メルマガ(平成18年度~平成22年度)

 

 

 

 

メルマガ 第133号 (平成23年3月)                2011.3

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せきはく豆事典「猿島茶の特徴」

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 猿島茶は、主に茨城県南西部の猿島地方で生産されている。この地域は土壌が関東ローム層の洪積台地で、畑作物の生産性が低い土地である。しかし、住民たちは痩せた土壌でも生育して干害にも強い茶に注目し、猿島茶の栽培に力を注いだ。そして、猿島茶は空っ風から他の畑作物を守る防風垣としても利用され、栽培が盛んに行われるようになった。

  猿島茶は茶葉に厚みがあり、蒸気を強めに与えて揉み上げる「深蒸し製法」で製茶すると濃厚な味と香りがし、「香りは宇治、色は狭山、味は猿島でとどめさす」という格言まで生まれている。また茶摘みにおいても、1本の枝から3枚の葉を摘む「三葉がけ」という方法で旨味を引き出している。

 当初は、製茶法が蒸した茶葉を日光で乾燥させるという「日乾法」であったことから品質が粗悪であった。しかし、江戸時代後期になると宇治茶の製茶法を学び、蒸した茶葉を焙炉で乾燥させ、揉み上げるという「焙炉法」に変え、品質を向上させていった。そして安政6年(1859)には、猿島茶が日本で初めて海外へ輸出されるまでに成長した。 

 現在は、「やぶきた」「さやまかおり」などの優良品種を栽培し、さらなる良質な猿島茶の生産を行い、産地銘柄化の推進や後継者の育成などに力を注いでいる。

(横山 仁)

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メルマガ 第132号(平成23年2月)                2011.2

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せきはく豆事典 「日本で初めてアメリカに輸出された猿島茶」

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  猿島茶とは,主に茨城県南西部の猿島地方で生産されている特産品である。この地方で栽培された起源は定かでないが、寛永12年(1635)の山河領諸川村茶検地割付帳に記載されているのが初出である。

当初,猿島茶は畑の周囲に植える畦畔茶(けいはんちゃ)として栽培されていたので,栽培面積が狭く,収穫量はそれ程なかった。また,蒸した茶葉を日光で乾燥させるという「日乾法(ひぼしほう)」の製茶法を行っていたことから,品質が粗悪であり,需要も少なかった。

  ところが,江戸時代に猿島地方を治めていた関宿藩が猿島茶の税収を上げるため,栽培面積の広い茶専用の茶園栽培を奨励したり,地元の茶商たちが蒸した茶葉を焙炉(ほいろ)で乾燥させ,揉み上げるという「焙炉法」の製茶法を導入することによって品質を向上させ,猿島茶の生産量や出荷量は大幅に増加した。そして安政6年(1859),猿島茶は日本茶の中で日本初の輸出品となったのである。

(横山 仁)

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メルマガ 第131号(平成23年1月)                2011.1

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せきはく豆事典  「構造船ってなに?」

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  以前に木造船の構造的観点から,第一段階の刳船(くりぶね)・第二段階の準構造船について記載した。今回はその続きとして,最終段階の構造船を取り上げることにする。

 構造船は船底に板材を用い,船底材の両側に1段以上の棚を設けたものである。2段以上の棚板を有するものは「重ね継ぎ」技法によって接合され,根棚・上棚の「二階造り」,根棚・中棚・上棚の「三階造り」,根棚・中棚・中棚・上棚の「四階造り」の棚板構成になっている。原則として,「二階造り」と「三階造り」が基本であった。初期段階の構造船は,根棚のところに「おも木(刳船部材を縦に割って,断面が『L』字形に近い船材)」を用いていた。その後根棚も含め,すべてが板材になった。船底の拡幅によって,船体の幅が広がり,大型船の建造を可能にしたことが構造船の特色でもある。

 構造船には4種類の形式がある。一つは船底材の両側に1段の棚を設け,船首や船尾を戸立造り(平らな板でつくったもの)にした長方形の「箱形構造船」である。川船に使用され,その代表として高瀬船がある。二つは船底材の両側に2段以上の棚を設け,多数の船梁で補強した「日本形構造船」である。主として,沿岸航海用の海船に使用された。その代表に,軍船では安宅船・関船,商船では弁才船がある。三つは多数の外板(肋骨の外側に張りつめた板)と隔壁で構成され,船首が戸立造りの「中国形構造船」である。通称「ジャンク(中国の帆船)」と呼ばれ,渡航用の海船に使用された。その代表に,朱印船がある。四つは龍骨(船の背骨に当たるもの)・肋骨(船体の外板を支えるフレーム)・縦通材・梁・外板・甲板などで構成され,これらを強固に接合した「西洋形構造船」である。外人の指導によって造られたヨーロッパ形の帆船で,大洋航海用の海船に使用された。その代表に,伊達政宗の遣欧使節船がある。

 推進具は帆が重要な役割を占め,「箱形構造船」と「日本形構造船」が単檣(たんしょう:一本帆),「中国形構造船」と「西洋形構造船」が二檣(二本帆)または三檣(三本帆)を使用していた。風がない場合は「オール」漕法による櫂,あるいは棹や櫓も併用していたようである。なお,櫓には一本の木でつくられた棹櫓と,二材を継ぎ合わせた継櫓があり,一人漕ぎを小櫓,二人漕ぎを大櫓といった。

 これで、日本の木造船についての記載を終了とする。 

(横山 仁)

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メルマガ 第130号(平成22年12月)               2010.12

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せきはく豆事典  「初代関宿藩主-松平康元(まつだいら やすもと)-」

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 天文11年(1552)久松俊勝の次男として尾張国智多郡阿古居で生まれる。母は水野忠政の娘・於大の方(伝通院)で,徳川家康の異父弟にあたる。同母弟に勝俊(康俊)・定勝,異母兄に久松信俊がいる。初めは勝元と称したが,永禄三年(1560)3月,弟勝俊・定勝らとともに家康より同姓の兄弟に準じられて松平の姓を受け,康の字を与えられて「康元」と改名した。

 同五年(1562),父俊勝に代わり三河国西郡城に居住する。元亀三年(1572)の三方原の戦い,天正三年(1575)の長篠合戦,天正九年(1581)の第二次髙天神城の戦いに参陣した。

 天正十二年(1584)の長久手の戦いでは尾張床奈部の城代を勤めている。天正十八年(1590),後北条氏の制圧にも参陣し,落城後の小田原城を守衛し,法制を定めている。この度重なる軍功を賞されて,下総国葛飾郡内の関宿城を与えられ,二万石を領有した。翌十九年(1591),陸奥国九戸一揆の鎮圧のため戦陣を務めた戦功により,下総国内にさらに二万石の加増を受け,四万石となる。また,関ヶ原の戦いでは江戸城の留守居役を勤めている。

 慶長七年(1602),於大の方逝去の後,菩提のため関宿に弘経寺を建立。同年,家康の命により光岳寺と改称した。

 翌慶長八年(1603)八月十四日,五十二歳で没し,自ら建立した宗英寺に葬られた。法名傑伝宗英大興院。

 家督は,嫡男の忠良が継いだ。その後,忠憲の時に四万五千石から一万石忠充の時に一万石から六千石と,二度の減封により,大名の列から外れ,上級の旗本として存続した。

  参考文献:(『三百藩藩主人名辞典 第二巻』新人物往来社 1990.7,20)

(齋藤 仁)

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メルマガ 第129号(平成22年11月)               2010.11

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 せきはく豆事典  「関宿藩の備え付け武具について(2)」

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 平成22年10月24日(日),関宿城博物館の開館とともに始まった「第15回関宿城まつり」が盛大に催され,天候にも恵まれて約2万8千名のお客様で賑わいました。当日は,森田知事も見えられ,知事の合図とともに,鉄砲隊の火縄銃が撃たれ豪華絢爛な大名行列が出発しました。

 当日のイベント演目の一つとして,古武道の火縄銃演武が日本ライフル射撃協会・日本前装銃射撃連盟の6名によって行われました。使用された火縄銃の種類は,短筒(馬上筒)3,中筒の10匁侍筒(士筒)2と30匁侍筒2,大筒の50匁筒1と100匁筒1の合計9挺です。それぞれの銃から合計53発が発射されました。発射方法として,礼射(撃ち始めの儀式),立ち放し,中腰,膝台放し等を紹介した後,火縄銃の撃ち方の手順を説明,その後,連射(つるべ打ち),一斉射撃を行いました。特に大筒の100匁筒の凄まじい轟音には,観客から大歓声が上がりました。「関宿城まつり」の火縄銃演武の特徴の一つは,大型口径(中筒・大筒)の火縄銃が登場することです。特に100匁大筒の発射は関東地方でも大変珍しいそうです。

 関宿藩には,せきはくマガジン第125号で記述したように,中筒の30匁3挺,大筒100匁5挺があったことがわかっています。春の「火縄銃展」の展示品の中には,短筒・中筒・大筒(100匁筒)があり,来館者から火縄銃の演武の要望が数多く寄せられました。

 今年度は,関宿藩に関する火縄銃の統計資料の紹介,展示会での各種火縄銃の実物展示,そして演武での火縄銃各種発射による発射音の体験と一連の流れで火縄銃に関する事業を行うことができました。火縄銃の演武は毎年「関宿城まつり」で実施されますので,是非見学されることをお勧めします。

(三浦和信)

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メルマガ 第128号(平成22年10月)               2010.10

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せきはく豆事典  「利根運河通航規則」

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 利根川河口の銚子より利根川を遡り東京に向かって航行する船は、利根運河の開通により、関宿を回るよりも航路は38km短く、日程も3日から1日に短縮された。

  茨城県、栃木県や利根川下流域から東京に往復する船は、利根運河を通船することで大きな恩恵を受けた。

  利根運河が通水した翌年の明治24年の和船の通船数は「利根運河史」によると37,590艘を数え、すでにピークを迎えた。単純に日割してみると1日に100艘以上が通船したことになる。

  このような通船状況を見越して、通水直前の明治23年3月15日付けで「利根運河通航規則」が千葉県知事名で施行された。主なところを抜粋すると以下のとおりである。

  1.船舶の規模

    (1)喫水は1.2m以下

    (2)汽船の長さは27.6m・幅8.2m以下

    (3)和船の長さは24m・幅6m以下

    (4)筏の長さは27.6m・幅3.6m以下

  2.通行料を払ったことが河口にいる会社のものが見てわかる場所に示すこと。

  3.運河河口に到着した順に航行し、右側通行である。直線の場所では追い越    しが可能である。

  4.公務に使用する船舶や郵便物を搭載する船舶に航路を譲らなければならない。

  5.運河を通船する速度は毎秒1.5m以下で進航すること。

  6.日没から日の出までは無色の航行炉を左前に点灯すること。

  7.狭窄部等で反対側からの通航船とすれ違う時は下りの船が優先されること。

ほかにも13の項目があり、詳細な取り決めが記されていたことがわかる。

(高田 博)

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メルマガ 第127号(平成22年9月)                 2010.9

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せきはく豆事典  「準構造船ってなに?」

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 以前に木造船の構造的観点から、日本の木造船は刳船、準構造船、構造船へと変化・発展していることを述べ、第一段階の刳船について記載した。今回はその続きとして、第二段階の準構造船を取り上げることにする。

 準構造船は船体構造が複材刳船で、両舷(両側の船縁)に1段以上の舷側板(棚板)を設けたものである。喫水(船体が水中に沈む深さ)を深くしたことによって、複材刳船よりも積載量が増し、耐航性が安定している。主に古墳時代から室町時代にかけて使用され、上部構造は時代が経つとともに変化していった。

 古墳時代の準構造船は、船首と船尾のところで両舷の舷側板をゴンドラのように大きく反り上げたものと、船首と船尾に大きな竪板を立て、ワニの口が開いたような形をしたものがあった。ここでは前者を「ゴンドラ型」、後者を「ワニ型」と呼ぶことにする。そのことは当時作られた舟形埴輪によって推測することが可能で、「ゴンドラ型」は西都原169号墳(宮崎県西都原市)・宝塚1号墳(三重県松阪市)などから、「ワニ型」は長原高廻り2号墳(大阪府大阪市)・岡古墳(大阪府藤井寺市)などから出土したものが該当する。船材の接合方法は、二材を突き合わせて接合する「接合わせ」技法を用いている。

 推進具は櫂で、漕ぎ手が船首を向いてカヌーのように漕ぐ「パドル」漕法と、漕ぎ手が船尾を向いてボートのように漕ぐ「オール」漕法の二通りで行い、舟の大きさによって使い分けていたようである。

