そうまていぼう

70 相馬堤防 


小見川町

土木関係・河川・堤防

延長5,400m
1882(明治15)年〜1885(明治18)年

1911(明治44)年に筆録された「相馬家履歴」によると,相馬源右衛門は1848(嘉永元)年小見川町一之分目篠塚家に生まれた。相馬家は代々地頭田附四郎兵衛の支配下にあり,源右衛門ははじめ源八と称し弘化年間に地頭の賄方を命じられて勤勉していたところ,仕事上のことで紛争が起こり,地頭に非を帰するに忍びないため自ら責任を負い所払いの形式で当時「ニジューヤ」と呼ばれていた利根川左岸の一之分目地先の雑草地を開拓し,ここに移った。この地は利根川と浪逆浦の間に挟まれた土地で,たびたび洪水に見舞われ,人家は1軒もなかった。源右衛門が開拓して耕地とした水田からは,1反歩あたり2石(5俵)あまりの米が収穫できるようになり一之分目村の農民も次第に移り住むようになった。8年後の安政3年には戸数30戸の記録がある。

農民は互いに協力して70町歩あまりの田畑を開拓したが利根川の出水による被害に悩まされた。利根川治水は幕府の政策で進められていたため下流の小見川沿岸の堤防はなかなか築堤が許されず,1831(天保2)年に新たに水神川を開削したときに,その掘り上げた泥土を僅かに積んだ堤防が許されただけで大した役には立たなかった。強固な堤防を築堤して新田を水害から守るのが源右衛門,信篤父子の悲願であったが,源右衛門の代には達成することができずに死亡した。

信篤の代になり明治に入ってからも洪水被害は続き,1882(明治15)年・1885(明治18)年には大きな被害を受けた。信篤はついに自費での堤防築堤を決意し,私財を投じて一之分目から小見川に至る30軒(約5,400メートル)の堤防の修築を行った。これにより洪水の被害を免れることができ,農民は相馬堤防と呼んで感謝の意を表した。現在も一部が町道として共用されている。

源右衛門の創業の業績はその没後に彼を祭神とする神社が創設されるほど村民に敬仰され,香取郡誌(1920年 岩堀角次郎)の人物誌の「相馬源右衛門父子」の「履歴」の最後には,

 「・・・・・・未タ其ノ功完タカラサルニ慶応二年九月六日歿ス移民等之レヲ遺憾トシ其ノ霊ヲ 慰センカ為メ明治五年社地ヲ相馬信篤邸内米申ノ一隅ヲトシ社ヲ建テ河内宮ト祭ル毎年九月六日移民三拾戸ノ子孫各自耕シ得タルトコロノ農産物ヲ携へ相集リテ神前二祭典ヲ行フヲ例トス未タ嘗テ欠クコトナシ」

という記述がある。

(池田文彦)

地形図 「佐原東部」(略)

写真70-1 堤防の一部(1996年)

参考文献

1) 小見川町史編さん委員会:小見川町史,1991年
2) 岩堀角次郎:香取郡誌,1920年


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