第1節 日本の医学史と世界の医学史  第2節 日本の眼科史と蘭学
[幕末期における眼科]
 幕末期に於ける我が国の医学諸科のうち、特に著しい発達を遂げた科の一つとして眼科の進歩があげられる。我が国では古くから眼病が多かったことは、各種の文献に記録されており、その治療もまた古くから行われていた。
 最も有名な眼科医は、尾張馬島流眼科・諏訪の竹内流眼科・筑前の原田流眼科・江戸の土生玄碩の四家(江戸時代の四大眼科医)である。高野家文書によると、敬仲は土生玄碩に師事し、眼科医として開業したとある。
 「四大眼科医」は全国に知られ、患者は遠方から治療に訪れ、近くに宿泊して、長期の治療を行った。しかし、これらの眼科医術は、一子相伝による門外不出の施術(秘伝・家伝)であって広く普及することはなかった。
 そこに伝播してきたのが、西洋眼科で、その学を修得する医家が増加して、庶民に多大の福音をもたらした。日本に於ける西洋眼科の始まりは、杉田玄白の子立卿がプレンキの眼科書を翻訳した『眼科新書』(P31)刊行である。眼科に関する用語は、大体これにより選定されたものが多いとされ、眼科を志す医家のほとんどが学んだ眼科書であった。この眼科新書は、高野家からも発見されており、医の手本として普及したようである。

〔高野家とその時代〕
年号 西暦年 主な出来事
延享4年 1744年 ◇初代敬仲生まれる(常州生板)(1814年没…69才)
明和5年 1768年 ・土生玄碩生まれる
安永7年 1778年 ◇2代目敬仲(大年)生まれる(1841年没…63才)
享和元年 1801年 ◇3代目敬仲(椿寿)生まれる(1863年没…63才)
〜このころ、初代敬仲(60歳頃)は、土生玄碩に師事したと考えられる〜
文化6年 1809年 ・土生玄碩、将軍家斉に謁見、翌年、奥医師に登用される。
文政6年 1823年 ・蘭館医シーボルト来日
文政7年 1824年 ◇4代目敬仲(桃寿)生まれる(1888年没…64才)
文政9年 1826年 ・土生玄碩ら、シーボルトから蘭方教授を受ける
文政11年 1828年 ・シーボルト事件(禁制品の数々発見)
文政12年 1829年 ・幕府、シーボルトに葵紋服を贈った奥医師土生元碩を改易
天保6年 1835年 ・佐藤泰然(佐倉順天堂創始者)ら、長崎で蘭方学ぶ
天保10年 1839年 ・蛮社の獄、高野長英逮捕
天保14年 1843年 ・佐倉藩主堀田正睦、蘭方外科医佐藤泰然を江戸から招く 泰然、佐倉城下に順天堂を開業
弘化3年 1846年 ・古河藩蘭学者鷹見泉石、『泉石日記』に「桐ヶ作・高野家よりめぐすり…」の記述・土生玄碩死去
弘化4年 1847年 ◇5代目周斎生まれる(1905年没…56才)
嘉永2年 1849年 ・幕府、外科・眼科以外は蘭方禁止→蘭書の翻訳出版取り締まり強化(西洋医学研究禁止)
嘉永3年 1850年 ・高野長英自刃
安政2年 1855年 ・下総布川の医師、赤松宗旦『利根川図志』に「桐ヶ作ニ眼科医鳳梧アリ、画ヲ好ム」の記述
安政5年 1858年 ・幕府、医師に和蘭医術兼修を許可(13代将軍家定重病)
・1849年(嘉永2年)制定の蘭方禁止令解除
・コレラ流行(江戸だけでも死者10万〜26万人)
・伊東玄朴ら江戸の蘭方医80余名が拠金し、神田お玉ヶ池に種痘所を設置(東京大学医学部の起源)
慶応3年 1867年 ◇6代目早之助生まれる(1893年没…26才)
明治2年 1869年 ・政府、ドイツ医学採用決定
明治3年 1870年 ・種痘法施行、家伝薬・秘伝薬の販売禁止
明治4年 1871年 ・天然痘流行
明治7年 1874年 ・文部省、医制を制定
明治8年 1875年 ・医術開業試験施行・天然痘予防のための強制接種
明治9年 1876年 ・私立医学校「済生学舎」を東京・本郷元町に設立
明治12年 1879年 ・コレラ流行 死者10万人
明治25年 1892年 ・関東に天然痘大流行 患者数33,779人死者8,409人
明治30年 1897年 ・日本眼科学会創立
明治38年 1905年 ・5代目周斎死亡し、高野家は、医家活動を終える