 鎌倉時代の準構造船は、海船として使用されていたことが当時の絵巻物に描かれている。船体構造は、船首と船尾を反り上げた複材刳船に1~2段の舷側板(棚板)を接合し、上部に補強としてたくさんの船梁を入れている。また、船外に突き出した船梁には縦通材を渡し、「セガイ」と呼ばれる張出部を作って、踏み板を置き、漕ぎ手が作業する櫓棚を設けている。さらに、船尾側には小さな屋形がある。船材の接合方法は二材を重ねて継ぐ「重ね継ぎ」技法に変化し、「接合わせ」技法よりも接着が強力であった。その後「重ね継ぎ」技法の普及によって、準構造船から構造船へと発展していった。和船の研究者である安達裕之氏は「重ね継ぎ」技法による舷側板を、江戸時代の船大工が使用していた用語に習って、棚もしくは棚板と呼称している(安達裕之著『日本の船和船編』船の科学館1998年p25)。推進具は一木造りの棹櫓と筵帆で、主として棹櫓の使用が多く、櫓棚のところで漕いでいた。なお、筵帆は順風時に使用していたようである。

 室町時代の準構造船は、鎌倉時代のものとあまり変わらないが、強いて違いを言えば、舷側板(棚板)を大きく外反させ、舟の幅を広げている。また、推進具としての筵帆が船体の中央部と船首の二か所に設置されていたことが、当時の絵巻物に描かれている。船体中央の大きな帆を本帆、船首の小さな帆を弥帆といい、弥帆には弱風の時に張る補助帆の役目があった。

 次回は、最終段階の構造船について記載する予定である。

(横山 仁)

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メルマガ 第126号(平成22年8月)                2010.8

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せきはく豆事典 「蒸気船通運丸」

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  蒸気船の代名詞といわれる通運丸は,明治10年(1877)5月,東京から思川の生井(現栃木県小山市)間に初めて就航し,同年6月には東京・戸田(現埼玉県戸田市)間,8月には東京・乙女河岸(現栃木県小山市)間,木下・銚子間と航路網を拡大していきました。通運丸の最盛期は,大正6年(1917)~10年の間で通運丸という名前は28艘が確認できます。一番大きな通運丸は第30号で,長さが約29.8メートル,幅約4.1メートル,高さ約3.3メートルありました。

  明治28年(1895),内国通運会社は明治23年(1890)の利根運河の完成をうけて東京・銚子間に直行便を開きました。これにより,東京・銚子間が18時間で結ばれることになりました。

  蒸気船が就航した間もない頃の料金は高額であったため,庶民が気軽に乗船できる乗り物ではありませんでしたが,やがて鉄道が整備され,長距離移動の手段として競合するようになると,運賃の値下げが行われ多くの人々に利用されることになりました。しかし,鉄道に比べて運賃は安いものの,長時間の移動時間は人々を鉄道に向かわせることになりました。(明治32年(1899)の東京(本所)・銚子間の鉄道運賃は1円7銭,所要時間4時間10分~5時間15分,これに対し,蒸気船の東京(蛎殻町)・銚子間運賃は55銭,所要時間18時間20分と早さにおいて圧倒的な差がありました。) 

(齋藤 仁)

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メルマガ 125号(平成22年7月)                 2010.7

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せきはく豆事典 「関宿藩の備え付けの武具について(1)」

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 平成22年 4月27日(火)から5月30日(日)まで開催された「火縄銃展」は大変好評のうちに終了しました。江戸時代各地で製造された火縄銃を年代別・生産地別に40挺、それに関連する諸道具や、各流派の砲術伝書15巻を展示し、砲術の内容や火薬の調合なども紹介しました。県外からの来館者も多く、見る人を強く引き付けました。

  さて、関宿藩においては、備え付けの武具(特に火縄銃)が、どのくらいあったのでしょうか。昭和48年に関宿町教育委員会発行の奥原謹爾氏の「関宿志」によれば、「武具の記録は、いつごろのものか判明しないが、おそらくは、幕末のものではないかと思われるし、又これが武具の全部であるか否かも明らかではない」としながらも、次のように書かれています。鉄砲総数 363挺、内訳は玉目参匁 28挺、仝参匁五分 185挺、仝三匁八分 20挺、仝四匁 20挺、仝六匁 100挺、仝参拾匁 3挺、仝百匁 5挺、仝参百匁 2挺としています。一般に火縄銃は、口径(玉の重さ)によって、細筒(小筒・並筒)は6匁以下、大筒は50匁以上、中筒はその中間におおよそ分類されています。この分類によれば、細筒353挺、中筒3挺、大筒7挺になります。なお、1匁は3.75グラムです。

 ちなみに、天保年間(1830年~1844年)の関宿藩は、城主が久世広周(くぜひろちか)、石高が58,000石、藩士の数が士分332名、足軽340名であったとの記録があるそうです。また、明治元年の旧関宿藩士人名「塚本家文書」には、531名が記録されています。以上のことから、関宿藩における、石高と藩士に対するおおよその鉄砲の割合が窺えます。

  なお、嘉永5年(1852)の大多喜藩(千葉県大多喜町)は、城主が松平正質(まつだいら まさただ)、石高が20,000石あり、火縄銃を参匁五分 58挺など92挺(細筒・中筒など)を所有していました。

(三浦和信)

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メルマガ 124号(平成22年6月)                 2010.6

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せきはく豆事典 「利根運河の上流はどちら」

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  利根運河は明治21年(1888年)5月に工事が始まり、2年後の明治23年(1890年)2月に約8kmに及ぶ工事は終了し、運河は無事通水しました。その間に従事した労働者は延べ220万人、1日の平均数は3000人の突貫工事でした。運河が営業開始した明治23年3月から年末までの船の通行量は23800艘と大いに賑わい産業の発展に寄与しました。

  その一方で、通水後はたび重なる自然災害によるダメージを受け、最終的には昭和16年(1941年)の台風により水堰橋などが破壊され、運河として船が通ることは終焉を迎えました。運河の流れは明治29年(1896年)の台風による洪水により、利根川と鬼怒川の合流地点付近の河床が上がったため、それまで江戸川から利根川に向かっていた流れが利根川から江戸川へ流れることとなりました。

  利根運河交流館のある運河水辺公園の浮橋に下りると、川はゆっくりとのどかに東方の利根川から西方の江戸川に向かって流れているのがわかります。

  平成22年(2010年)は利根運河が通水してから120年目を迎える記念すべき年であり、この秋には企画展「利根運河通水120年記念合同企画事業-利根川舟運と利根運河-」を開催する予定であります。

 (高田 博)

 

 

 

 

メルマガ 123号(平成22年5月)                 2010.5

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せきはく豆事典 「外輪蒸気船登場 1」

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 明治2年(1869)、西洋型風帆船・蒸気船の所有が許可されると、翌3年には東京から中田(現茨城県古河市)まで利根川丸(長さ約25m、幅3.6m、44t、20馬力)が就航した。この利根川丸が、利根川流域における蒸気船の第1号である。その後、信義丸・盛運丸・通運丸・光通丸・銚港丸等が就航し、激しく競合するなかで航路も拡大していった。多くの蒸気船が就航すると客の争奪戦が激化し、運賃のダンピングや競争相手の船とすれ違う際に船員たちは互いにののしりあう有様であった。

  やがて、たくさんあった船会社もつぶれるものはつぶれ、吸収合併されながら、資本力に勝る内国通運会社と銚子汽船のみとなった。

  しかし、蒸気船が利根川舟運で活躍しても、中利根川の通航は難しく、東京から銚子に向かうためには依然として江戸川左岸の野田・加(流山)から利根川右岸の三ツ堀まで陸路を通り、三ツ堀から利根川を下らなければならず、東京-銚子の直行便は利根運河の完成を待たなければならなかった。

(齋藤 仁)

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メルマガ 122号(平成22年4月)                 2010.4

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せきはく豆事典 「鉄炮の歴史と生産地」

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 平成22年4月27日(火)から開催する「火縄銃」展に向けて、今回は鉄炮の歴史と生産地についてお話しします。

 

鉄砲の歴史

  一般に、初めて日本に鉄砲が伝来したのは天文12年(1543)のこととされています。そのことを記した南浦文之著の「鉄炮記」によれば、種子島(鹿児島県)に漂着したポルトガル人によってもたらされ、領主の種子島時堯が鉄砲の使い方や鉄砲・火薬の作り方などを家臣に学ばせたとあります。しかし、この年が鉄砲伝来のはじまりとするには賛否両論があるようです。

 その後、鉄砲の威力に注目した各地の戦国大名たちは、競ってこれを装備し、戦いに臨みました。中でも、織田信長は長篠合戦において鉄砲隊を編成し、鉄砲の長所と短所を十分に使いこなして武田軍を破った話はあまりにも有名です。

 江戸時代になると、戦いもなくなり、天下泰平の世となります。すると、鉄砲は実用品的なものから美術品的なものが作られるようになり、象嵌と呼ばれる金や銀の装飾が銃身に施されます。

 

鉄砲の生産地

 鉄砲伝来後、鉄砲が全国各地で生産されるようになります。鉄砲の生産地は、製鉄や鋳造の技術を持っている職人がたくさんいるところばかりでなく、火薬の原料である硝石や硫黄などの調達に有利なところが発展していきました。特に、堺(大阪府)・国友(滋賀県)・日野(滋賀県)は鉄砲の日本三大生産地として大いに賑わいました。堺は外国との交易が盛んな港町で、周辺に優秀な刀鍛冶工がたくさんいました。一方、国友と日野は陸上・水上交通の要衝として物流が盛んなところで、製錬や鋳造の技術を持った優秀な職人が多くいました。その職人たちが鉄砲製作の技術を習得し、この地に根付かせたのです。産地によって鉄砲の形が異なり、堺で製造されたものを「堺筒」、国友で製造されたものを「国友筒」などと呼ばれています。それ以外に、米沢筒・仙台筒・備前筒・伊予筒などもあります。

 (横山 仁)

 

 

 

 

 

メルマガ 第121号(平成22年3月)              2010.3

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せきはく豆事典「関宿藩の江戸屋敷」

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 江戸の町は大きく武家地・町人地・寺社地の三種類からなっていました。このうち、武家地が占める割合が最も高く約7割を占めていました。この武家地はその半分が旗本・御家人の屋敷地、残る半分が各藩の江戸屋敷でした。各藩の江戸屋敷は上屋敷・中屋敷・下屋敷を持つのが一般的で、他に蔵屋敷などの名称で呼ばれる屋敷を構える藩もありました。これらの多くは幕府から与えられた屋敷で「拝領屋敷(はいりょうやしき)」と呼ばれました。また、この他に藩が土地を購入して屋敷とする「抱屋敷(かかえやしき)」を持つこともありました。
  安政3年(1856)の尾張屋版『江戸切絵図』によると関宿藩も4箇所に屋敷を構えており、屋敷地の総面積は10万平方メートル近くになっています。

○拝領屋敷

 ・上屋敷 約23,000平方メートル

   千代田区丸の内1丁目

   (東京駅丸の内北口前のロータリーの一帯)

 ・中屋敷(新堀御屋敷) 約10,000平方メートル

   中央区日本橋箱崎町13~15

   (首都高速箱崎ICの南西約300mの一帯。現在はオフィスビル群)

 ・下屋敷(深川別宅)約43,000平方メートル

   江東区清澄3丁目(清澄庭園)

○抱屋敷

 ・(小日向屋敷)約22,000平方メートル

   文京区小日向町3丁目20~25の一部

   (神田川を望む高台で地元では久世山と呼ばれている。現在はマンション群)

 なお、( )内の屋敷名は藩内で使用されていた名称です。

 「拝領屋敷」は藩の所有ではないことから幕府の命令により、しばしば屋敷を換えています。関宿藩江戸屋敷の詳細な変遷過程は解明されていませんが、上屋敷に限って言えば少なくとも 

・享保元年(1716)千代田区大手町1丁目(大手町交差点一帯)

・明和元年(1763)千代田区神田錦町3丁目(学士会館一帯)

・弘化 5年(1848)千代田区神田淡路町2丁目(淡路公園一帯)

・安政 3年(1856) 上記のとおり

・文久 2年(1862)千代田区皇居外苑の南西側

に所在していたことが当時発行された切絵図に示されており、変遷の一部を確認することが出来ます。

(郷田良一)

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メルマガ 第120号(平成22年2月)             2010.2

