とねうんが

68 利根運河 


柏市,野田市,流山市

土木関係・河川・運河

全長8.4km
1890(明治23)年

柏,野田,流山の3市を流れ,利根川と江戸川を結ぶ全長約8.4kmの「利根運河」1)2)(写真68-1)は,1890(明治23)年3月25日に通船営業を開始した。そして,1941(昭和16)年7月22日の洪水で航路が使用不能になるまでの50年間,通船路としてその役割を担った。現在,運河岸上には遊歩道も完備され,自然環境にも恵まれ,かつ水路自体もほぼ完全な形で残されており,今や本運河は明治期の近代化遺産の一つとして極めて貴重な土木施設となっている。

「利根運河」のそもそもの開削目的は,

(1)江戸期から盛んであった銚子ー関宿ー江戸・東京の利根川ー江戸川水運ルートと水海道ー関宿ー江戸・東京の鬼怒川ー利根川ー江戸川水運ルートを短縮する。
(2)関宿から鬼怒川合流点までの利根川に多い浅瀬で生じる渇水時の舟航不能を避ける

ことにあった。運河開通の結果,距離にして38km,日程にして3日1日に短縮することができ,その効果は予想以上に大きかった。

運河が現在の場所に開削された理由として,この地が,前記の開削目的に適していたことのほかに,利根川,江戸川双方の側から沼地が深く食い込んでいる地形のために他のどの地点よりも土工量が最小になると見られたことが考えられる。

開削計画は1881(明治14)年に,当時,茨城県会議員であった取手市出身の廣瀬誠一郎が茨城県令の人見寧らに陳情したのが始まりで,これを受けて人見は1884(明治17)年5月に運河開削を行いたい旨の建言書を太政官へ送った。

この運河計画に対して,運河開削地千葉県の県令船越衛は,当初,鉄道敷設計画がある,利根,江戸両川の水理が不明である,沿線の民情を察しなければならない,工事費が莫大である,等の理由を挙げて強く反対したが,後に運河開削に同意した。さらに,江戸川を介して隣接する埼玉県も利根川から運河を通って江戸川へ洪水が流入し被害を受ける恐れがあると強く反対した。埼玉県の「利根運河」への要求は激しく,洪水流入止め水門の建設を強く要求した。この水門(「水堰」と呼んだ)の工事中にも埼玉県は技術者を現地へ派遣し,千葉県の技術者らと折衝している。このように紆余曲折があったが,工期ほぼ2年,工費約56万5千円,作業員延べ220万人程を要して1890(明治23)年に完成した。

通船事業は明治23年から昭和16年の中頃までの50年間行われ,この間の総通船数は和船,汽船合わせて約100万隻,年平均2万隻程であったと言われている。しかし,鉄道や他の陸上交通機関の発達に伴い,大正期に入ってから和船の通船量が減少し始め,昭和10年頃には和船,汽船合わせて1日20隻程度にまで少なくなっていた。

「利根運河」の誕生から現在までの経緯を整理すると,次のとおりである。2)

(1)1885(明治18)年2月25日:ムルデル三島内務省土木局長へ運河計画書を提出
(2)1885(明治18)年6月17日:千葉,茨城両県協議書締結
(3)1887(明治20)年4月:民間の資金だけで運河事業を行うため人見,廣瀬らは利根運河株式会社を創設 社長人見寧,筆頭理事廣瀬誠一郎
(4)1887(明治20)年6月21日:ムルデルとデレーケ運河計画の訂正書を土木局長西村捨三へ提出
(5)1887(明治20)年11月10日:利根運河株式会社へ千葉県より運河開削認可
(6)1888(明治21)年7月14日:起工式
(7)1890(明治23)年2月25日:前線通水
(8)1890(明治23)年6月18日:竣工式
(9)1941(昭和16)年7月:洪水により壊滅的被害を受ける
(10)1941(昭和16)年12月31日:内務省「利根運河」買収を決定
(11)1975(昭和50)年:建設省が野田緊急暫定導水路として整備,現在に至る

廣瀬誠一郎は1837(天保8)年に下総国北相馬郡下高井村(現:茨城県取手市)に生まれた3)4)。1880(明治13)年に小堀河岸(現:茨城県取手市)の寺田勘兵衛,水戸街道藤代宿(現:茨城県藤代町)の本陣横瀬主作(「72柳原水閘」の設計者井上二郎の父)らと生糸製造会社「共成社」を興し,その頭取となった後,1882(明治15)年2月より1886(明治19)年7月まで茨城県北相馬郡長を務め,1887(明治20)年から「利根運河」の開削に本格的に取り組み,「利根運河」完成直前1890(明治23)年に54歳で病没した。廣瀬は郡長として小貝川の岡堰と下流の豊田堰を管理したが,その功績は1919(大正8)年岡堰畔に建てられた「岡堰築造記碑」に刻まれている。

小貝川の福岡,岡,豊田の各堰は関東三大堰と称せられ,共に古い歴史を持っている。岡堰のすぐ近くに小貝川を挟んで間宮林蔵(1775-1844)と廣瀬誠一郎の生家がある。間宮は岡堰に駐在する幕府の役人に認められ,以後の進路が決まったと言われており,岡堰とは密接な関係にあった。

運河に関連する貴重な明治期の煉瓦造水門(写真68-2)3)が利根川側運河入口近くの水堰橋に隣接して現存(野田市)している。銘板には水門名はないが,建設年は1908(明治41)年と刻まれている。明治期に千葉,茨城両県で建設された煉瓦造水門に特有な鼻黒・横黒煉瓦が使用されている単一アーチ逆水止め水門である。「水堰」や「今上落悪水路伏越」など明治期に建設された運河の諸施設が無くなってしまったいま,この水門は,水門としての役割は終えているものの,橋としては現役であり,明治期に建設された煉瓦造の近代橋梁として極めて貴重な産業遺産である。

(是永定美)

地形図「流山」「守谷」(略)

写真68-1 利根運河(1995年) 写真68-2 煉瓦造水門(1994年)

参考文献

1)(社)工学会,(財)啓明会:明治工業史(土木篇),工学会明治工業史発行所,1929年
 [(財)学術文献普及会復刻版1970]
2)利根川百年史編集委員会編:利根川百年史,建設省関東地方建設局,1987年
3)是永定美:土木史研究,第16号,p.491,1996年
4)是永定美:土木史研究,第18号,p.287,1998年


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