めおとがはなちょうしむせんきょくてっかんちゅう

87 夫婦ヶ鼻銚子無線局鉄管柱


銚子市

その他・無線施設

長さ2.53m
1915(大正3)年1月

1908(明治41)年5月16日,海上郡本銚子町平磯台(現・銚子市川口町2丁目)に開局した銚子無線電信局の空中線を張るために建設された高さ約70mの基幹柱の一部である。これと同じものを22本重ねて柱を形成した。当時の日本国内にはこのような鉄管を製造する技術がなく,ノルウェーで手造りされたものを輸入して用いた。実際には鉄管柱は開局当初から建設されていたのではなく,開局後7年を経た1915(大正3)年1月に木柱から鉄管柱に建て替えられている1)。銚子無線局は開局間もない5月27日に我が国初の海上無線通信をシアトル航路に就航中の丹後丸(日本郵船所有)との間で成功させ,その技術は当時の世界水準に肩を並べる優れたものであった。当時の送信機は半導体はおろか,真空管でさえもその原理が発見された頃であり,誘導コイルの一次側をモールス符号で断続させて,その二次側に発生する高圧電流を放電させ,その放電を空中線から発信するという“低周波火花式”と呼ばれる方式のものであった。放電に伴って発生する高調波(ノイズ)を通信用として利用していたのである。当時の様子を記した本の中にはそのすさまじい音と光を雷のようだと記している2)。

1939(昭和14)年8月に業務拡大のため建設を進めていた椎柴送信所と小畑受信所が完成したことでこの2つに業務移転し川口送信所は廃止となったが,我が国の無線電信の発祥を示すものとして職員の有志により鉄管柱は保管されており,1983(昭和58)年5月16日,銚子無線送受信所の創業75周年記念として旧椎柴送信所内に建屋を設け,展示されていたが,椎柴送信所はその施設の性格上,市街地から遠く離れた所にあり交通の便が非常に悪く,観光案内等にもその存在が登場することはなかった。それゆえ展示された当初から見学に訪れた人はほとんどいなかったようである。

今日船舶に対する無線通信が人工衛星を用いた通信システムに移行し,モールス電信は時代遅れの通信法となっていった。そして通信業務を行なっていたNTTは無線電信局の統廃合計画を発表,1996(平成8年)3月31日をもって88年の歴史は幕を閉じた。局舎やアンテナ用鉄塔の解体作業に伴い,展示されていた鉄管柱に対するこだわりは職員の中でも一部の職員だけであり,またそれ自体の保存状態が決して良いわけでなかったので,廃棄処分が決定されたようである。

その後,地元千葉県立銚子水産高等学校での引き取りが決定し,現在では同校中庭に保存,展示されている。90年前の我が国の無線通信発祥の時を見つめていた最後の証人は鉄屑という最悪の道を辿る事なく,しばらくは我々にその歴史を伝えてくれることになったのである。

(栗城一成・阿部貴意)

地形図「銚子」(略)

写真87-1 保存,展示されている鉄管柱(1997年)

写真87-2 開局間もない頃の銚子無線局(大正年代)
(東京逓信博物館所蔵の絵画)

参考文献

1) 銚子無線送受信所:無線電信から70年銚子無線史,銚子無線送受信所,1979年
2) 篠崎四郎::銚子市史,銚子市,1981年


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