明治18年から旧制千葉中学校の図画の嘱託教師をしていた松室重剛が学習院に転任した後、同校には大幸館の塾生であった亘理寛之助が着任していました。その亘理が郷里仙台の図画教師に招かれて、後任を探していたおり、しばらくの間ならと堀江は明治30年39歳で単身旧制千葉中学校の図画の嘱託教師として赴任しました。千葉行きを決めたのは短期間の滞在であり、未知の土地への好奇心と持病の療養のためもあったようです。その年、千葉中学校に寄宿舎「敬義寮」が建設され、堀江は舎監としてその後20数年の歳月を寮生とともにしました。

 千葉に赴いて10年が過ぎた頃、中央での洋画研究所再開を志し準備を進め、明治44年上京する寸前、郷里松本に大火が起こりました。堀江の生家は全焼し、堀江は実母と長兄一家を千葉の自分の元に引き取ります。これにより洋画研究所再開の夢は潰えました。


 校長として大正9年に千葉中学校に赴任した西村房太郎によると、当時図画教育の改善が全国で唱えられ、学校は競って絵画の特別教室を新設していたのに、旧制千葉中学校での美術の授業は古机でカーテンもない普通教室で絵画制作をしいました。
担当は老人に見え、その所見を問うと言葉が不明瞭でなんと返答しているのかはっきりしなかったため、機会をみて後進の先生に席を譲って頂こうと密かに考えていました。しかし、県教育会館(現県立中央図書館)で開催された第1回千葉県洋画展覧会に偶然立ち寄った際、堀江の描いたコッホ博士の肖像画を見て、堀江の実力を知り、それからはその業績を世に知らしめんと尽力しました。

  堀江が旧制千葉中学校で勤続25年を迎えた大正11年11月1日、西村校長を中心に旧制千葉高校同窓会員有志によって祝賀会が催されました。同時に千葉中学校の教え子達を中心とした展覧会も開催され、かつての寄宿舎敬義寮生も大勢集まったといいます。

 ある時、西村校長が堀江に正教員の資格を取ると待遇が良くなることを説くと、温和な堀江が「一体、中等教員の図画の検定試験は誰がやりますか。」と大声で言ったといいます。当時の試験委員長は愛弟子である東京美術学校長岡田三郎助でした。後に中等教員検定試験の規則が改正され、所属の学校長の推薦状を添えて県知事から文部省に出願すると教員免許を得ることが出来るようになり、西村校長は急遽手続きを行いましたが、ほどなく堀江は他界しました。

 堀江は晩年持病の喘息に悩まされます。昭和7年、著名な作家に成長した大幸館時代の弟子達である岡田三郎助、中沢弘光、北澤楽天、高木背水らが揃って見舞い、一同平伏して堀江の最後の言葉を聞く姿は、弟子の師に対する礼節と情に溢れ、素晴しいものであったそうです。
翌朝堀江は74歳で他界しました。晩年洗礼を受け熱心なキリスト教信者になっており、葬儀は富士見町の教会で行われました。墓は現在の県立千葉高等学校近くの高徳寺にあります。

*それぞれの画像をクリックすると作品についての解説がご覧いただけます。

    ≪耕地整理図≫【千葉県立美術館蔵】        ≪旧制千葉中学校帽章≫               ≪室内草花図≫
                                  【県立千葉高等学校美術館蔵】        【県立千葉高等学校美術館蔵】              

           ≪富士山≫                  ≪生徒画帳≫                    ≪西村房太郎像・祖母像≫
    【県立千葉高等学校美術館蔵】       【県立千葉高等学校美術館蔵】                 【千葉県立美術館蔵】

旧制千葉中学校時代〜逝去

  関連作品一覧