たてやまかいぐんこうくうたいあかやまちかようさい

79 館山海軍航空隊赤山地下要塞


館山市

その他・軍施設

1944(昭和19)年頃

1944(昭和19)年6月,サイパン島守備の日本軍の玉砕により米軍が上陸し,またマリアナ沖海戦で連合艦隊が大敗北し制海制空権を失うと,日本の絶対国防圏は崩壊した。大本営は翌7月に「本土沿岸築城実施要綱」で本土防衛の指針を示し,米軍の上陸阻止を主眼とする主抵抗陣地や主要火力施設などの構築を命じる。

館山・洲ノ埼海軍航空隊の南にある丘陵中腹には壕が張り巡らされ,作戦室あるいは戦闘指揮所として同年12月に完成していることから,東京湾要塞地帯が本土決戦に備えた本格的な準備に入っていたことがわかる。

1945(昭和20)年になると,館山海軍航空隊は米艦載機による激しい空襲を受けるようになる。そして3月6日,米軍に占領された硫黄島にP51ムスタング部隊が進出すると,安房地域は米軍との最前線に位置することになり,東京湾要塞地帯の軍事施設は戦闘機の攻撃対象となっていく。

この時期には,館山海軍航空隊の司令部,兵器庫,病院は館山市沼と宮城にまたがる赤山に張り巡らされた赤山地下要塞に置かれ,空襲と本土決戦に備えていた。山頂には燃料タンク2基が残っているが,未完成のまま終戦を迎えたという。

平成8年度の館山市教育委員会による千葉県文化財実態調査(産業・交通遺跡)実施時には,地下要塞に入るための数ヶ所の入口が開口していたが,現在は安全上の問題からすべて閉じられている。

(杉江 敬) 

地形図 「館山」(略)

写真79‐1 赤山地下要塞跡航空写真(1997年)
(写真提供 京葉測量株式会社)

参考文献等

1) 館山市史編さん委員会:館山市史,館山市,1971年
2) 愛沢伸雄:戦跡フィールドワークー東京湾要塞地帯に戦争の傷跡をみるーレジュメ,館山市館山地区公民館,1997年
3) 鶴岡五郎氏等からの聞き取り


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