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せきはく豆事典 「沈み込む関東平野」

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 冬晴れの日に当館の4階展望室から四方を望むと、関東平野を取り巻く山々がくっきりと見えます。まさに当館が関東平野のど真ん中にあることがよく分かります。すぐ脇を利根川・江戸川がゆったりと高い堤防の中を流れ、その周囲は洪水の心配のほとんどない田園地帯となっています。
  利根川はもともと東京湾に流れ込んでいた川を江戸時代に瀬替えにより人工的に銚子に向かわせたことは有名ですが、本来関東平野を流れる大河は埼玉低地に集まり東京湾に抜けていたのです。これは、関東平野周辺での地殻の影響によるものです。
  関東平野は12万年前には房総半島の先端をのぞき、海底にありほぼ平坦な地形をなしていて粘土が堆積していました。その後、隆起して陸地化しますが、当時の粘土層の深さを測ると関東は山地部分が隆起し、関東平野の中央部(加須付近)で沈降していることが分かります。この地殻変動を関東構造盆地運動といいます。氷河期には関東平野に火山灰が堆積し、利根川・荒川・渡良瀬川などは大地を割って東京湾に流れていました。当時は、利根川も荒川も現在の荒川筋を流下し、大宮台地を挟んで渡良瀬川は現在の中川筋を流れていました。
  しかし、関東平野の中央部が沈降することで大宮台地が次第に沈下・浸食され、ついには、今から3・4千年前に荒川・利根川が台地を割って中川筋に侵入、大河川が現在の埼玉県に集中したといわれています。この状態は中世まで続き、氾濫のたびに流路を変える暴れ川であったといいます。そこには広大な低地帯が広がっていたのです。
 このように形成された自然の河川流路を人工的に変え、現在のような流路になったのは江戸時代のことです。利根川は東に向かい太平洋へ(利根川の東遷)、荒川は関東平野の西脇に(荒川の西遷)その流路を変えています。
  現在でも関東平野の地殻変動は続いています。年に数ミリ沈み込んでいるそうです。水は低いところに向かって流れるのを常としますが、自然に対抗した人間の知恵がいつまでも続き、災いのないことを願いたいものです。

(太田文雄)

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メルマガ 第119号(平成22年1月)           2010.1

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せきはく豆事典  「浅瀬とのたたかい(5) -艀下船と小堀河岸-」

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 渇水期の恒常的な浅瀬の出現により、船頭たちは空船を雇い、積み荷を分載して自船の喫水を浅くし、難場を乗り切りました。この空船を「長艀下」とか「艀下船」と呼び、江戸時代中期以降の利根川水運において、重要な役割を果たしました。そして、鬼怒川と利根川が合流する地点より下流域の「艀下船」を差配していたのが小堀(おおほり)河岸で、最大七件の河岸問屋がありました。

 小堀河岸は、かつて利根川の左岸に位置し、利根川が大きく湾曲する位置にありました。明治期の河川改修工事により蛇行部分が直線化され、現在は千葉県側に位置していますが、行政的には茨城県取手市に属しています。

  この河岸の特徴は、年貢米を船積みして江戸へ廻送するだけでなく、「艀下船」を差配する艀下河岸として成り立っていたことにあります。

  小堀河岸では、鬼怒川・上利根川・江戸川方面の船持にも働きかけ、小堀河岸の艀下船に従事するよう手配し、浅瀬が現れ始める頃の艀下船の需要に応えていました。また、艀下船の手配だけでなく、難船事故や事件が起きた場合にも小堀河岸が責任をもって対処することで、艀下河岸としての信用を築き、利根川水運において重要な役割を果たしました。

 この艀下船によって船頭は難場を乗り切っていましたが、艀下船を雇う分輸送費がかさみ、荷主にとっては負担となっていました。

 

<参考文献>渡辺英夫著『近世利根川水運史の研究』 吉川弘文館 2002

(齋藤 仁)

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メルマガ 第118号(平成21年12月)            2009.12

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せきはく豆事典  「浅瀬とのたたかい(4) -権現堂河岸-」

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 今回は『幸手市史 近世資料編【2】(巻島家文書85)』から、権現堂河岸における浅瀬とのたたかいについて紹介します。
  この文書は、文政12年(1829)2月21日に幸手領権現堂河岸船問屋久兵衛が、役所に金子百両を拝借したいと願い出ているもので、拝借の理由として、「旧来より河岸問屋として営業しているが、川筋に浅瀬ができ、これまでの高瀬では運送ができなくなってしまった。そこで新規に小舟を造って運送を行いたい。そのため金子百両を拝借したい」というものです。
  この川筋というのは権現堂川と思われ、文化6年(1809)の赤堀川の拡幅工事により、権現堂川への流量が減ったことも浅瀬出現に影響したと思われます。
  この浅瀬は、高瀬船では輸送できないが船を小型化すればまだ輸送できるほどの浅瀬であったことがわかり、輸送量が減る(収入減)にもかかわらず、営業を続けていくためには役所から借金をしてまでも船を小型化せざるをえない、苦しい胸の内が伝わってきます。
  すべての河岸問屋が船を小型化した訳ではないと思いますが、江戸時代後期の権現堂川は、小型船に輸送を頼らざるを得ない状況にあったことは確かなようです。

  <参考文献>『幸手市史 近世資料編【2】』

(齋藤 仁)

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メルマガ 第117号(平成21年11月)              2009.11

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 せきはく豆事典  「刳船(くりぶね)ってなに?」

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 以前に、「ふね」についての概要を記載したことがある。その中で「ふね」は刳船、準構造船、構造船へと変化・発展していることを述べた。今回はその続きとして、第一段階の刳船について記載する。
 刳船には一本の丸太をくり抜いただけの単材刳船と、二つ以上の刳船部材で船首や船尾をつなぎ合わせた複材刳船がある。単材刳船は長さが素材によって限定されるが、複材刳船は部材をつなぎ合わせることによって、長さを自由に変えることができる。したがって、複材刳船は単材刳船よりたくさんの人を乗せたり、多くの荷物を積むことができた。造船史から見ると、単材刳船から複材刳船へと変遷している。しかし、舟の強度から二者を比較すると、前者は頑丈であるのに対して、後者はつなぎ目のところから破船しやすいという弱点がある。ある地域では、単材刳船が最近まで使用されていた。このことは、単材刳船がいかに使い勝手が良かったかを物語っている証拠でもある。
 刳船の型式は平面形によって、竹を割ったような形の「割竹型」、鰹節のような形の「鰹節型」、長方形の「箱型」、船首が鰹節形で船尾が長方形の「折衷型」に分類できる。それぞれの舟底は「割竹型」が丸底、「箱型」が平底であるが、「鰹節型」と「折衷型」は丸底と平底の両方の形態がある。構造的観点から、型式が「割竹型」から「鰹節型」へ、舟底が丸底から平底に変化したという考えもあるが、まだ定説には至っていない。
 一般的に、単材刳船を丸木舟(独木舟)と呼ぶようである。日本では、丸木舟が縄文時代前期(5,000~6,000年前)から既に使われていた。最も盛んに使用されていた時期は縄文時代後・晩期(2,300~4,000年前)で、移動や漁撈などの手段として用いられていた。推進具は櫂で、漕ぎ手が船首を向いてカヌーのように漕ぐ「パドル」漕法で丸木舟を漕いでいた。全国的に丸木舟の出土例を見ると、千葉県が最も多く、およそ120艘と日本全体の半分を占めている。
 特に、その発見場所は千葉県東部の栗山川流域や旧椿海に集中している。  次回は、第二段階の準構造船について記載する予定である。

(横山 仁)

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メルマガ 第116号(平成21年10月)            2009.10

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せきはく豆事典  「浅瀬とのたたかい(3) -境通六ケ宿との争論-」

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 貞享4年(1687)大室村(柏市)と境通六ケ宿とのあいだに鬼怒川下りの荷物の陸揚げ駄送をめぐる争論が起きました。
 上山川河岸の上流に位置する吉田河岸の問屋一郎左衛門が、鬼怒川を下り江戸へ送る荷物を大室村で陸揚げし、江戸川筋の花輪村(流山市)へ陸送しているとして、吉田河岸を貞享3年に訴えています。六ケ宿側は、このルートでは鬼怒川下りの荷物が関宿関所を通らない上に、六ケ宿では荷物が減少して困窮し、日光東往還における御用人馬役にも支障が出るとして訴えています。これに対し吉田河岸側からは今後付け越を行わない旨の手形を出しましたが、実際には守れなかったため貞享4年に大室村を訴えたのでした。この訴えに対し幕府評定所は、境通側の訴えを取り上げ、大室村から花輪村への鬼怒川下りの荷物を付け越すことを禁止しています。
 こうした六ケ宿との争論は、天和2年(1682)にも木野崎村(野田市)と今上新田村(野田市)との間に新道を開き、鬼怒川下りの荷物を付け越す事件が起こっており、浅瀬の出現によって鬼怒川と利根川の合流部付近の村と江戸川筋の村の間で新道を開いて付け越を行い、それに対して境通六ケ宿が訴えるという争論が繰り返し行われることとなりました。

<参考文献>『柏市史 近世編』

(斎藤 仁)

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メルマガ 第115号(平成21年9月)            2009.9

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せきはく豆事典  「浅瀬とのたたかい(2) -奥州荷物の輸送-」

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 中利根の浅瀬は利根川東遷後の早い時期から出現していたことは前号で紹介しました。この浅瀬の難所があっても東北諸藩や水戸藩は、江戸詰家臣の給与米や換金目的のために江戸へ大量の年貢米を輸送しなければなりませんでした。
  会津藩や白川藩等の奥州諸藩は、鬼怒川舟運の最上流部、阿久津河岸まで年貢米を陸送し、阿久津河岸から小鵜飼船によって鬼怒川を下り、久保田河岸等で荷を下ろし、陸送によって境河岸まで駄送する「境通り」の経路と、久保田河岸等で大型船に荷を積みかえて鬼怒川を下り、利根川に入り遡上して、関宿から江戸川を下って江戸に向かう「大廻し」の二つの経路を利用していました。
  安永元年に境通りの馬継宿と山川河岸との間でこの二つの経路利用する荷物について、廻米や売穀類、近在から山川河岸へ出された穀類や薪類は大廻しの経路をとり、穀類をのぞく鬼怒川下りの商荷物は、山川河岸で陸揚げし、駄送によって大木、諸川、仁連などを経由する境通りとする取り決めが交わされました。この大廻しの際に浅瀬の難所を通過しなければならず、やがて物資流通が活発になるとこの取り決めを破る者が現れ、境通り六ケ宿との間で争論が頻発することになります。

<参考文献>『下総境の生活史 近世編【1】 河岸町の生活』

(齋藤 仁)

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メルマガ 第114号(平成21年8月)              2009.8

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せきはく豆事典 「浅瀬とのたたかい(1) -利根川舟運-」

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 利根川東遷により、銚子方面から江戸に直結する輸送路が完成し、年貢米をはじめとする多くの物資が江戸に運ばれ、江戸からは雑貨や文化・人などが地方に運ばれるようになりました。しかし、中利根(栗橋から鬼怒川合流部あたりまで)周辺では、渇水期には浅瀬が出現し通航障害を引き起こし、多くの争論を招くこととなりました。
 この浅瀬の最初の出現について、天和2年(1682)の「境通り」六か宿と木野崎村(現野田市)との争論の文書の中にみることができます。この文書によれば、「・・・板倉阿波守様関宿御持被遊候時分、関宿近所川浅ク荷物舟通不申ニ付、・・・」とあり、板倉阿波守重郷が関宿藩主であった明暦3年(1657)~寛文元年(1661)の頃、すでに関宿近所に浅瀬ができ通船障害を起こしていたことがわかります。 
  この浅瀬の問題は、天明3年(1783)の浅間山の噴火によってより深刻なものとなり、幕府や舟運関係者・荷主を悩ませることとなります。

<参考文献>『下総境の生活史 史料編 近世【1】 河岸町の生活』

(齋藤 仁)

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メルマガ 113号(平成21年7月)              2009.7

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せきはく豆事典 「関宿藩の飛地」

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 江戸時代の大名の領地は一箇所にまとまっているのが普通でした。しかし中には何箇所にも領地が分かれている大名もありました。こうした場合、城が所在する本拠地以外の領地が飛地です。この飛地は外様大名の領地には比較的少なく、譜代大名に多く見られます。外様大名の領地は戦国時代に戦いにより獲得支配してきた土地であるのに対し、譜代大名の領地は徳川幕府から与えられた土地です。そこで幕府の都合によって他へ領地を移す国替が頻繁に行われました。その結果、領地の石高合わせをはじめとする様々な理由で譜代大名の領地には飛地が発生しました。
 代々譜代大名が置かれた関宿藩にも飛地がありました。それは14代藩主牧野成貞が元禄元年(1688)に和泉国大鳥・泉両郡(現在の大阪府堺市中区)の一部(石高約4千800石)が幕府から与えられたのが始まりで、その後久世家が再び関宿藩主となっても関宿藩の飛地として廃藩置県になるまで長く存続しました。この飛地には関宿藩の代官所が置かれ藩の代官が支配していました。第二次世界大戦の終結に貢献した総理大臣鈴木貫太郎は幕末に代官を務めた鈴木由哲の長男としてこの地で誕生しました。また、飛地に当たる現在の堺市中区には久世の地名や久世小学校が所在し歴史を物語っています。

