第1節 高野家の略系図  第2節 高野家に遺された医療関係資料  第3節 高野家の医家としての活動範囲

◎5代目周斎・6代目早之助早之助肖像画
  5代目の周斎には「敬仲」を名乗った形跡はない。周斎は、明治3年(1870)頃に「従前開業醫眼科高野周斎」と書いた開業看板(P27)を出し、医業に励んだが体調を崩したため、次第に高野家の医業は縮小していったようである。そして、高野家の医家 活動は、6代目の早之助にかかることになる。
  高野家文書から、早之助の誕生時に盛大な宴が催され、体調を崩した5代目周斎があったためか、かなり期待がされたと推察できる。
  しかし、早之助は、結核によって26歳という若さで、この世を去ってしまう。
  早之助の風貌は、高野家に遺された肖像画で知ることができる。帽子を被った凛々しい顔立ちで描かれており代々の敬仲を遠く偲ぶことができる。肖像画にはK.MANOのサインがみとめられる。
  また、高野家からは、済生学舎の日課表と就学規則が見つかっており、時期的に考えて、おそらく、早之助が済生学舎に通っていたのではないかと推察できる。
  済生学舎とは、明治9年(1876)に東京・本郷元町に長谷川泰の手によって創られた私立医学校であり、済生学舎に学んだ人物の代表として、野口英世が挙げ られる。
  済生学舎と医術開業試験(明治8年:1875)とは密接な関係がある。まず、政府は明治7年にドイツの医療制度をモデルにして、「医制」なる法律を発布した。 医業を開業するものは試験を経なければならないということである。また、長谷川泰は、明治12年から13年にかけて、医術開業試験の委員長を務めている。