第1節 日本の医学史と世界の医学史  第2節 日本の眼科史と蘭学
[日本医学史の変遷]
  以前から通商のあった中国や戦国時代から、日本近海に姿を現していた保・西・英・蘭らのヨーロッパ諸国は、医学の分野に於いても日本に大きな影響を与えた。まず、ポルトガルの外科医アルメイダが、現在の大分市に育児院、慈恵病院を建設し、貧窮病者を施療し、西洋医術を伝えた。翌年、病院付属医学校を設立し、主に外科術講義を行った。この時代は、織田信長・豊臣秀吉らによって、西欧技術導入が図られた時代であった。(秀吉は次第に弾圧へと方針転換。その後は、弟子達が各地に散り活躍した。)


〈南蛮医術伝来の時代に至る国際的背景〉

  鎖国完成後、オランダ平戸商館は長崎出島に移転、蘭館医を通じてオランダ医学が導入されることとなる。蘭館医カスパルが江戸参府に随行し、医学伝習を江戸で行う。

オランダ医術興隆の時代へ


  蘭館医の伝習の成果が現れ始め、様々な場面でその優れた医術が認められるようになった。それに伴い、次第にオランダ医術を伝える藩校の創立も増えていった。また、8代将軍吉宗は、耶蘇教以外の洋書輸入と通詞の蘭学学習を許可し、蘭学興隆気運が高まっていった。

  人体の構造について、東洋医学と西洋医学の違いに気付き始め、公許を受けた最初の“腑分け”が、山脇東洋の手により行われた。彼の手によって作られた『蔵志』が、“観臓図書(内臓を図で示した書)”の初めとなる。その後、河口信任が『解屍篇』(P9) を著し、ほぼ時を同じくして、「ターヘル・アナトミア」を手にした前野良沢・杉田玄白・中川淳庵らが『解体新書』を1774年に刊行。これまで見えなかった人体の内部が分かるようになった。まさしく、実証的医学時代に突入した。

山脇東洋肖像画山脇東洋(1705〜1762)  山脇玄修に医学を学び、官医山脇家の
養子となった。五臓六腑説に疑問を持
った東洋は、動物だけではなく、人体の
内臓を確かめたいと考えていた。そして、
日本最初の幕府の許可のもとに解剖に立
ち会う機会を得ることとなった。その解
剖は、杉田玄白らの『解体新書』を遡る
こと17年前のことであった。

山脇東洋の著した日本最初の解剖書
 宝暦4年(1754)に、かねてからの疑問であった
五臓六腑説に疑問を抱き、日本で初めての幕府の許
可のもとに人体解剖を行い、その説の誤りを実証し
た。斬首体の解剖であったため頭部の記録がなく、
また大小腸の区別をつけられないなど、欠点もある
が、本書の刊行を契機として、各地で解剖が行われ
るようになり、解剖学の発展に大きく貢献した。




  蘭館医シーボルトが長崎に鳴滝塾を開き、医学・博物学を教授し、高野長英・伊東玄朴・岡研介・戸塚静海らが続々入門した。1826年、江戸参府で将軍に謁見、土生玄碩ら蘭方教授を受ける(このとき、シーボルトに開瞳薬を習い、お礼として将軍から拝領した葵の紋を贈った)。

 古河藩医の河口信任が京都で行った解剖をもとに
刊行した解剖図誌。日本では『蔵志』に次ぐ2番目
の解剖書である。本書では、大腸と小腸の医別が正
確に記載されている。また、頭部の図もあり、脳や
眼球も示されているなど日本医学史上、初めてとい
う内容も多く貴重である。


 フランソア・ハルマの「蘭仏辞典」を
もとに、稲村三泊(1759〜1811)らが編
纂した日本最初の蘭和辞典で、約6万語
を収録している。後年完成されたヅーフ
の「ヅーフハルマ」(長崎ハルマ)と区別
して、「江戸ハルマ」とも呼ばれる。後の
蘭学の発展に大きく役立った。
   1869年(明治2年)政府は、ドイツ医学を採用することを決定した。ドイツ流にするか、オランダ流にするか、イギリス流(戊辰戦争でイギリスは大きな貢献をした)にするか、政府部内でもかなりの論議が展開されたようである。
  ともかく、日本でこれまで多く読まれ、かつ翻訳されたオランダ書は、ドイツの学問をオランダ語に翻訳したものが多く、ドイツ医学は当時の世界医学の最先端と誰もが認めていたという点が大きい。もちろん、政治的背景から見れば、ドイツ君主制に強く惹かれたという点も十分に考えることができる。(→大日本国憲法は、ドイツ憲法を手本としたなど)


フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
(1796〜1866)
 天保4年(1823)に来日し、長崎出島の商館医と
して勤務する傍ら長崎郊外に鳴滝塾を開設して、高
野長英ら多数の蘭学者を育てた。彼は、日本に近代
西洋医学を伝え、日本の近代化やヨーロッパでの日
本文化の紹介に貢献した。ドイツ人でありながら、
日本の文化をこよなく愛した人物であったといえる。