第1節 鷹見泉石  第2節 赤松宗旦  第3節 鈴木南嶺・大西椿年

第2節 赤松宗旦(医師)
年 号
西暦年
主な出来事  後年、『利根川図志』を著したのは定次郎、すなわち2代目義知で、父を失ったときは8歳であった。父の没後は、母の生家(印旛郡吉高村)に引き取られ、その地で前田宗に師事し、医術や漢学を学び、1838年(天保9年)33歳で、布川へ戻り医業を開く傍ら、地誌研究に打ち込み1858年(安政5年)に『利根川図志』(全6巻)を完成し世に送り出した。
  これまでは、初代宗旦の遺志を受け継ぎ、2代目宗旦義知が完成したといわれているが、近年の研究では、『利根川図志』の構想は、2代目宗旦義知独自のものであるという見方が有力である。その根拠は、初代宗旦が、『利根川図志』を執筆する構想を持っていたならば、情報を得るのに最も便利な布川を離れて、江戸千住に移住することは不自然であるという点にある。
文化13
1816
・吉高村の前田宗のもとで、漢学や医術を学ぶ
天保2
1831
・各地を歴訪して、医術や地学を修める
天保9
1838
・布川村に帰り医業を開き、かねて漢学や算術を教える
安政元
1854
・集めた資料を基き、『利根川図志』の編集執筆に入る(49歳)
安政5
1858
・『利根川図志』完成。初版620部を出版(53歳)・幕府に献上
万延元
1860
・後刷500部作る。但し、桜田門外の変などの政変多く販売は許可されず、莫大な負債を抱える
文久2
1862
・57歳で死去。布川村来見寺に葬る