(郷田良一)

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メルマガ 112号(平成21年6月)              2009.6

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せきはく豆事典 「簗田氏ゆかりの昌福寺を訪ねて」

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 先日、生涯大学校の生徒(定年を過ぎた人たち)とともに、中世関宿城主簗田持助によって水海村(現・古河市)から長禄年間(1457~1459)に移築された関宿台町に所在する昌福寺を訪ねました。当日はご住職の下河辺氏にご案内頂き、丁寧な説明をいただきました。ここで昌福寺について簡単に紹介しましょう。
 昌福寺は真言宗のお寺で、本尊は大日如来。境内入口の山門は、天保4年(1833)に改築され、両側に小振りな仁王が安置されています。山門を入った右手に不動堂が見えます。元は江戸町に建っていたものを数ヶ月かけて引いて再建したとのこと。お堂の周囲は回廊が廻り、周囲の羽目板には江戸後期の彫工後藤安五良常善が文化15年(1818)に制作した“張良”“黄石公”“費長房”“花鳥”“波に鷹”のみごとな彫刻が施されています。
  ご住職のご厚意によりお堂の中も拝見することができました。正面に不動明王坐像が安置され、格天井には関宿藩士の家紋が描かれています。また、お堂正面には「明王殿」の扁額があり、関宿藩第20代藩主久世広運の書によるものとのことです。
 境内には江戸期の宝篋印塔、供養塔等が多数あり、江戸時代の人々に厚い信仰を受けたことを伺わせています。
 当博物館では、ホームページの「周辺スポット」内に「ぶらり散歩コース」をアップし、周辺地域の文化財めぐりの案内をしています。 ぜひご覧になり江戸時代の関宿を体感してみてはいかがでしょうか。

 ⇒こちら 
http://www2.chiba-se.or.jp/www/SEKIYADO/contents/1522055897400/index.html

(太田文雄)

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第111号(平成21年5月)                  2009.5

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せきはく豆事典 「刳船(くりぶね)・準構造船から構造船へ」

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  「ふね」は、人生の航海に良くたとえられている。苦難に遭遇するであろう人生行路に、たった一人で船出する。人生の門出は、まさしく大海に漕ぎ出す「ふね」のようなものである。
 古来より、日本は四方を海に囲まれ、生きる術(すべ)として「ふね」が必要であった。日本人にとって、「ふね」は漁撈(ぎょろう)・移動・運搬などの手段として密接な関わりを持っていた。また、時代とともに大きな「ふね」が建造されるようになると、軍事・産業・観光などに多様な発展を遂げてきた。
  造船史から見ると、「ふね」は刳船・準構造船から構造船へと変化している。この相違は船底構造をキーポイントとしている。刳船・準構造船は船底が丸太をくり抜いた部材で造られ、さらに準構造船には両舷(りょうげん:両方の船縁(ふなべり))に板材が接合されている。構造船は船底から船縁まで板材によって接合されたものである。この変化は、積載量を増やすために大型化を促進していったことによる。しかし最大の要因は、無計画な樹木の伐採により刳船・準構造船の建造に必要な大木が不足し、そこへ安価な板材で構造船を造る技術が開発されたからである。
 一般に、「ふね」は手漕(てこ)ぎによる小さなものを「舟」、エンジンなどで動く比較的大きなものを「船」と漢字表記するようである。構造的観点から、私は船底がくり抜き部材による刳船・準構造船を「舟」、板材による構造船を「船」と捉(とら)え、舟(刳船・準構造船)から船(構造船)への変遷がどのような構造になっていったのかを次回から探ることにする。

(横山 仁)

 

 

 

 

第110号(平成21年4月)                  2009.4

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せきはく豆事典 「幕末の利根運河計画」

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 江戸時代中期以降、農民や商人等による商品作物の増加により、それまでの領主的な廻米輸送などを中心とした流通から商品作物を扱う流通が活発になり、物資輸送路としての利根川の重要性が一層高まりました。しかし「利根川東遷」以後、利根川の河床は上昇し続け、渇水期には船の航行障害を引き起こしており、特に天明3年(1723)の浅間山の噴火以降、火山灰や泥流によって河床が著しく上昇した関宿から利根川と鬼怒川合流点までの区間や関宿関所前は難所になっていました。
 そこで幕府は、渇水期に定期的な浚渫「常浚御普請」を行い航路の維持に努めようとしました。この普請は町人や河岸問屋達が請け負い、ここを通過する船から通行料を徴収することで利益を上げようとしました。そのため、荷主には余分な経費がかかることとなりました。
 こうしたなかで、文政3年(1820)から6年(1823)にかけて、利根川から江戸川に運河を掘割る計画が、葛飾郡東金野井村名主吉三郎親大次郎・水戸領内常陸国新治郡南石川村舟世話人民十により立案されています。大次郎らは木野崎村(野田市)から江戸川筋岡田村(野田市)への運河掘割を願い、鬼怒川通・江戸川通・下利根川通・上州通の諸河岸から同意の連印を集めています。運河堀割の条件は、十年間の間は通船の米十貫目に付銀五分、その後は銀二分五厘を定浚金として出すというものでした。
 この運河が開通すると、境町(茨城県)より木野崎間の浅瀬の難所と関宿番所前の棒出しの難所を避けることができるほか、距離も十六里短縮されるというものでした。
 しかし、これまでの既存の河岸(旧河岸)の反対(旧河岸にとっては生活を脅かすものであるため)にあい、実施には至りませんでした。結局、利根運河開通は明治23年まで待たなければなりませんでした。

<参考文献>原淳二「利根川改修策の系譜-船橋随庵を中心に-」『利根川文化研究』2007.11

(齋藤 仁)

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メルマガ 第109号(平成21年3月)              2009.3

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せきはく豆事典「関宿藩の災害時における農民救済」

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  天明6年(1786)5月から8月にかけての大雨により、利根川・小貝川筋は大洪水となり、関宿関所は流出し関宿城内も被害を受けました。
 また、天明6年は大飢饉の最中でもあり、農民は飢饉と水害によって大打撃を受けました。そこで村々では藩に対して救済を求めています。
 そしてこれら農民の救済に対し、関宿藩は同年に関宿城下町、翌7年には領内全域で「救急安民録仕法」を実施し、村々の救済にあたりました。
 この「救急安民録仕法」とは、災害等で困窮する農民を救済するための仕法で、安民蔵(義倉)を設けて、農民の老若男女を問わず1か年に一人につき麦3合と稗6合を貯穀し、災害に備える備荒貯穀策でした。
 この仕法は、やがて代金納や1日銭1文の積金、麦2升と稗3升の現物を村々で貯蓄するなど変化していきますが明治初頭まで行われました。
 また第19代藩主久世広誉は、天明8年10月に37か条からなる詳細な条目を公布し、寛政7年(1795)6月には「百姓心得達書」を布達しています。この布達では、不作で農民が年貢減税を上申した場合は、差し引をするなどの農民救済をすることとし、農民に一層の耕作に専念するよう指示しています。

(齋藤 仁)

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メルマガ 第108号(平成21年2月)             2009.2

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せきはく豆事典 「関宿藩の終焉-久世騒動-」

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 江戸末期、久世広周が藩主を退いた後、関宿藩はまだ若い広文がその後継として関宿藩主となる。しかし、動乱の幕末において佐幕か勤王か日本が揺れ動く中、関宿藩においても両派の争いが激化し、お家騒動ともいえる久世騒動へと発展していった。
 混乱の中、藩を二分する騒動を収めようと関宿藩家老杉山対軒が関宿と江戸を奔走するなど、お家の大事収拾への努力が実を結び、本来であればお家断絶にもつながりかねない事態を藩主広文の隠居という寛大な裁きで決着するのである。
 そこで、久世騒動の顛末について日を追って見ていこうと思う。

慶應4年(1868 9月8日:改元 明治)

 4月6日   広文関宿より江戸深川邸へ
 
 4月9日   会津脱藩者服部半蔵、田口敬作「関宿城下通過の際、格別の便宜」を要請
               勤王派と佐幕派の意見が対立→藩内での対立が激化
               杉山対軒・船橋随庵等は勤王論を主張:反対の立場
               木村正右衛門、丹羽十郎右衛門等は佐幕論を主張:協力の立場

   4月12日   杉山対軒が関宿を発ち深川邸に到着 東海道鎮撫総督府への陳情のため

   4月14日   杉山対軒の陳述
            (1)会津藩の脱藩者の申し出は拒絶したが、近郷に潜伏の模様
                    藩主広文を帰  藩し、防備を固めたい
            (2)関宿藩は小藩のため官軍を差し向けてほしい
            (3)詳細については図面等用意し、重臣より説明したい

  4月15日   東海道鎮撫総督参謀の吉村長兵衛より対軒へ指示
            (1)広文は帰藩し、皇化に帰順するよう訓論すること
            (2)関宿藩の防備を固めること
            (3)万一暴徒徘徊の時は、古河藩に協力を求めること
            (4)暴徒鎮圧のため官軍を差し向けるので藩も協力すること
            (5)監軍安場一平を派遣するので、その指示に従うこと
             藩邸に戻り対軒等が大義名分を  説いたが、佐幕派の抵抗が激しく聞
             き入れられなかった 
              * 藩主広文は佐幕派に妨げられ帰城できず!

  4月16日   佐幕派は脱藩(脱走)と引き替えに広文帰城を勤王派に申し出る
              「脱走者が捕らえられても関宿藩士であることは口外しない」事を
                条件に脱走を認める。

  4月17日   対軒帰城

  4月19日   会津藩脱藩者1500人が岩井駅に屯集、使者が「明日、城下を通
                過するので人馬継立(宿送り)の用意をするようにと申し出がある。
                藩内で協力・傍観・反撃と意見が分かれ紛争

   同午後    薩摩藩の伊地知正治、野津七左衛門が200の兵を率いて関宿城入城
              「明朝、岩井駅に進撃。関宿藩は利根川筋の警戒に当たること」を
                指示
                対軒は、佐幕論者の反対を押し切り、川筋に兵を配置
               *はかりごと
               藩の監察山崎弥五右衛門は岩井駅の脱走軍に単身赴き「藩は協力するので、
               今夜はゆっくり休養し、明日関宿城下を通過するこ と」と告げて脱走軍を
               安心させ宿営させた。翌朝、官軍の急襲を 受けて脱走軍は四散・敗走する。

  4月20日   薩摩藩(官軍)の急襲で脱走軍敗走
                関宿城内では岩井方面の砲声に乗じて、木村正右衛門等佐幕派
                が「佐幕軍は官軍を追撃して関宿入城は必至。江戸の主君を守護
               するのが臣子の道」と説き130余名の藩士とともに脱走し江戸
               藩邸へ向かう。 

   
  4月21日  木村はじめ脱走者は江戸藩邸に潜入。関宿城落城を流布し、
               藩主広文を分家の久世下野守邸に隠匿する。

  4月22日  江戸詰の勤王派は佐幕派におさえられて幽閉状態となり、江戸
               と関宿の通信は絶たれる。
             (この間、対軒は監軍安場一平に対し、君主が佐幕論者に隠匿されたこと、
               自分たちは探索を続けていること、朝威をもって取り戻しを願いたい
               こと等を申し出ている)

  閏4月16日   対軒、藩士20人とともに関宿城から江戸へ

  閏4月18日   対軒、総督府へ出頭。吉村長兵衛参謀に藩主取り戻しを哀願。
                   参謀からは時機を待つように説示される。
  閏4月21日    藩主広文が深川藩邸へ戻っていることが判明。

  閏4月22日   対軒は総督府に出頭し、安場監軍に藩主が深川邸に戻っている
                   ことを報告。
                   明朝、深川邸で藩主引き渡しについて談義するように指示を受ける。

  閏4月23日   安場監軍は対軒に対し、藩主を誘い出して自分に引き合わせる
                   よう指示。
                   深川邸で対軒側と藩主側が闘争となり、死傷者を出す。
                   安場監軍が双方を取り調べ、対軒に謹慎を命ずる。
                   藩主は佐幕派に匿われ、上野山内観善院に移され、藩主の取り戻し
                   は失敗。

