第1節 高野家の略系図  第2節 高野家に遺された医療関係資料  第3節 高野家の医家としての活動範囲

◎高野家の祖
  高野家は、土岐氏の家臣であった秋山淡海守を祖に持つ。敬仲の父は、秋山与衛兵で、常州(茨城県)生板村の出身である。生板村は、龍ヶ崎市の隣の河内町に属する。

◎初代敬仲・2代目敬仲(大年)
  初代敬仲は若いとき、医師岑右膳を師とするも、志新たに眼科学を学ぶことになる。おそらく、岑右膳は漢方医だったのだろう。当時、眼科はすでに専門分化し、蘭学の影響も大きかったので、改めて江戸の著名な眼科専門医の門をたたいたのだと考えられる。その眼科専門医とは「四大眼科医」の一人、土生玄碩(特に、白内障治療で有名)である(P13)。しかし、いつ敬仲が玄碩に学んだのかははっきりしない。
  「敬仲」は、死後、大統寺(茨城県竜ヶ崎市)に葬られ、「敬安了仲居士」と戒名がつけられた(P13)。その後、「敬仲」の名は大年・椿寿・桃寿と引き継がれていくことになる。

◎3代目「敬仲」(椿寿)・4代目「敬仲」(桃寿)・椿寿の子:石寿
  2代目「敬仲」(大年)の隠居後、もしくは、3代目「敬仲」(椿寿)の時代になって、高野家の活動中心地(及び居住地)は、関宿桐ヶ作に移ることになる。この時期は、高野家の医家としての最盛期であり、椿寿の子・石寿は、茨城県取手において、支店を開いた。そして、桐ヶ作の高野と取手の石寿が連絡を取り合いながらその活動範囲を広げていった(P39)。関宿と取手の双方は、利根川の河岸(かし)として発達した場所であり、利根川舟運の発達と共に、患者の移動・薬の入手・処方に関する相談等が活発に行われたことが高野家文書などから読みとることができる。更に、P35・36で紹介してあるように、高野家では「家傳 青眼膏」・「家傳 開明散」と名付けられた薬がつくられ、使用されていた。
  また、椿寿は、第4章(P41)で述べるように、医業だけでなく、利根川中流域の文化人との交流の足跡を残した人物である。
  椿寿の子、石寿は取手を中心に薬の販売等を手広く行っていたこと以外は分かっていない。