せいそうでんしゃだいいち・だいにとんねる

64 成宗電車第1・2トンネル


成田市

交通関係・鉄道・隧道

第1トンネル 全長40.8m,坑門高9m
第2トンネル 全長12.2m,坑門高9m
1910(明治43)年12月

成宗電車とは,成田山参詣客を対象としたナローゲージの電気鉄道で,1910(明治43)年12月11日に開業し,1944(昭和19)年に廃止された成田鉄道の通称である。

開業当時,成田山は全国からの参拝客で相当な繁華街が形成されており,需要は充分見込まれてはいたが,既に駕篭による参拝客輸送が確立していたため,この鉄道の工事には,賛否両論があり,一時は成田山までも巻きこむまでになった。このことは,昭和時代の戦争激化で成田鉄道が全線廃止になるまで続いた。

成田鉄道及び第1・第2トンネルの沿革は次のとおりである。

1909(明治42)年10月
 トンネル工事中(資材現場到着)
1909(明治42)年12月
 トンネル完成
1910年(明治43)年11月
 軌道敷工事着手
1910(明治43)年12月11日
 成宗電気鉄道(成田山門前〜成田駅前)開通
1911(明治44)年1月20日
 成宗電気鉄道(成田駅前〜宗吾)開通
1916(大正5)年
 社名変更 成宗電気鉄道を成田電気鉄道に変更
1927(昭和2)年
 社名変更 成田電気鉄道を成田鉄道に変更
1937(昭和12)年6月16日
 本社前〜省線駅前間を廃止
1944(昭和19)年12月11日
 戦争による資材転用のため全線廃止 会社解散

現在,成田鉄道の軌道敷は全て道路(市道)に転用され,当時の面影を偲ぶものは成田市上町地先に残る第1トンネルと第2トンネルだけである。このトンネルは隣接しており,形態的にはほとんど同一であるにもかかわらず,全く異なった工法が採用されたと伝えられている。

第1トンネル(市役所側)は,開削工法(全体の土砂を取り除き,トンネルを組み上げてから埋め戻す工法)で施行されたのであるが,第2トンネル(成田山側)はいわゆるトンネル工法(地山を掘削し,煉瓦を積みながら裏込を行う工法)で施行されている。通常,この規模のトンネルであれば,開鑿工法が適しているのは言うまでもないが,第2トンネルの地表部には墓地があり,これを避けるために,トンネル工法が採用されたのではないかと思われる。

第1トンネル,第2トンネルの抗門は,市役所方,成田山側とも全て同一の造作である。軒は櫛型飾積を施し,ピラスターを備えているが,笠石,帯石,題額はない。アーチ環は6枚巻で,翼壁,ピラスターは上端部に小口縦積の飾りが施されているほかは,全てイギリス積である。

なお,道路であるため部分的な実測しかできなかったが,法量は次のとおりである。

・第1トンネル
全長=40800mm 抗門高=9000mm(市役所側) 
アーチ環半径=3600mm アーチ環腰高=1300mm
市役所側ピラスター=4500mm(間口)×900mm(奥行)
成田山側ピラスター=4500mm(間口)×900mm(奥行)
市役所側翼壁長=2.0m  成田山側翼壁長=3.6m
・第2トンネル
全長=12200mm 抗門高=9000mm(市役所側) 
アーチ環半径=3540mm アーチ環腰高=1500mm
市役所側ピラスター=3000mm(間口)×900mm(奥行)
成田山側ピラスター=5000mm(間口)×900mm(奥行)
市役所側翼壁長=4.0m 成田山側翼壁長=5.5m

第1トンネルの現況は,アーチ環や内部に煉瓦の剥落やクラックが多少見られるほか,自動車による接触痕が見られる程度で,内部には架線を下げるためのハンガーが残っている。

第2トンネルは市役所側,成田山側ともに,坑門に亀裂が入っており,その亀裂をコンクリートで埋め,鋼材でつなぐ補強がなされているが,煉瓦積みの状態は良好である。また,トンネル内部は煉瓦表面の剥離が広範囲に見られる。

第1トンネル,第2トンネルとも経年劣化による損傷は否めないが,側壁の押し出し,はらみ出し,天端部の圧座,崩落,底盤の押し上げなど,危険を伴う変化は全く見られず,今後もこのままの状態で推移するものと思われる。

(山下耕一)

地形図 「成田」(略)

写真64-1 成宗電車第1トンネル成田山側(1997年) 写真64-2 成宗電車第2トンネル成田山側(1997年)
写真64-3 成宗電車第1トンネル内部(1997年)

参考文献

1)成田市役所:トンネル調査業務依託報告書,成田市役所,1990年
2)大野政治,小倉博:明治大正昭和成田,国書刊行会
3)白土貞夫:ちばの鉄道一世紀,崙書房,1996年


Back
Home
Up
Next