第2章 三番瀬とは?



三番瀬の概要

 三番瀬は、市川市、船橋市、浦安市沖の東京湾のいちばん奥に残された約1,800haの干潟と浅海域です(図1)。ここは多くの生き物の命に満ち溢れています。また、ここではアサリやのり等の漁業活動が行われており、人の暮らしの場ともなっています。しかし、周りはすべて埋立地であり、工場地帯(京葉臨海工業地帯)や住宅地になっています。
 千葉県は1951年に京葉臨海工業地帯造成計画の一環として、三番瀬の埋め立て土地造成を計画・構想しました。途中オイルショックで計画凍結がありましたが、1985年に再開され、1993年に740haの埋立計画が出されました。しかし、環境に配慮するという視点から1999年埋立面積の縮小(101ha)、そして、2001年埋立計画の白紙撤回という経過をたどり、市民参加で完全公開の「三番瀬再生計画検討会議」(三番瀬円卓会議)を開催し、2004年1月に「三番瀬再生計画案」ができました。

三番瀬(さんばんぜ)と読みます

 三番瀬(さんばんぜ)と読むのは、地元でそう呼んでいるからです。近世初頭ごろから船橋の占有漁場を表す海域名として、漁場をめぐる争いに関する古文書にでてきます。三番なので、一番、二番がありそうですが、文献には字高瀬・二番瀬・三番瀬とあるだけで、二番瀬の位置を示した地図はまだ発見されていません。
 国土地理院の地形図に、三番瀬の文字はまだありません。船橋海浜公園においては、以前の看板には前面に広がる海面が三番瀬という説明はありませんでしたが、2003年に船橋海浜公園は市民の公募により「ふなばし三番瀬海浜公園」と名称が変更されました。
 
江戸時代、干潟は村の領域

 盤洲干潟(木更津市)は東京湾に残された最後の自然干潟です。干潮時の盤洲干潟に行くと、砂地の地面がはるか沖合いまで広がっているのが見えます。
昔の東京湾はぐるりと干潟が広がっていました。江戸時代、東京湾内湾には102の海付き村があり、そのうち漁村は84、残り18は磯付き村といい、磯漁だけが許される農民の村でした。
 海付き村地先の干潟・浅瀬(櫂のとどく範囲)は「浦」と呼ぶ村占有のもので、そこではその村の人間だけが、村に属する漁業権である磯漁(漁具を使うことができない)を行い、海底の貝や海藻を採っていました。浦の沖合いと浦の水中において、専業漁民だけに漁具をつかった沖漁が許されていました。
 海の利用のルールは、漁場をめぐる争いや船や漁具の開発による資源枯渇などのその時々の問題を解決するためにつくられてきました。
(小川かほる)


みんなで考えよう。
 近代化に伴ない、私権が確立していくなかで、海のようにみんなが利用する公共財の利用のルールはどのように変化してきたのでしょうか。「海は誰のもの? 人間はどのように利用できるのか?」を三番瀬の経過から考えてみませんか。

三番瀬問題を考える時の視点
  • 山,川,海の変化する自然の営みにより生成した干潟
  • 日本の近代化の中での東京湾の開発
  • 公害問題を発生させた早急な工業化
  • 東京都市圏からの自然の喪失
  • 経済情勢の変化・環境保全の高まりによる三番瀬地域の市川二期地区・京葉港二期地区土地造成
  • 事業計画検討の長期化
  • 周辺の街づくりの停滞
  • 水質汚濁と埋め立てに翻弄されてきた漁業
  • 公共財として,海は誰のものか(浅海の生態系保全と人の利用)