  閏4月29日  対軒はじめ30名が白金台肥後藩邸から霞ヶ関黒田邸へ謹慎替え。

  5月 8日   対軒以外の29名が黒田邸から関宿への帰国を許される。翌日出発。

  5月15日  上野山内彰義隊敗戦。広文随行は木村正右衛門、大久保善之助、
                和田某の3名となる。

  5月18日   広文等は佐倉(木村正右衛門の父は佐倉藩士)に移る。

  5月20日 広文の隠れ家判明(大久保、和田が藩主随行を解かれたところで
                捜索隊に発 見され、問いつめられ白状する)。広文は藩主探索隊
                とともに関宿へ帰る。
               * 関宿藩は重臣連署により広文への寛大な処遇を嘆願する。
               * 広文隠居、5千石の減、家名は血縁の者へ相続、の指示を 受ける。

  12月10日  広文から家名を弟の順吉(広業)に相続する旨の嘆願書を提出。

  12月15日  嘆願受理。領地は5千石減じ、4万3千石。藩主広業(12才)

明治2年

  4月       反逆首謀者罪状書が亀井清左衛門、木下源助、杉本市郎右衛門
                等により届出。        
                対軒はじめ15名が取り調べを受けるが無罪となり帰国を許される。

  4月20日  対軒が杉戸町並塚で暗殺(享年39才)。

  4月       版籍奉還。広業は関宿藩知事に。

明治4年

  7月14日  廃藩置県。広業は関宿藩知事を免せられる。

  7月末     広業が東京転居。

 

(太田文雄)

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メルマガ 第107号(平成21年1月)             2009.1

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せきはく豆事典  「利根川図誌」記載の関宿城(近世編)」

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 前回の中世編に引き続き、近世編を取り上げることにします。関宿は、当時、大変賑わっていたようです。なお、中世編の漢字表記において、人名の「梁田」を「簗田」に訂正します。  
 天正17年(1589年)7月11日に小田原城が落城した後、同年8月9日に以下の者が領地をいただいています(中略)。小笠原秀政は下総国古河(茨城県古河市)2万石、松平康元は下総国関宿(千葉県野田市)2万石をいただき、因幡守に任命された、岡部長盛は下総国関宿内1万2千石をいただき、内膳正に任命されたことが房総治乱記に書かれています。松平康元の墓碑は、関宿台町の観照山宗英寺にあります。(松平康元は宗英寺を創建した人で、戒名が大興院殿前因州太守傑伝宗英大居士で、慶長8年(1603年)8月14日に死去しています。墓碑の背面には従四位少将松平氏源康元墓、享年52歳没と書かれています。また、その側の標石には宗英寺松平康元の墓といっても、創建以来破損してきたので、明和3年(1766年)8月14日に松平康郷が修復したと刻まれています)。関宿が久世家の領地になったのは、安永3年(1774年)からです。今に至るまで、相続した城主は沢山の富をもたらし、領民は平和であることに喜びを感じ、街中が栄えました。東に台町、南に江戸町・内河岸・元町・内町があり、内河岸の対岸には向河岸がありました。この二か所の内河岸と向河岸には問屋や船宿が多く、最もにぎやかでした。江戸へ行く旅人の舟は向河岸から出ています。「江楼に柳樽を開き、江岸に柳の枝を折る」という情景は、言い表すことができないほど素晴らしかったようです。寺院は国花万葉記巻十に、「松恩寺の洞家が関宿にあって、寺領が20石」と書かれています。 。

 諸国圭斉録の中の下総国新義真言部のところに、「寺領15石を有する葛飾郡関宿の昌福寺」と書かれています。

 <参考文献> 赤松宗旦著・柳田国男校訂 1977「利根川図志」岩波文庫

(横山 仁)

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メルマガ 第106号(平成20年12月)             2008.12

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せきはく豆事典  「権現堂堤」

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 現在桜の名所として名高い権現堂堤(幸手市)は、『鷲宮町史』史料二と『新編武蔵風土記稿』の記述から天正2年(1574)から天正4年頃には堤が存在していたと思われます。
 権現堂川はそもそもは渡良瀬川の下流部として流れており、利根川とは別の水系でしたが利根川東遷(1594~1654)により利根川に組み入れられ、渡良瀬川の水も集めて利根川の主流としての役割を担うことになり、大雨の際には洪水が権現堂に集中することになりました。
 そのため、この堤が切れると必ずといってよいほど濁流は江戸を襲い幕府を震撼させました。そこで幕府は、この権現堂堤を強固な堤にするためたびたび改修工事を行っています。その結果、中小の洪水に対して江戸水防の堤として重要な役割を果たしましたが、数十年に一度という大洪水は防ぐことはできませんでした。
  一方でこの権現堂堤が江戸水防の要として強固になればなるほど、五霞村(現五霞町)や権現堂川に流入する島川筋では権現堂堤に集まった洪水の逆流によって水害常襲池となり、被害が絶えませんでした。そのためこれらの地域では、村全体を堤で囲んだり(囲い堤)水塚などを設けて水害を最小限にくい止める努力してきました。
  江戸幕府の治水の考え方は、江戸を水害から守ることや舟運路の確保を第一としていたことから、未熟な治水技術もあいまって根本的な治水対策がなされず、水害の常襲地となった地域の人々と洪水との戦いは、明治後期の連続堤の完成まで続きました。
 現在権現堂川は栗橋で締め切られ、権現堂堤もその役目を終えていますが今なお当時の面影を色濃く残しています。桜の季節訪れてみてはいかでしょうか。

(齋藤 仁)

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メルマガ 第105号(平成20年11月)              2008.11

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 せきはく豆事典  「江戸時代関宿の普請」

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 関宿は江戸時代をとおして洪水の常襲地域でした。寛保2年(1742)の洪水の時は本丸まで水が押し寄せ被害を受けています。城下では5mを超える出水にたびたび見まわれたそうです。特に、天明3年(1783)の浅間山噴火後は利根川の河床が火山灰や土砂で上昇し、洪水の頻度が多くなりました。人々は、洪水の度に復旧に追われ、大規模洪水に際して幕府は西国の大名に御手伝普請を申し渡し、関東周辺の普請に当たらせています。では、関宿藩では洪水の時どのような対応であったか当館の館蔵・寄託資料から見てみましょう。
 明和7年(1770)に三軒家から役所に出された文書に普請の状況が書かれています。  宝暦7年(1757)の御城堤2ヶ所が破堤した際の普請は村請けにて公儀普請で、寛保2年(1742)の三軒家から境までの普請は藤堂和泉守の御手伝普請で行われています。
 また、文化6年(1809)三軒家における正月御普請写留帳には、洪水による被害箇所の見分がたびたび行われ、そのたびに各村々に触れが出され実地見分を行った様子や、見分に基づいた復旧資材の調達などが記されています。ことに、赤堀川瀬分水利杭出破損箇所復旧用の資材として、以下の材料が調達されたことが分かります。
  杭木200本(長5間、末口4~5寸)、杭木150本(長4間半、末口4~5寸)、杭木100本(長4間、末口4寸)、雑木100本(長2間、横開き2間)、唐竹200本(目通り1尺5寸)、葉直竹300本(目通り1~2寸廻り)、明俵400俵(4斗入り)、縄100房(20尋)
 これらの材料は利根川と逆川の分水地点に設置されている杭出しの材料となったものと思われ、9mの長さの杭を用いたことにはびっくりさせられます。
 このように、江戸時代は洪水の度に被害箇所を復旧し、又洪水におそわれるといったことを繰り返していたのでしょう。現在のような技術をもっていなかった時の苦労が偲ばれます。

(太田文雄)

 

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メルマガ 第104号(平成20年10月)              2008.10

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せきはく豆事典  「川浸り(かわびたり)」

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 時期的には少し早い話題なのですが,「川浸り」の民俗行事をご存じでしょうか。12月1日に行われるこの行事は,水の神を祭る川にかかわる行事で,全国的に行われています。
 12月1日を「川浸り」とか「川浸りの朔日(ついたち)」または1年の最後の月の朔日であることから「乙子(おとご)の朔日」ともいいます。
 この日に行われる行事の内容としては,水の神様に餅をお供えすることのほか,餅を食べる・川に行きお尻を水につけてくる・餅を川に流す・餅を川原に捨てるなどの例があります。また,この日つくる餅を「川浸り餅」ともいい,この餅を食べると水難に遭わないといわれ,この餅を食わぬうちは川を渡るものではないとか,神供の小豆餅を食べぬうちに渡るのは危険だから小豆を鼻の先につけて渡れとかいうところもあるようです。このように,この行事には,水難からまぬがれるという意識がうかがわれます(注1)。
 関宿地域にこの行事が存在していたかどうかわからないのですが,隣の境町には「かびたり餅(川渡り餅)」という行事があります。行事の内容としては,「餅をついて水神様に供えると牛馬を水難から守るといわれた」ようです(注2)。  
 「牛馬を水難から守る」というのは,この地域でたびたび発生していた水害,あるいは,この地域が河川や湖沼・湿地が多いことから農作業や運搬などの作業での水難事故から牛や馬を守ることなのでしょうか。  
 他の地域の例では「ひと」が水難からまぬがれるということですが,「ひと」が中心ではなく牛や馬であることは,この地域の人々が牛や馬を大切にしていたことを示していると言えます。  
 6月にも水の神を祭る川祭りの行事がありますので,なぜ冬の時期に「水難からまぬがれる」という,このような行事があるのかはよくわかっていないようです。

(注1) 鈴木棠三 「日本年中行事辞典」13版 1989年10月 角川書店

(注2) 境町史編さん委員会編 「下総境の生活史」地誌編 地誌 平成16年3月 境町

(矢戸三男)

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メルマガ 第103号(平成20年9月)              2008.9

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せきはく豆事典  「「利根川図志」から見る関宿城(中世編)」

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 「利根川図志」とは江戸時代に書かれた書物である。その著者は赤松宗旦といって、本業が医者である。彼は現在の茨城県北相馬郡利根町布川に住んでいた人で、私と同郷である。そういった意味から、私は彼に大変興味を持っている。そこで、私が勤務している博物館と関係のある関宿城について、彼は記載しているので、そのことを取り上げることにした。

 この城は、古河公方足利成氏の家臣である簗田成助が築いたものである。簗田家は、もともと下野国の出身で(今でも下野国に梁田郡梁田村<栃木県足利市>がある)、代々鎌倉公方に仕えていた家柄である。永享10年(1438年)11月1日、簗田満助たちは相模国(神奈川県)の大蔵にある足利持氏の御所を留守して、三浦時高と戦い、死亡した。その後、嘉吉元年(1441年)4月16日の結城合戦で結城城が落城したとき、足利持氏の息子である春王丸と安王丸を守るため、簗田四郎は長尾実景に討たれ、簗田三郎は武田信廉との戦いに敗れた。宝徳元年(1449年)9月9日に、春王丸の弟である足利成氏が関東の総大将となり、簗田持助は結城氏の一族と同じく「出頭」人となった。その後、康正元年(1455年)6月16日に、8代将軍足利義政の命令によって、今川範忠は鎌倉公方足利成氏を敗った。このとき、足利成氏は下総国葛飾郡古河の鴻巣(茨城県古河市)に移り、関宿城に簗田持助を居城させた。その翌年、康正2年(1456年)1月19日に、足利成氏の命令によって、南図書助たちと同じく簗田持助は、千葉実胤の居城である市川城を落城させた。このとき、簗田持助は関宿から打って出て、武蔵国足立郡(埼玉県さいたま市周辺)の大半を占領し、市川城を奪い取ったと鎌倉大双紙下巻に書かれている。その後、簗田成助は、頻繁に上杉氏と和睦することをすすめていた。その後、社会がさまざまに変化していった。弘治2年(1556年)12月15日に、北条氏康が足利晴氏と足利義氏を関宿城に移し、簗田政信を守護にしたことが関東古戦録巻六に書かれている。その後、上杉輝虎(のち謙信)の攻めを防ごうとして、加勢にきた結城晴朝と、簗田晴助は永禄3年(1560年)1月4日に、柳橋(東京都台東区の南東部)において誤って戦をしたと関東古銭録巻九に書かれている。天正元年(1537年)11月17日に、簗田政信と簗田綱政は佐竹義重が戦場から退いたのを機に、北条氏政の兵に敗れ、佐竹家の居候となった。また、関宿城は北条氏に帰属されたと関東古銭録巻十九に書かれている。

<参考文献>赤松宗旦著・柳田国男校訂 1977「利根川図志」岩波文庫

(横山 仁)

