久世広周(くぜひろちか)と公武合体


  江戸幕府は長い間鎖国政策をとってきました。ところが、アメリカのペリーが嘉永6年(1853)に浦賀に来航したのをきっかけとして、アメリカ、オランダなど5か国と条約を結び、開国政策に踏み切りました。
  この政策を担当したのが大老井伊直弼でしたが、勅許を得なかったため孝明天皇の怒りを招き、その結果朝廷と幕府が激しく対立しました。将軍継嗣問題ともあいまって、尊王攘夷派の反対運動が激化しました。そこで井伊は安政の大獄を実施して橋本左内・吉田松陰らを処刑するなど厳しく弾圧しました。当時老中であった関宿藩21代藩主久世広周は井伊の政策を批判したため、老中を失脚しました。
  万延元年(1860)、桜田門外の変で井伊が横死した後、広周は老中に返り咲きました。広周は同じ老中の安藤信正とともに「久世・安藤政権」を築き、朝廷と幕府の融和を図るために公武合体政策を推し進めました。なかでも代表的なものが孝明天皇の妹和宮を14代将軍徳川家茂の夫人にむかえたことです。いわゆる「皇女和宮降嫁」で、有吉佐和子『和宮様御留』など小説の題材にもなっています。
  文久2年(1862)、坂下門外の辺で安藤が負傷して老中を失脚、ついで広周も失脚し、永蟄居を命じられました。元治元年(1864),広周は失意のうちに関宿城内の客殿(新御殿)で死去しました。この客殿は後に関宿町実相寺に移築されました。


広周書掛軸

[戻る]

 

Copyrightc©2005 Chiba Prefectural Sekiyado-jo Museum. All rights reserved.