重城保,二代郡長吉田謹爾らが全力を傾けて,この事業にあたった結果,1888(明治21)年春,明鐘街道はついに完成した。

旧明鐘隧道もこの時開通した。当時,夏目漱石をはじめ多くの文人がこの隧道を通り,その景観に魅了されたといわれている。

1943(昭和18)年になると一般国道とは切り離して,木更津高柳から富崎村布良間の72kmが軍事国道に指定されて,軍事目的のための道路として,工事がすすめられたが,終戦によって中止となってしまった。しかし,産業振興,観光開発等の面で,南房総にとっては最重要道路であったことから,県と共に幾度となく国に請願した結果,ようやく改修が続行されて,1952(昭和27)年に完成し,明鐘岬郡境より富山町境にいたる延長7614mは全線舗装道路となった1)。

現在,127号線には明鐘岬に4つの隧道があり,鋸南町に入って最初の隧道が明鐘隧道である。しかし,当時とは地形も変化していると思われ,現在の元名第2隧道の海側に残されているものが旧明鐘隧道であると推測される2)。

現在,旧明鐘隧道は使用されておらず,危険防止のため人が入れないように木戸で封鎖されている。そのため,なかの様子をうかがうことはできないが,その場所からみる景観はいまでもすばらしい。

(小早川 悟)

地形図 「保田」(略)

写真43-1 旧隧道跡(1997年) 

参考文献

1) 鋸南町史編纂委員会:鋸南町史,国書刊行会,1969年
2) 千葉県教育庁生涯学習部文化課:千葉県歴史の道調査報告書十六「房総往還II」, 千葉県教育委員会,1991年


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