ひがしにほんやもめきょうりょう

61 JR東日本山生橋梁 


鴨川市

交通関係・鉄道・橋梁

全長1,647.8m,脚高11.5m,幅5.9m
1920(大正9)年

千葉県内の鉄道網は明治期にほぼ現在の形に完成するが,蘇我から外房,内房回りの線路が鴨川で結ばれるのは1929(昭和4)年と大きく遅れる。外房地域は1899(明治32)年に大野丈助の房総鉄道が蘇我〜大原間を開通させている。

しかし,一方の内房地域は江戸時代から物資の輸送基地である「湊」が整備され,明治期も依然海上交通が隆盛だったことや,地形が複雑で工事が困難だったことなどの理由で鉄道敷設が遅れた。しかし,1912(明治45)年に木更津,1919(大正8)年に館山,1925(大正14)年に鴨川まで工事が進み,ようやく外房と内房が結ばれることになる。

JR内房線江見〜太見の海岸線をまたぐように架かる山生橋梁は,1924(大正13)年の房総西線の延伸に合わせて建造された全長1647m,脚高最大11.2m,橋脚15本を持つ鉄道橋梁である。

構造は,鉄筋コンクリートT形はりで,1920(大正9)年に架けられた。この形式(T形はり)の橋梁は2年前に山手線巣鴨駅の跨線道路橋に用いられたのが最初であるが,鉄道用としては本橋梁が最初になる。

設計は,鉄道院総裁官房研究所・柴田直光で,その工事報告はイギリスの雑誌「Concrete and Con‐structional Engineering」の1930(昭和5)年2月号に掲載された。断面は図61-2に示す通りで,スパン30フィート(9.14m)のT形桁が16連架設された。

本橋梁は,海岸線に沿って緩やかにカーブし,橋脚の一部は満潮時に浸水する厳しい自然環境下にある。特に塩害による鉄筋の腐食が懸念されていたが,1983(昭和58)年に行った調査では一部に鉄筋の発錆などが見られたもののおおむね健全であり,入念な施工が行われれば,こうした環境下でも長期間の使用に充分耐えうる鉄筋コンクリート構造物が実現できることを証明した。

わが国のコンクリート橋梁の歴史は明治30年代にさかのぼることができるが,大正期に入ってようやく一般にも普及して従来の煉瓦・石積み構造にとって代わることとなる。山生橋梁は初期における鉄筋コンクリート構造物の中でも比較的規模の大きいものとして,また形式的にもアーチ構造から桁・梁構造へと進化する記念碑的な意義を持つ構造物であり,また鉄筋コンクリート構造物の長期耐久性を実証する構造物としても貴重である。

(齊藤 望・小野田 滋)

地形図 「安房和田」(略)

写真61-1 山生橋梁全景(1997年) 図61-1 干葉県の鉄道網
図61-2 山生橋梁断面1) 図61-3 山生橋梁全体図2)

参考文献

1) 国鉄:鉄道技術発達史L・第2篇(施設),国鉄,1959年
2) JR東日本館山保線区 橋梁台帳
3) 宮本征夫“鉄道橋における被害の実態”コンクリート工学,Vol.25,No.11,1987年
4) 千葉県:千葉県史 明治編,千葉県,1962年
5) 千葉県の鉄道史


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