みしまだ゛むとすいろようのとんねるおよびちょすいちとう

77 三島ダムと水路用のトンネル及び貯水池等


君津市

土木関係・産業土木・堰堤等

灌漑面積 2619.6ha,貯水量 5,400,000立方m ,
水路総延長 42,496.63m
1943(昭和18)年〜1968(昭和43)年

小糸川両岸の清和,小糸,君津,富津,大左和の五ヶ町村は,この地区の中央を流れる小糸川の河床が低く河川水の耕地への自然流入は不可能なため,小規模高揚程の揚水機,掘井戸,渓流,小溜池等に頼るほかは大部分が天水田で水源に乏しく,年々旱魃を被る状況のため,根本的改革を必要とするものであった。

昭和の初め,幾度かの旱魃に見舞われた小糸川沿岸の農民が,旱魃のない農業を目標として小糸川沿岸用水改良事業を施行した。当初予定した工期は5ケ年間で,事業費は200万円であった。ところが,最終的には,総額10億3000万円余の経費と26カ年の歳月を費やす結果となった。

建設に至る経緯は次の通りである。

小糸川流域は用水源に乏しく年々旱魃を被っていた。1927(昭和2)年,1929(昭和4)年,1933(昭和8)年および1934(昭和9)年と相続く旱魃にみまわれた。このため,県会議員の協力のもとに関係町村長の連署をもって農水省および千葉県知事(石原雅次郎)に陳情した結果,了承され計画立案する運びとなった。1937(昭和12)年には,農水省と県の技術者が協力して基本調査が開始され1938(昭和13)年に終了した。また,関係町村長が協議に入り,普通利水組合を結成することを決め,その推進母体として各町村に期成同盟会を組織し,さらに連合会を置いて規約,役員等を決定した。この会は,事実上の期成同盟会連合会の結成を意味するものとなった。1939(昭和14)年,利水組合結成に努力したが,揚水機を設置してある下流6カ町村の賛成が得られなかった。

1940(昭和15)年,食料事情が悪く,内地米の不足分を外米輸入により満たしていた年であり,米の増産について国をあげての急務とされていた。しかし,大旱越で農家は苦難の年となった。この事業を1日も早く軌道に乗せるべく,創立委員会が開催され,反対町村の説得に努力が払われた。さらに,千葉県知事(立田清辰)に「普通利水組合設置に不具状書」等を申請し,千葉県告示第890号を以て地域の指定があった。

1941(昭和16)年には県は説明会を開催し,同意が得られない町村を廻り説得にあたった。その結果,次第に賛成する部落が現れ見通しがついてきた。1942(昭和17)年各町村長は,総代会を開き「小糸川沿岸普通利水組合規約設立に関する件」を決定した。これにより,君津郡小糸川沿岸普通利水組合の設立が許可され,45名の組合会議員が選出された。

1943(昭和18)年,三島ダム建設によって水没するのは,三島村の山林約49.6ha(50町),田畑約19.8ha(20町)で,ダム建設によって三島村に得られる利益はなく,生活の根源である田畑を失うため,村民は村の衰亡を招くものであるとして反対した。

県と三島村との話し合いには,久留里警察署長も出席してまとめに努力した。その結果,1943(昭和18)年8月5日に川村千葉県知事の出席のもとで三島ダムの起工式を行った。工事は,戦争の激化に伴い,労力,物資に窮迫し,築堤工事は思うように進まなかった。また,戦後においても,物資の不足の状況が続いたが築堤工事は続行した。

1948(昭和23)年に,下流地域の塩害を防止する汐止堰を小糸川に造るため,協議に入り,1949(昭和24)年には,小糸川汐止堰事業の起工式を行った。

1955(昭和30)年に待望の三島ダムが完成した。その後,第1号幹線水路の工事に着手し,翌年に1号幹線が清和村粟倉地先まで完成,3号および4号隧道に連結し小糸町鎌滝地先まで通水が開始された。

1968(昭和43)年,26年の歳月を費やし,総事業費も10億3,231万6千円で工事が完了した。

(金成英夫)

地形図 「坂畑」(略)

写真77-1 三島ダムの余水吐堰と取水塔(1997年) 写真77-2 山裾を通る用水路(1997年)
写真77‐3 山を抜ける用水暗渠(1997年) 図77‐1 小糸川沿岸土地改良区受益地域

参考文献

1) 君津郡小糸川沿岸土地改良区:県営小糸川沿岸揚水改良事業のあゆみ,1996年
2) 君津郡小糸川沿岸土地改良区:水と圃場を拓して一創立50周年記念誌一,1994年
3) 君津郡小糸川沿岸土地改良区:小糸川沿岸土地改良区だより第1号〜第3号, 1995・1996・1997年


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