ふながたとってい

67 船形突堤 


館山市

交通関係・海事・突堤

堤長30.5m,堤高4.7m,水叩幅員6.0m
1873(明治6)年

館山湾は波静かなること鏡の如く,一名鏡ヶ浦,また菱花湾(菱花は鏡の異名)とも呼ばれ,遠浅の海を成し,北は大房,南は洲ノ崎の二半島に抱かれた湾内には,沖・鷹(高)の二島が絵のように浮かんでいる。湾には1950(昭和25)年から5ヶ年計画で修築された船形漁港がある。

遠い近世以前はさておき,この地域は1614(慶長19)年9月9日,里見氏第10代忠義が改易になるまでは全て里見領であったが,その後幕府の直轄領(天領)や屋代・水野・稲葉氏などの大名領となるなど変遷を重ね,幕末1850(嘉永3)年鳥海酔車著の「房陽郡郷考」によると,館山上町・中町・下町と新宿町の4町,新井浦・楠見浦の2浦,北条村以下84ヶ村からなっていた。この中には船形村のように528戸もある大村もあった。

船形突堤は船形漁港の最も内側(陸側)の防波堤である。この港は南は黒潮洗う太平洋に面し,北は船形山・那古山を連ねる丘陵に寒風を遮られ,西は相模灘を隔てて遙かに富士・箱根・天城の名峰を望み,東は房州脊梁山脈が僅かに東西斜面の分水嶺をかぎり,冬暖かく,夏涼しく,南国的な明るさを備えた,西風を防ぐ天然の良港であると言える。里見水軍の港の一つとされており,頼朝の時代に鎌倉へ里見水軍が派兵されている。

港の最初の修復(普請)は古く1855(安政2)年に行われた。陸から突き出た岩盤を上手に利用したもので,港の東側突堤は当時のものを今も利用した形になっている。隆起と港内浚渫土砂の捨て場などを突堤の周囲に求めたために,当時の突堤の一部を陸上に見るのみとなっている。現在の港(防波堤)は,1973(明治6)年に大風で壊れたのを正木清一郎氏の手により再建したもので,その後の関東大震災,太平洋戦争のため,漁港整備は立ち後れていた。当時の資料は関東大震災で消失してしまった,とのことである。

かって,船形漁港はその付近がカツオ漁に必要な生餌を得やすいことから,一時は東京湾口を挟んで岬漁港とその水揚げ量を競ったものであるが,漁港施設の立ち後れによって水揚げが伸び悩んでいた。

1950(昭和25)年から整備事業に着手し,平成5年まで5回にわたって港の拡張工事が成され,その度に新たな防波堤を沖に造り,港を拡大・堅固なものとしてきた。1951(昭和26)年7月10日には第3種漁港(港の利用範囲が全国的なもの)に指定されている。

その構造は次の通りである。

構造:鉄筋コンクリート造防波堤(ただし,既設石積防波堤の包み込み方式採用)
規模:堤高4.70m(天端高十2.20m) 水叩幅員6.00m, 堤長30.5m
種別:第3種漁港

この船形突堤は通常,漁船の船着き場として利用されている。

千葉県史(明治編)の近世交通の冒頭に,「房総の水陸交通路線は江戸との結びつきによって発達しました。」と記されている。明治年代に入っても同じで,房州から東京まで陸路を歩けば4日もかかるのに,鮮魚運送の押送り船なら順風下の帆走で約10時間,櫓こぎでも一昼夜で行けたわけで,水運が重視されたのは当然である。昭和に入っての当時の様子を館山船形漁業協同組合長の田川直氏は次のように語っている。「漁業組合員は600人(1945(昭和20)年〜1955(昭和30)年代)であった。イワシ漁には1パイ30〜40人乗りの船4〜5ハイを1船団とし,7船団ほどが当たった。水揚げしたカツオなどはヤホをつけた八丁櫓で夜中出港して朝方日本橋の市に間に合わすと言った具合で,帰りは帆でのんびりと帰ってきた。冬,館山湾での漁が終わると,あじ,鯖,イカを求めて大型船は海を,また,1〜2人乗りの小型船は馬車に乗せて陸路で千倉に移動し,春まで漁を続け,再び来た道を戻り館山湾で漁をした。」とのことである。

話は明治に戻るが,そうこうしている内に,1878(明治11)年と1880(明治13)年に汽船会社が起こり,人と物資の移動が益々賑やかになってきた。関東地方通運史や千葉県史に当時の航路が記されており,船形が汽船の寄港港として利用されていたことがわかる。ちなみに,1897(明治30)年には1日3往復の汽船が就航していた。乗客運賃は東京まで25銭である。東京・房州間航路は昭和になってもなお存続してたが,大正2年以降乗客数は急激に減少し,大正8年以後は旅客輸送としての重要性はほとんど失っていた。ここで,1919(大正8)年とは鉄道が安房北条まで延びた年である。

(瀧 和夫)

地形図「那古」(略)


写真67-1 現在の船形突堤(石積突堤を芯壁として造られている) (1997年)

写真67-2 館山船形漁業協同組合に建立されている正木清一郎氏の銅像
(現在の船形漁港の礎として尽力された) (1997年)

写真67-3 当時の西防波堤(地盤の隆起などで,現在では陸の上にその一部を見ることができる)(1997年)

図67-1  船形漁港と船形と突堤構造図2)

参考文献

1) 千葉県:千葉県史大正昭和編,千葉県,1967年
2) 千葉県水産部漁港課:漁港資料集(構造編),1984年
3) 鳥海酔車:房陽郡郷考
4) 君塚文雄:ふるさとの想い出 写真集明治大正昭和館山,国書刊行会,1981年


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