2 常総を旅する人々 |
常総地域には成田山や香取・鹿島・息栖の三社などのほか多くの名所・旧跡があり、文人墨客たちにとっても魅力のある地域です。『奥の細道』を著した松尾芭蕉や『東海道中膝栗毛』を著した十返舎一九、『四州真景図』を描いた渡辺崋山など多くの文人墨客が足を運び、旅の様子や各地の人々との交流・逸話などを句や紀行文、絵図に残しています。 |
『奥の細道』で有名な松尾芭蕉は貞享4年(1687)、門弟曽良らを伴って江戸深川の芭蕉庵を出発して行徳・八幡・鎌ヶ谷を経て布佐から船で鹿島を訪れました。この遊歴が『鹿島詣』に結実しました。
写真:奥の細道行脚の図(天理大学附属天理図書館) |
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信濃国(長野県)に生まれた一茶は15歳で江戸に丁稚奉公に出されました。その後葛飾派の二六庵竹阿の門弟になり俳諧を学びました。彼は流山の秋元双樹らと親交を深め、彼らの援助を受けながら常総地方を遊歴して数多くの俳句を残しています。
写真:一茶肖像画(一茶双樹記念館) |
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紅龍山布施弁天東海寺は柏市北東の利根川を眼下に展望できる高台にあります。布施弁天として親しまれ、江ノ島弁天、不忍池中島弁天とともに関東三弁天の一つにあげられています。古くから多くの人々が江戸から講を仕立てるなどして訪れ、あたかも都会さながらの賑わいを見せていました。一茶をはじめ多くの文人墨客も訪れ、句や紀行文などで紹介しています。 |
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江戸後期の儒者で、土浦藩に招かれ郡奉行を勤めました。後に江戸に出て『海防備論』を著して異国船対策の重要性を幕府に建白しましたが、安政の大獄に連座して江戸を逐われて行徳に住みました。彼の代表作『航湖紀勝(こうこきしょう)』は霞ヶ浦から銚子方面を遊歴した際の紀行詩文です。
写真:航湖紀勝(船橋市西図書館) |
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江戸後期の国学者で、考証学を中心に数多くの著作や目録を著しました。膨大な蔵書を国学者に公開したことでも知られます。水戸藩主徳川斉昭に請われて藩校彰考館に出仕し、水戸学に影響を与えたといわれます。彼の著作『相馬日記』は下総国相馬郡及びその周辺の古跡を遊歴して江戸へ戻るまでの10日間の紀行文です。また、『鹿島日記』は鹿島・香取両神宮を参詣し銚子・成田を経て江戸に帰るまでの60日に及ぶ遊歴の紀行文です。
写真:相馬日記(千葉県立関宿城博物館) |
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江戸後期の画家・蘭学者で、谷文晁に画才を認められました。彼の代表作「四州真景」は友人の小林左伝らとともに利根川を経て銚子方面を遊歴した際の素描集です。
崋山は高野長英、小関三英ら蘭学者と交わり海外事情を研究しましたが、蛮社の獄で蟄居を命じられ、後に自刃して果てました。
写真:四州真景図(千葉県立大利根博物館) |
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江戸後期の戯作者で、『東海道中膝栗毛』を著して一躍天下に知られるようになりました。常総と関わる彼の著作の一つに『諸国道中金草鞋(しょこくどうちゅうかねのわらじ)』があります。鹿島・香取・息栖の三社や筑波山などが題材になっており、滑稽や狂歌を取り入れた絵草紙になっています。
写真:諸国道中金草鞋(船橋市西図書館) |
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下総台地の内陸部に展開していた下総牧は「小金野」や「四十里野」と呼ばれました。江戸幕府が慶長期に牧の経営を始め、呼称も「小金牧」「佐倉牧」となりました。そこで育った良馬は将軍の軍馬・乗用馬として江戸に差し出されました。常総を訪れる旅人の多くが小金原で一息つきました。疲れた旅人にとって牧場でのんびりと戯れる馬の姿は心休まる光景だったことでしょう。
写真:冨士三十六景小金原 広重(千葉県立関宿城博物館) |
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