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メルマガ 第102号(平成20年8月)              2008.8

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せきはく豆事典 「幕府・領主の災害時の救済措置-御救-」

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  江戸時代は水害や飢饉など数々の災害に見舞われ、現代とは比べものにならないほど多くの人命や財産が失われた。こうした状況で幕府や領主はただ黙って見ているわけではなかった。農民たちの生命・財産を守ることは、領主としての義務であり、そうすることで領主と農民の支配関係の秩序を保ってきた。
 また、農民たちを保護することによって、経済基盤となる年貢の確保につながった。そこで幕府や領主は、被災地の村々に対して数々の救済措置を行っている。 それが「御救」と呼ばれるものである。
 災害時、幕府や領主は、食料である夫食米(ぶじきまい)や田畑に蒔く種籾・種麦、耕作に必要な農具の購入代、農作業時(農繁期)の食料である「作付夫食」などを貸し与え、領民の救済策を講じてその生活や生業を助けようとした。夫食の貸付は無利子で、種籾・種麦の貸付は利子付きで行われた。しかし、誰もが貸付を受けられるものではなく、名主層は原則受けられず、農民においても他に援助を受けられる身内がいないかなど厳しく役人によって調べられた上で貸付られた。そして貸付を受けた農民は、決められた期間内(主に5年)に年賦で返済しなければならなかったが、毎年のように水害にあう地域では返済が滞ったり、返済できない場合もあった。その場合、貸付を受けた村では返済の延期を願い出た。これを受けて領主は、状況を判断して、返済の一時延期を認めたり、返済を免除することがあった。こうした返済の一時延期や免除を「御救」と称していたが、毎年のように災害に見舞われ、救済を受けることが多かったため、次第に夫食や種籾の拝借も「御救」と呼ぶようになっていった。

(齋藤 仁)

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メルマガ 101号(平成20年7月)              2008.7

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せきはく豆事典 「~川開き・川の日~」

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 夏季に入ると、各地で「川開き」・「海開き」・「山開き」の行事が行われます。 「川開き」の行事として有名なものには、両国の花火大会があります。 両国の川開きの由来は、江戸時代の享保17年(1732年)5月28日(陰暦)に、幕府が飢饉や悪疫などによる犠牲者を慰霊し、悪霊退散を願って両国橋付近で水神祭を行った際、隅田川両岸の水茶屋が死者の追善供養のための川施餓鬼を行ったことにあります。その翌年から、5月28日を「川開きの日」として同様な行事が行われ、その余興として花火が打ち上げられました。そして、この日から8月28日までを納涼船が出る期間とし、花火の打ち上げが続いたのです。最終日にあたる8月28日には「川納めの日」として竜頭祭が行われました(注1)。
 このように、「川開き」はもともと慰霊や悪霊退散などを願う行事でしたが、現在では納涼や観光、記念祭的な行事として行われ、「川開き」という言葉もあまり聞かれなくなりました。
 関宿地域では、昭和59年の調査によると、行われる日や祭りの名称はまちまちですが、7月に悪疫退散・悪病退散・悪魔払い、五穀豊穣を願ったお祭りを行う地区が幾つかみられます(注2)。
  関宿は江戸川や利根川といった河川に挟まれ、河川との係わりが密接な地域ですが、これらの地区のお祭りでも「川開き」として行うということではないようです。  また、7月第三月曜日は「海の日」として国民の祝日となっています(「国民の祝日に関する法律」)。これに対して、「国民の祝日に関する法律」にはありませんが、国土交通省では近代河川制度100周年を記念して、平成8年に7月7日を「川の日」とすると定め、河川と国民との関わりや、その歴史、河川の持つ魅力等について広く国民の理解と関心を深めるような各種行事、活動を実施しています。
 その一環として、関宿地区では、平成13年7月7日に「川の日」を記念して、関宿城博物館の北側にある関宿閘門の開閉が行われ、水運が盛んだった頃の様子を窺うことができました。
 「希薄化した人と河川との関係を見直し、河川に対する人々の関心を取り戻すこと」(国土交通省・川の日制定趣旨の一部)ができるようになれば川に対する認識も変わり、やがて「川の日」が国民の祝日となるかもしれません。

 

注1 「隅田川をめぐるくらしと文化」東京都江戸東京博物館調査報告第13集
     東京都江戸東京博物館都市歴史研究室編 平成14年3月
注2 「関宿のお祭り」関宿町文化財調査報告第3集 関宿町教育委員会 1985

(矢戸三男)

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メルマガ 100号(平成20年6月)              2008.6

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せきはく豆事典 「当世具足(とうせいぐそく)」

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 「当世具足」は、近世に出現した防御具である。当世とは「今の世」、具足とは「甲冑」の意味で、以前の甲冑と区別するために呼ばれていた。その特徴は身体を甲冑で覆い尽くしているが、軽くて動きやすいところにあった。嗜好的意識の芽生えによって、形が非常に複雑になり、たくさんの種類がある。
 「当世具足」の構造は大きく分けると「札(さね)=小札(こざね)」、「威毛(おとしげ)」、「金具廻り(かなぐまわり)」、「革所(かわどころ)」からできている。
 「札」とは一片の牛革や鉄板を言い、「当世具足」を構成する上で、最も重要なものである。「札」の綴じ方によって、「本小札(ほんこざね)」、「伊予札(いよざね)」などがある。
 ちなみに、「本小札」は「札」の半分を重ねて綴じたものに対して、「伊予札」は「札」の端をわずかに重ねて綴じたものである。 
 「威毛」とは「札」を上下に連結するのに綴じる糸のことで、革、絹、木綿などが使われていた。また、着用する武士の好みによって、さまざまな色に染められていたようである。
 ちなみに、「威」とは当て字で、「緒通し」の意味である。
 「金具廻り」とは、「札板(さねいた)」の最上段に接する鉄板のことである。種類には「胸板」、「冠板(かんむりいた)」、「鳩尾板(きゅうびいた)」などがある。
 「革所」とは革が使用されているところを言い、頭の部分では「裏張(うらばり)」、「浮張(うけばり)」、「吹き返しの包み韋(がわ)」、胴の部分では「肩上(かたがみ)」、「弦走韋(つるばしりがわ)」、「蝙蝠付(こうもりづけ)」、「胴の裏包韋(うらづつみがわ)」、袖の部分では「矢摺韋(やずりのかわ)」、「籠手摺韋(こてずりのかわ)」を指している。また、「金具廻り」に貼る「絵韋(えがわ)=絵革」もこれに当たる。
  「当世具足」の名称は、「札」と「威毛」を主体に構成されているため、『○○糸威○○胴具足』となっている。最初に「威毛」の色が記されて、次に胴の種類が表示されている。

 <参考文献> 笠間良彦 1988『図解日本甲冑辞典』 雄山閣

(横山 仁)

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第99号(平成20年5月)                  2008.5

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せきはく豆事典 「激動の幕末と関宿藩」

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 19世紀中頃、アメリカ・ヨーロッパの列強諸国のアジア進出・貿易拡大政策は、鎖国を続ける江戸幕府を揺るがし、新体制へ日本を大きく転換させていきました。
  嘉永6年(1853)、浦賀に黒船が来航し、アメリカの圧力に屈した幕府は開国を決め、日米和親条約、日米修好通商条約を締結し、その後ヨーロッパ列強とも同様の条約を批准していきます。その頃は、井伊直弼が大老として幕府の実権を掌握し、徳川慶喜の支持勢力を排除し、尊王攘夷派の弾圧を推し進め(安政の大獄)、14代将軍に家茂を立てました。開国を断行した井伊直弼が水戸・薩摩藩士に暗殺されると(桜田門外の変)、幕府の権威は失墜し、公武合体運動、尊皇攘夷運動が進められ動乱の時を迎えます。
 公武合体運動は、幕府の権威復権を目指した朝廷と幕府・雄藩との協調による政治運営政策で、文久元年(1861)に老中安藤対馬守政信と久世大和守広周(関宿藩主)体制のもとに14代将軍家茂と孝明天皇の妹和宮との婚姻(和宮降嫁)をまとめます。
 その後、島津久光(斉彬の弟)をはじめとする一橋派が、慶喜を将軍候補に擁立し朝廷と幕府首脳部を一橋派で占め、公武合体が一応成功しましたが、尊皇攘夷運動の激化とともにその意味を失っていきました。
 尊皇攘夷運動は天皇を中心として外国(西洋人)を攘う政治体制を目指すもので、雄藩を中心に尊攘派勢力(水戸藩の天狗党、土佐藩の勤王党、薩摩藩の精忠組、長州藩の吉田松陰や高杉晋作など)が拡大していきます。しかし、薩摩藩や長州藩が列強との戦いで攘夷は不可能であると悟り、開国へと方向転換を図りながら討幕運動を進め、天皇を中心とした新政府樹立への原動力となっていきます。
 そして、幕府は雄藩の動きをおさえきれなくなり、ついに慶応3年(1867)、政治の実権を朝廷に返し、王政復古が宣言され、翌年明治政府が成立し、約260年続いた江戸幕府は終わりを告げます。
 この動乱の時期に、幕府体制の立て直しのため関宿藩主久世広周は公武合体政策に尽力しましたが、慶喜擁立の動きの中で老中職を退いています。関宿藩は広周没後、藩主幼少のため統制を欠き、関宿藩内は佐幕派と勤王派が対立、主君の争奪、藩士の脱走という「久世騒動」へと発展し、混迷を深めます。その収拾に当たったのが関宿藩士の杉山対軒で、一時佐倉に逃れていた藩主広文を関宿に戻し、騒動を収拾します。
 さらに、対軒の嘆願により新政府の広文に対する処分も寛大なものとなりました。しかし、明治2年に対軒は彼の名声をねたむ反対派によって暗殺されます。その後、廃藩置県により関宿藩は解体し、関宿城も払い下げとなり、とり壊されます。

(太田文雄)

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第98号(平成20年4月)                  2008.4

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せきはく豆事典 「享和2年(1802)7月の洪水と下利根の洪水」

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 この洪水は台風によるもので、7月1日夕刻に中条堤を越水、同日権現堂堤で2カ所、長さ400間にわたり破堤し、江戸市中を浸水させる大洪水であった。
 天明3年(1783)の浅間山噴火という自然災害により中利根周辺の河床の上昇が顕著となり、濁流が権現堂堤を破堤させたのである。  
 天明6年(1786)の大洪水以後、幕府は寛政元年(1789)に権現堂川の堤防補強工事をおこない所々に杭出しを設けた。また、寛政7年(1795)には、権現堂川及び江戸川に水害防止の常設監督者として、水防見回役を任命している。こうした中でこの洪水は起きており、天明6年の洪水とともに幕府にとって衝撃的な洪水であったと思われる。すなわち権現堂堤の破堤は、江戸への直接の被害を意味していたからである。
 そこで、幕府は文化6年(1809)金沢瀬兵衛に命じて赤堀川を40間に切り拡げ、旧常陸川筋への流量を増やすこととした。しかし、この工事は抜本的な工事ではなく、数十年に1度といわれるような大洪水に対してはまったく対応できず、この後も江戸は大洪水の被害を受けた。
 また一方で、下利根沿岸の水害が大きな問題となるのは、この文化6年の赤堀川の切り拡げ工事以降のことで、この年を境にして文化6年以前は上利根と下利根でそれぞれ独立して水害が発生していたものが、文化6年以降は上利根で水害が発生すると下利根にも水害が発生するようになり、下利根の水害が多発することになった。

(齋藤 仁)

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メルマガ 第97号(平成20年3月)              2008.3

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せきはく豆事典「近世利根川の洪水-その2-天明3年の浅間山噴火とその後の大洪水-」

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 天明3年7月8日(新暦:1783年8月5日)を中心とした浅間山の噴火は、鎌原泥流を噴出し、大災害を引き起こした。また、火山灰は南北7~8里(約28~32km)、東西50里(約200km)にも及び下総佐倉付近でも2~4寸ほど積もった。  浅間山噴火の利根川への影響は、河床上昇による水害の激化とともに平水時における排水悪化による水腐地を増大させた。  天明3年7月浅間山噴火直後に発生した洪水は、七分川を埋没させ、上利根川左岸赤岩地先で500間破堤し、さらに右岸にも氾濫し、その余波が江戸まで及び、新大橋や永代橋を流出させている。この洪水による河床上昇は大きいものであったらしく、天明3年秋に幕府は肥後熊本藩主細川越中守重賢に命じて、武蔵、上野、信濃三国の河渠浚渫、堤防修築の普請を行わせている。  また、天明6年(1791)の洪水は、江戸時代発生した洪水の中でも最大規模の洪水で、上流から下流まで全川にわたって被害をもたらした。特に、権現堂堤の破堤は中条堤の破堤に先立って江戸を襲っており、江戸開府以来初めての破堤である。この権現堂堤が破堤すると濁流はすぐさま江戸を襲うことになり、後の享和2年(1802)の洪水においても破堤し、濁流が江戸を呑み込んだ。  この天明6年と享和2年の2回の洪水により、幕府はこの権現堂堤および江戸川流頭部の改修・補強工事を行い、大洪水に対する抜本的な対策に迫られることとなったが、財政的にも技術的にも困難であり、抜本的な対策は明治政府に委ねられることとなる。

