第1節 日本の医学史と世界の医学史  第2節 日本の眼科史と蘭学
土生玄碩(1762〜1848)
 江戸時代の四大眼科医の一人で安芸ノ国吉田の名家に生まれた。大阪、京都で医術を学び、47歳の時、浅野家教姫(のりひめ)の眼科治療に当たり全治させた。この医術の力量が幕府に認められ、49歳の時、徳川11代将軍家斉の侍医となった。その後、法眼に叙せられ、シーボルトから蘭方教授を受けた。このとき、シーボルトに開瞳薬を習い、お礼として将軍から拝領した葵の紋を贈った。しかし、文政11年(1811)のシーボルト事件で、禁制品を贈った者として、禁固の刑に処せられた。
 彼の白内障治療の成功は、日本の眼科の進歩に大きく貢献した。
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漢蘭折衷医学と蘭方の興隆
 江戸時代日本では、天然痘や腸チフス、赤痢などの急性伝染病が流行していたが、幕府は見るべき防疫対策をとっていなかった。しかも、医業に対しても国家的な支援制度や規則もなく、医師は師弟関係によってに養成されていたこともあり、急性伝染病には迅速な対応がとれない状態であった。室町時代末期に入ってきた西洋医学は、一般には広まらず、キリスト教への弾圧や鎖国令によって、厳しく規制されるに至った。しかし、その後、オランダ商館を通じて、オランダ医学が伝えられ、蘭方医学として、徐々に浸透していった。1720年に吉宗によって洋書輸入が緩和され、解体新書の刊行など蘭方あるいは漢蘭折衷の医学校が作られるようになった。
1823年には、シーボルトが来日し、西洋医学の普及に大きく貢献したが、シーボルト事件を契機に蘭学が大きく規制を受けることとなった。そして、1849年に「蘭方医禁止令」(@)が出された。この禁止令から外科と眼科は除かれた。
 このような蘭学弾圧の中にもかかわらず、蘭方医学の有用性は無視できない存在となり、1849年の牛痘接種法が長崎で、初めて成功を収め蘭方を見直す動きが出てくるようになった。それに加え、1858年には将軍家定の大病に当たって蘭方医が奥医師に任ぜられることになり、ついに「蘭方医解禁令」(A)が出されることになった。

@
〔蘭方医禁止令〕
 
近來蘭學醫師追々相増世上にても
信用いたし候もの多有之哉に相聞侯右
は風土も違侯事に付御醫師中は蘭方相
用候儀御制禁被仰出侯旨得御意堅く
可被相守侯
 
但し外科眼科等外治相用侯分は蘭
方參用致候ても不苦候
 
嘉永二己酉三月十五日
           
阿部伊勢守
A
〔蘭方医解禁令〕
 
和蘭醫術の儀先年被仰出候趣も有
之侯得共當時萬國の長たる所を御採用
被遊折柄に付奥醫師中も和蘭醫術兼
學致候て不苦候事
 
安政五年七月三日
           
久世大和守
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