第1節 地域の医家の発展  第2節 はやりやまい(天然痘)と人々の闘い
■佐倉順天堂 


10 堀田正睦肖像画(写真)
佐倉市教育委員会提供
(原品/堀田正典氏蔵)


11  佐藤泰然肖像画(写真)
国立民俗歴史博物館提供・保管、
佐倉市教育委員会所有
「西の長崎 東の佐倉」といわれるまでに、幕末から明治にかけて日本医学の近代化を推進させたのが、佐藤泰然(1804〜1872)による順天堂である。佐藤泰然は長崎遊学後、江戸薬研堀に蘭学塾和田塾(天保9年:1838*)を開き、蘭書より得た知識を臨床に応用し、経験を積んだ。そして天保14年(1843)、開明君主として名高い佐倉藩主堀田正睦の招きによって、城下に私立病院順天堂を開業した。
  順天堂は、当時の最高水準の医療を有しており、蘭学の塾も併設し、その門下生は百数十名を越え、世に「日新医学は佐倉の林中より出つ」と謳われ、「佐倉に遊ぶ」ことは医書生のあこがれとなっていた。また、佐倉順天堂の功績の一つに種痘の普及があげられ、泰然は、早くから種痘を研究し、長崎の蘭医モーニケが牛痘接種に成功(7月)したのと同じ年(嘉永2年:1849)の12月に関東の他藩に先駆けて採用している。藩主堀田正睦は、自分の子女に実験してその無害を証明し、領民に施したという。