(齋藤 仁)

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メルマガ 第96号(平成20年2月)             2008.2

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せきはく豆事典 「近世利根川の大洪水-その1-寛保2年の大洪水-」

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江戸時代の265年間(1603~1867)に記録された利根川に関係する洪水の数は173回とされます。この記録から見ると、利根川は1~2年に1回の割合で洪水を起こしていたことになります。おもな大洪水をみると、寛永元年(1624)、宝永元年(1704)、享保13年(1728)、寛保2年(1742)、宝暦7年(1757)、天明3年(1783)、天明6年(1786)、弘化3年(1846)があり、中でも寛保2年の洪水は江戸時代最大級といわれる洪水です。

<洪水の状況>

 7月28日頃、近畿地方に上陸した台風が、8月1日(新暦8月30日)関東地方全域を襲いました。

 8月1日~2日に上利根川では最高水位に達し、左岸側では堤防3カ所が決壊し、邑楽郡一帯(現群馬県)を水没させました。右岸側では北河原付近(現埼玉県行田市)で2カ所が破堤し、忍領を浸水させ新川通でも右岸側に11カ所が破堤。

 荒川も8月2日にはこれまでの最高の水位に達し、熊谷から久下にかけて数カ所が破堤し忍領に流入しました。

 8月3日、綾瀬川の小谷野付近で破堤し、隅田川でも寺島地先で破堤があり、江戸市中にも浸水がおよんでいます。

 8月5日には、上平井(葛飾区)で1丈3尺の水位で、浸水範囲は千住、向島、本所、深川、葛西、下谷、尾久、三河島におよび、湛水期間は十数日にもおよびました。

 8月8日に再び大風雨があり、この時には下利根川、小貝川に破堤氾濫があり、大被害がでています。

<被害状況>

 『大水記』では、江戸表よりもたらされた「書付」の写しとして、この大水害の記録を残しています。これによれば、関八州において大洪水となった河川は、荒川、玉川、上利根川、神流川、烏川、江戸川、横川、下利根川、中川、綾瀬川、向川、中嶋川、星川、小貝川、岡明川、新利根川などで、堤防の決壊箇所は9万カ所にも及び、その長さは77キロにも達しています。そして、江戸を除いて武州、上州、常州、房州、信州の諸村の被害を合わせると、流出したり潰れた家屋は18,175軒、水死者1,058人、水死した馬7,075頭とされます。これは最終的な被害状況ではないため、実際にはこれを遙かに上回る被害であったと思われます。水位は平水位上7~8尺(約2m)から20余尺(約6m)にもおよんだところもあり、特に荒川上流部の野上下郷(長瀞町)の「寛保洪水水位磨崖標」によると、その水位は現在の河床上約24mのところに“水”と刻まれています。また、このとき関宿城も大破しています。

<幕府の対応>

 この大水害に対して幕府は、「関東利根川御普請御手伝」と称して、毛利、細川、藤堂などの西国の十大名に、利根川の全水系にわたって改修工事を命じています。

 利根川水系では7大名、荒川水系では3大名があたり、河川延長175里、10大名の工事予算は23万両でした。毛利藩では、上利根川南側の破堤箇所の復旧、葛西用水路など農業用水路の浚渫を寛保2年11月に着工し、翌年3月竣工しています。工事予算3万4千両、人夫は延100万人を使用したといわれており、鷲宮神社(鷲宮町)には竣工記念の石灯籠「刀禰上流以南修冶告成碑」があります。

 この工事は、利根川治水の抜本的な対策を目的としたものではなく、復旧・改修のための工事であったため、この後も大洪水にみまわれることになります。

 

(齋藤 仁)

(※「大島埜地」の誤記かと思われます。)

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メルマガ 第95号(平成20年1月)             2008.1

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せきはく豆事典  「房総鉄づくりの始まり」

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 今回は、房総の鉄づくりの始まりを考古資料から紹介する。

 日本最古の鉄製品は、福岡県曲り田遺跡から発見された板状の鉄斧で、縄文時代末から弥生時代初期のものとされている。これは国内に持ち込まれた最初の鉄製品で、大陸から鉄を加工した製品が伝わった時期といって良い。

 房総では弥生時代の遺跡から鉄製品が見つかっているが、実際に鉄をつくり加工した遺跡は八千代市沖塚遺跡、海上町岩井安町遺跡などの古墳時代初期の遺跡から発見された鉄を加工する鍛冶工房跡が最初である。鉄片から小型な製品をつくったものと考えられる。古墳に埋納される大刀などは奈良方面でつくられたものがほとんどで関東では生産されていないようで、この頃はもっぱら鉄素材を熱して刀子などの小型品や農具・土木具などの加工が行われたと思われる。

 7世紀の後半頃から箱型や竪型の製鉄炉が発見され、鉄づくりの本格操業をうかがわせている。8世紀頃から10世紀に操業した成田市取香和田戸遺跡や柏市花前【2】遺跡・市原市押沼第1遺跡などで複数の炉を設けている。製錬炉の基礎となった技術がそこにかいま見ることができる。かつて、風土記の丘の学芸員(故山口直樹氏)により遺跡から発見された炉を復原し鉄づくりの実験が行われ、みごと砂鉄から鉄製品を完成させた実験研究があり、その成果は学会でも高く評価されている。

 現代文明の発展は、鉄なくして語れないが、その生産の技術は古代から脈々と連なり、生活具や武器、建設資材など様々な形で身の回りに存在している。その粋を極めた技術を美術刀剣に見ることができる。

(太田文雄)

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メルマガ 第94号(平成19年12月)             2007.12

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せきはく豆事典  「高瀬船の淵源」

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 中世あたりまで、霞ヶ浦や北浦、印旛沼・手賀沼等々は、ひと続きとなっており、そこには広大な内海が展開していました。現在の利根川下流域にあたる千葉県・茨城県の県境付近一帯のことです。この内海のことは、その一部をさして香取の海、あるいは香取の浦・香取潟などと、時代によってさまざまに呼ばれてきたようです。

 12世紀前半の成立と推定される『今昔物語集』巻第25では、この内海について「衣河ノ尻、ヤガテ海ノ如シ」と記しています。衣河とは現在の鬼怒川に相当しますが、その注ぎ込むあたりを“まるで海のようだ”といっているのです。そしてさらに、下総国と常陸国の境をなすこの海を「内海」とも「入海」とも表現し、「此ノ海ノ中ニ、浅キ道ノ有リケル」と括っています。つまり、ここは海とはいいつつも、諸所に人の渡れる浅瀬があるような“水深の浅い海”だったとみられます。

 一方、12世紀後半以来、香取神宮(香取市)の支配下には海夫がおかれていました。海夫とは、この香取の海に散在した津(港)に集住し、専門的な漁撈活動を生業としていた人びとで、応安7年(1374)頃に書かれた「海夫注文」には、すでに津の数が下総国で24か所、常陸国で50か所以上あったことが記されています。海夫は、各津の地頭を通して浅海で獲れた魚介類を香取神宮に供菜料(神祭物)として貢進し、そのことによって香取の海での漁撈と船の運航の特権を保証されていたのです。ゆえに、香取神宮は船の航行を司る神としても信奉されていました。そして、次第に彼らは人や物資を運ぶ廻船などの水上輸送も活発におこなうようになっていきます。近世の利根川水運以前に、佐原・潮来・神崎・石岡・大船津・古渡津(江戸崎)などといったところは、早くから商業集落として成り立っていたのです。

 こうしてみてくると、すでに近世以前においても、輸送を目的とした船がこの地域を頻繁に往航していたとうかがえ、やがて舟運の立役者となった利根川高瀬船は、もとより香取の海と呼ばれる内海時代からの、伝統的な造船技術を継承していたものと推察されます。そして、こうした背景のなかから育まれた固有の船であって、近世以降、河道の整備や干拓等々が進められるなか、銚子や江戸で出会う海船の技術をも取り入れながら、大型化していったと考えられるのです。

(小林 稔)

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メルマガ 第93号(平成19年11月)              2007.11

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 せきはく豆事典  「明暦の大火」

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明暦3(1657)年に本郷丸山にある本妙寺から出火した火事は振袖火事とも言われ、江戸市中の10万人が焼死し、江戸城本丸まで焼失した大火であった。丸山本妙寺は関宿藩主久世家の菩提寺でもある。本妙寺は現在、東京巣鴨に所在するが境内地には焼死した亡者のために明暦の大火供養塔が造立されている。

 一説によると本妙寺は火元ではなく隣接して所在した安部忠秋の屋敷が火元といわれ、老中職を務めている忠秋邸からの失火となれば幕府の威信にも関わる重大事であることから、本妙寺が火元を引き受けたというものである。事実は不明であるが、大正時代まで阿部家から明暦の大火の供養料が納められていたという。

 さて、当時の大老は松平信綱、阿部忠秋、酒井忠清の3人であり、事態の収拾に向けて話し合いがもたれたであろう事は想像できる。当時、徳川家綱の側衆となっていた久世広之は、自身の菩提寺からの出火であり、事の重大さに驚愕しながらも事情を調査したようである。そこで耳にしたのが火元は本妙寺でなく老中阿部忠秋の屋敷からということであった。老中3人に久世広之が加わり仔細な相談が展開したことであろう。

 結果的に本妙寺が火元となったわけであるが、本妙寺に対しては一切の咎めがなく、阿部家からは供養料として約260年間にわたって納められることになった。最大のポイントはだれも不服を生じない方法で解決が図られたことでないかと考えられる。久世広之は松平信綱の後任として寛文3年(1663)に老中に就任し、翌寛文4年には2万石の加増を得て、寛文9(1669)年には関宿5万石を領することとなった。

 

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メルマガ 第92号(平成19年10月)              2007.10

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せきはく豆事典  「小林一茶と一茶を支えた人々」

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 小林一茶は江戸時代後期の俳人で、宝暦13年(1763)信濃国柏原に生まれ、名を弥太郎と言いました。3歳で母くにを失い、8歳の時継母さつが来ましたが、翌々年異母弟の仙六が生まれると、一茶と継母の仲がうまくいかなくなり、15歳の時江戸に丁稚奉公に出されました。その後10年間は彼の動静を知る文献がなく一切不明ですが、おそらくこの10年間に俳諧をおぼえ、当時の葛飾派の俳人二六庵竹阿の門弟となり、27歳頃に「一茶」の俳号をつけました。

 一茶の常総方面への来遊は寛政3年(1791)に始まり、3月26日に江戸を出発して、馬橋、小金原、我孫子、布川(現茨城県利根町)、田川(現茨城県利根町)及び新川などを俳諧行脚しています。その後、ことあるごとに常総地域を訪れ、地元の俳諧人達と親交を深めました。

 それは、下総国馬橋村(現松戸市馬橋)には豪商で油屋を経営していた大川立砂とその子斗有親子がおり、一茶を暖かく迎え物心両面において一茶を支えました。そして一茶は、その後何十回となく訪れています。また、流山の酒造家秋本双樹も大川親子に負けず一茶を支えています。この秋本双樹亭は、現在一茶双樹記念館として当時を偲ばせています。

 また、守谷には西林寺の義鳳上人、田川には古田月船がおり、これらの地にも何度となく訪れ交友を深めるとともに、支援を受けていました。

これらゆかりの地には

 流山市一茶双樹記念館「夕月や流れ残りのきりぎりす」

 取手市長禅寺    「下総の四国廻りや閑古鳥」

 守谷市西林寺    「行く年や空の名残を守谷まで」

 利根町琴平神社   「べったりと人のなる木や宮角力」

 利根町徳満寺    「段段に朧よ月よ籠もり堂」

 利根町来見寺    「赤門やおめずおくせず時鳥」

などの一茶の句碑があります。

徳満寺には柳田国男の民俗学の原点となった。「間引き絵馬」があり、許可を得れば見学することもできます。

これからの行楽シーズンに巡ってみてはいかがでしょうか。

(齋藤 仁)

