ひがしにほんここのええき

50 JR東日本九重駅


館山市

交通関係・鉄道・駅舎

木造平屋
1921(大正10)年6月1日

1850(嘉永3)年,鳥海酔車著の「房陽郡郷考」によると,館山上町・中町・下町と新宿町の4町,新井浦・楠見浦の2浦,北条村以下84ヶ村,全世帯数は5660世帯。この中には船形村のように528世帯もある大村もあれば,新宿村や北下台付のように土地だけの無民戸の村もあった。一方,1975(昭和50)年と1980(昭和55)年の国勢調査で旧九重村の世帯数を比較してみると昭和50年が476世帯に対して昭和55年が472世帯と農山村であるだけに世帯数にほとんど変化がない。おそらく,九重村の世帯数については幕末からさほど大きな変化はなかったと思われる。これに比べ,海岸部にある船形地区は幕末に528世帯であったものが1615世帯と激増している。

九重村は,鏡ヶ浦沖積平野の穀倉をなす水田卓越地域で,純農村の残象を存し,九重の大井地区は梨栽培と庭木育成が盛んである。1921(大正10)年6月1日,館山と千倉を結ぶ鉄道が開通し,その中間駅として,九重駅が造られた。館山市史によると

「駅の開業は大正10年6月1日で,昭和44年7月11日電化した。44年10月1日現在,駅長1 名,助役1名,予備助役1名,通運係2名で構成された駅である。この駅の後背地も浅く,1日平均450人内外の人が乗り降りしている。ただ,真野大黒天のご開帳の日は時ならぬ人出で賑やかとなる。」と記されている。

その後,近隣の駅の中で最も早く無人駅となった。もうかれこれ25〜26年になる。その当時の駅関係者は,他に空豆(ワム3両ほど)及び白土(月に2両ほど,白土の産地は山本や稲である)の積み出しが行われていたのみであったと語っている。

駅舎は木造平屋で,待合室,事務室,宿直室,そして,給湯室から構成されている。ここで,待合室には当然のことながら,腰掛け用の長椅子と改札口があり,事務室には出札室が備えられ,切符販売が行えるようになっている。待合室,駅舎の内装は当時のものとは異なり,壁面は合板材に,また天井は石膏ボード材に改装されており,よごれが目立つ。

館山駅舎が東京駅を模した一対の三角屋根をもつ駅舎(大正8年5月24日開業,平成10年2月一部を,平成11年7月には全体を取り壊し,新駅となる予定)であり,地理的・歴史的にも南総の要衝として位置づけられていたことや那古船形駅が千倉港と肩を並べるほどの漁獲高を誇る港を抱えた駅であることと比較すると九重駅は駅としての特徴はうすい。

(瀧 和夫)

地形図 「千倉」(略)

写真50-1 九重駅舎(1997年)
図50-1 JR東日本九重駅建物平面図4)

参考文献

1) 千葉県企画部広報県民課編:千葉県のあゆみ,1983年
2) 千葉鉄道管理史
3) 館山市編さん委員会:館山市,第一法規,1971年
4) JR東日本千葉鉄道管理局:JR東日本九重建物平面図,1979年


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