えんたいごう

78 掩体壕


茂原市

その他・掩体壕

高さ6.5m,幅22.8m,奥行き14m
1941(昭和16)年

この施設は太平洋戦争が勃発する直前の1941(昭和16)年9月に建設が開始された茂原海軍航空基地(戦略上は海軍525航空隊)の施設の一つであり,航空機を敵機からの攻撃から守るためのものである。基地建設にあたっては民家150戸余りと東郷小学校,寺社等が強制移転を命じられ,建設予定地以外の周辺地域であっても航空機の離着陸の障害となる建物の移転や立木の伐採が行われた。

基地の面積は240haの広さで,コンクリート舗装の滑走路の延長は3000mであったが,実際には完全な形で基地が完成する前に終戦を迎えた。掩体壕は飛行場の北側に約20基が築造されたようであるが,1994(平成6)年に行われた茂原市教育委員会の調査によると,現存するものが10基,消滅したものが6基の計16基が確認されている。

掩体壕の築造方法は,完成後空間となる部分に土砂を盛って転圧し,その上に「むしろ」や板を並べ,さらに金網や鉄筋を張ってコンクリートを流して固めた後に,土砂を掘り出したものである。コンクリートの厚さは30から50cm程度と均等ではなく,また築造された時代を反映してか,かなり荒い骨材が用いられていることが確認でき,コンクリートに写し取られた型枠板の模様とともに,築造当時の様子を垣間見ることができる。

大きさは格納する機種によって異なった4種類のものが築造されたが,茂原市が管理しているものはその中では最大の規模であり,総面積は356u,壕の内部の面積は286uあり,零戦2機を格納することができた。

完成した掩体壕には盛り土をして芝を張ったり,木や竹を植えて偽装をしていたが,上空から見ると一目瞭然であったという。

終戦後,掩体壕は土地と共に返還されたが,取り壊しは行われなかった。そのため個人で壊すには多くの経費が掛かるために農業倉庫や物置として使用されており,その多くが現存している。

そして1995(平成7)年7月,戦後50周年事業の一環として茂原市は掩体壕の保存を決定,風化していく戦争の記憶をとどめ,平和への新たな願いを市民に対して訴えていくことにし,現存する中で最大規模の掩体壕を選び,土地を地主から借り上げるという形で管理することとなった。

また県内には館山,旭地区等に掩体壕が残置されているが,旭,八日市場両市にまたがって設置されていた香取海軍航空基地跡には旭市内に1基,それより小型のものが八日市場市内に2基現存している。旭市にあるものは茂原市において管理・保存されているものとほぼ同型であるが,こちらのものは建設された時期が終戦間近であったため,骨材により荒いものが用いられていたり,型枠に「むしろ」が用いられている等の時代背景がうかがえる。

香取海軍航空基地は1943(昭和18)年8月に完成したものであるが,全国的に見て珍しいのは現在でも直角に交わった二条の滑走路が視認できることである。この土地は現在旭鎌数工業団地として再開発がすすんでいるが,一部では建設当時のままの碁盤の目のような5m四方のコンクリートが残存している。当時の工法,規模は防衛庁研究所戦史資料室に原本資料「干潟(香取)海軍施設実施方案」として保存されており,コンクリート打設の厚さや骨材の混合比等の工法,マカダム工法等の語句が見いだされた。最近になって旧滑走路の北端部は千葉県土地開発公社による再生処理工事が進められている。

(立川 勇・栗城一成・阿部貴憲)

地形図 「茂原」(略)

写真78-1 掩体壕(1997年)(茂原市管理のもの) 写真78-2 壕内部のコンクリートの状況(1997年)
写真78‐3 香取海軍航空基地跡(1993年)旭市役所提供

参考文献

1) 茂原市教育委員会:茂原海軍航空隊調査報告書,茂原市教育委員会,1996年
2) 防衛庁技術研究所:戦史資料室,飛行場設営関係資料D航空基地17
3) 市民が語る平和へのねがい委員会:旭における戦災と戦時生活,旭市役所,1997年


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