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メルマガ 第91号(平成19年9月)              2007.9

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せきはく豆事典  「あんば囃子と大杉信仰」

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暑かった夏も終わり秋風が心地よい季節となってきた。笛や太鼓にのって軽快なお囃子とともに盛大に夏祭りが行なわれた地域も日本各所に見られました。稲敷市阿波の大杉神社は、通称「アンバさま」と呼ばれ、航行安全や疫病退散の神様として関東一円に信奉されています。『あんばは大杉大明神 悪魔を払ってヨーイヤサ ヨーイヤサ あんばは煎餅 小野まんじゅう 龍ヶ崎のところてんヨーイヤサ ヨーイヤサ・・・・』このお囃子はあんば囃子と呼ばれ、江戸時代の頃から大杉信仰とともに関東の村々のまつりで歌われていたといわれており、現在もこのお囃子が歌い継がれています。曲調は軽快で歌詞は地域に合わせてアレンジしたものが多く見られます。

実はこのあんば囃子、江戸時代の享保12年(1727)に江戸市中で爆発的にはやり、幕府があんば囃子を禁止して沈静化を図ったといわれています。ことの発端は亀戸天神よりほど近い香取明神の松の木に強烈な雷光とともに白い御幣が飛んできたという。誰いうともなく、これは常陸国阿波大杉大明神が飛来したものという話になり、参詣が始まった。たちまち江戸市中に流行りだして、『阿葉大杉大明神 悪魔払ふてよいさ 世がよいさ世がよいさ・・・』のお囃子とともに笛・太鼓で囃し立て幟旗や屋台なども担ぎ、大船まで仕立てて町中大騒ぎとなったという。この騒ぎを重く見た大岡越前守は「あんば囃子」を禁止し沈静化を図ったといわれている。

大杉神社の本社は稲敷市阿波にあるが、関東各地に大杉神社の分布が見られる。その分布は、大型河川沿岸に集中し、特に江戸時代河岸が置かれた地点を中心として密集している。これは、航行安全の神として当時から舟運業者の間で信奉が深まり、その信仰圏を広げていったことに起因しそうである。船頭などを中心とした信奉者と神社自体の各地への出開帳がその伝播を担っていたのでしょう。その他にも村伝いに内陸部へ浸透していった様子もうかがえます。このような大杉信仰の広がりが現在の夏祭りの中でかいま見ることができるのです。

 

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メルマガ 第90号(平成19年8月)              2007.8

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せきはく豆事典 「高瀬船と利根川水運」

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 近世当初の利根川水運は、年貢米輸送を契機として発展していきました。そしてそれは、やがて河川交通を促し、さらなる流通網を生み出します。流域の各所には、積荷の揚げ下ろしをする中継地が求められ、搬送や積み出しを請け負う問屋が登場するようになって、河岸(かし)と呼ばれる新たな町場が次々と誕生していったのです。江戸時代も半ばになると、こうした輸送の仕組みも整い、かつてない舟運の全盛期を迎えていくこととなります。

 東廻り航路による廻米船が銚子に入港するようになると、18世紀後半では毎年15万俵前後の米が陸揚げされたといいます。これを積み替えて江戸へと回漕するには、おのずと大船でなければ捌ききれず、しかも房総半島を迂回して海路江戸へと直航するより、多少の割高運賃であっても、特に廻米期にあたる冬場は海上気象も悪いため、大型で比較的安全な高瀬船は重用されたのです。利根川高瀬船には、大型船でなければならない理由があったのです。

 江戸が大消費地として発展してくる江戸中期を過ぎると、江戸へと向かう高瀬船は、やがて米穀類をはじめ、酒や醤油、干鰯やたばこなど、流域各地の特産物を運び、帰りには塩や砂糖など、上方からの物資を運ぶようになります。舟運は、地場産業をも育んでいったのです。そして、これら商品貨物は河岸を窓口として、関東各地の農村にも浸透していき、自給自足を建前としていた江戸時代の農村を、やがて経済流通網に組み込んでいきます。さらに、こうした交流は、物資にとどまらず、人を介して文化を伝える役割も担いました。船を利用しての手軽な観光として、成田参りや香取・鹿島・息栖の三社参り、それに銚子の磯めぐりなどの土産旅が発達し、大勢の文人たちも江戸から脚を運んで来るようになったのです。

 大型輸送船・利根川高瀬船は、関東地方の経済を支える一大流通網、利根川水系を舞台に、まさにその主役を演じていたといってよいでしょう。

(小林 稔)

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メルマガ 第89号(平成19年7月)              2007.7

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せきはく豆事典 「施餓鬼の卒塔婆」

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 今月の中旬には新のお盆を向かえ仏教寺院では盂蘭盆会法要が行われるところが多くあることと思います。釈迦の弟子である目連尊者にまつわる仏教行事として古くから行われていますが、法要が終わって、ご先祖のお墓に参って板状の卒塔婆を立てます。この卒塔婆は、サンスクリット語の「ストゥーパ」を中国で「卒塔婆」と漢訳され、そのまま日本にもたらされています。つまり、卒塔婆あるいは単に塔婆とも言いますが、もともとは古代インドのストゥーパが起源になっています。

 ところでストゥーパとは何でしょうか。ストゥーパは釈迦の舎利(遺骨)を埋納した仏塔です。形は丸く、お椀を伏せたような、日本の円墳のような形をしているので、木で作られた塔婆はだいぶ様子を異にしていますが、日本に仏教が伝来してからストゥーパの流れを受けながら様々に形を変えて造られてきた仏塔の一つです。

 日本での仏塔には木造の五重塔や石造の五輪塔などが一般的な塔としてのイメージがありますが、板状の塔婆となると塔としてのイメージが薄いと思われます。塔婆の上の方に微妙な切れ込み(宝珠・半月・三角・球・四角)が施されておりますが、この切れ込みは五輪塔の形をしております。細長い板に表現するとあのような形になるわけで、塔婆は亡くなった人を供養するために立てる塔ということになるわけです。

(阪田正一)

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メルマガ 第88号(平成19年6月)              2007.6

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せきはく豆事典 「社寺参詣と遊山の旅」

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 江戸時代の初め、旅人といえば、公用で行き交う幕府の諸役人や参勤交代によって国元と江戸を往復する大名・高僧・公家のほか、各地域間を往来する行商人、そして村の一部支配層の人々が主でした。

 一般庶民は領主からの厳しい規制や関所の取り締まり、費用がかかり危険との隣り合わせ等の理由から容易に出かけられるものではありませんでした。

 やがて江戸時代も中頃になると、各地の交通路や宿泊施設などの整備が進み、一般庶民の生活にもゆとりが生まれ、社寺参詣の名目で遊山の旅が流行し始めました。

 なかでも伊勢神宮は人々のあこがれでしたが、旅程が長期で費用がかさむことからなかなか行けるものではありませんでした。

 そこで人々は、近隣の風光明媚な名所や御利益があるとされる社寺に注目し、それらを取り入れながら日帰りや十日前後で往復できる様々なコースを考えました。

 江戸庶民にとっては、比較的気軽に行ける利根川水運を利用した常総地域の成田山や香取・鹿島・息栖の三社などを巡るコースは人気のコースでした。

 松尾芭蕉、小林一茶、十返舎一九、渡辺崋山など多くの文人墨客も利根川水運を利用し、常総地域を訪れています。

 ちなみに、芭蕉が鹿島を訪れたときのコースを見てみると、江戸深川の芭蕉庵の門前から舟で出発し、小名木川をとおり、行徳で陸に上がり、八幡、鎌ケ谷を経て布佐に行き、布佐から船で利根川を下り、鹿島根本寺の仏頂禅師を訪ねています。途中の鎌ケ谷の様子は、渡辺崋山の「四州真景図、巻二、釜原」に描かれ、のどかな牧場の風景が道行く旅人の目を楽しませていたことでしょう。

 また、常総地域には小林一茶の句碑も多くあります。(流山:一茶双樹記念館、守谷:西林寺、取手:長善寺、布川(現利根町):徳満寺・琴平神社など)これからの季節、のんびりとそれらの地を訪ねてみるのも楽しいと思います。

(齋藤 仁)

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第87号(平成19年5月)                   2007.5

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せきはく豆事典 「朝鮮通信使と関宿藩主久世氏」

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 今春、関宿藩家老を務めた家系のお宅(京都在住)から、江戸幕府老中の久世重之(16代関宿藩主)に宛てた外交文書「礼曹書契」が寄託されました。

 これは、享保4年(1719)に江戸幕府が朝鮮通信使を招いた時、両国間で取り交わした国書とは別に、朝鮮国の外務省にあたる「礼曹」が幕府の「老中」と交換した外交文書です。

 文面は、印刷されたものと見間違うほど整った筆遣いの漢文で書かれ、『朝鮮國禮曹参判金演奉書 日本國執政源公閣下・・』で始まります。内容は、「朝鮮国王は日本国大君(将軍)がその職務を嗣がれたことを祝賀して使節を送ったがその目的は旧交を続け、ますます誠信を篤くして隣国として睦(よしみ)を通じたい。ついては永く新政を補弼されよ」というものです。日本國執政源公閣下は久世重之を指しています。

 朝鮮通信使は、将軍職の襲職に伴う慶事などに来聘され、両国の友好関係が継続されることを願う文書を取り交わす等、両国が対等の立場で外交を進める礎を築いていきました。朝鮮通信使の来聘は12回行われましたが、ほぼそのたびに国書や書契が交換されています。それらは、将軍職の襲職を祝い、両国の友好関係の継続を願う内容が主で、国書は将軍と、書契は老中らと取り交わされ、重之の時も4人の老中(井上大和守正岑、戸田山城守忠真、水野和泉守忠之、久世大和守重之)等とのやりとりがあったものと考えられます。

 朝鮮通信使の来聘に際して、通信使への接待・国書交換は幕府としても外交上重要な催事で、幕府の要職についていた関宿藩主の久世氏も重要な役割を果たしています。

 最初に関わるのは久世広之が小姓組番頭の役職の頃です。明暦元年(1655)の来聘の際、江戸城の警護と接待給仕を仰せつかります。無難に役目を終えた広之は、その後寛文2年(1662)に若年寄、寛文3年(1663)に老中へと出世し、寛文9年(1669)には5万石の第12代関宿藩主となります。

 正徳元年(1711)の来聘の際には、広之の子である第16代藩主久世重之(再封)が若年寄の職にあり、江戸城中での国書伝命の式典で御前護衛として下段に同席しました。また、通信使一行が江戸城に入る前に久世家上屋敷前を通った際、家中一同がその行列を見物したと記録に残っています。さらに、通信使が帰国前には上々官(外務省の役人のような職)が答礼のため久世家上屋敷を訪問しています。

 次いで、享保4年(1719)の来聘では、重之も老中として国書伝命の式典で中段に同席し、式を見守りました。また、同年10月11日には「日本国源吉宗」の国書を手渡す大役を務めています。そして、朝鮮上々官が国書の謝辞を述べに宿舎であった浅草の東本願寺から神田橋の久世家上屋敷を訪れていることが仕官録に記されています。この来聘の時に取り交わされた書契が今回の寄託品です。書契は老中職にあった久世重之が幕府外交の表舞台でも活躍していたことをものがたっています。

 当時の外交文書である書契は、老中等と取り交わされているので、かなりの数にのぼるはずですが、朝鮮国から送られた書契は日本では3点しか発見されていません。その内の1点が、今回取り上げた享保4年の朝鮮通信使来聘の際の関宿藩主久世重之宛の書契です。

 

(太田文雄)

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第86号(平成19年4月)                   2007.4

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せきはく豆事典 「高瀬船の特徴」

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高瀬船の特徴について、おおまかにいえば、まずは箱のような構造を持っていたということがひとつ。そして、その大きさにもかかわらず、軽くて浮力があったということが次にあげられるでしょう。ために、大きなもので1,000俵(約60t)近くもの米俵を運ぶことができたのです。

 船体的な特質としては、船首部分にあたる表立板(おもてたていた)が、二枚立板といって、2枚の板を接ぎ合わせて造られていたことがあげられます。この様式は、実はサッパ舟などと呼ばれる小さな農舟にもみられるものですが、他に類例がなく、いわば利根川下流域ならではの一種独特な工法ともいえるもので、それが高瀬船にも採用されていたのです。ここは、いわゆる水押(みよし)に相当するところで、たとえば海船の場合、極端に波を押し分ける必要があったため、その多くは舳先(へさき)が一本木の水押となっていますが、高瀬船の場合は、そうではありませんでした。つまり、船首機能を活かしつつも、船底の一部でもあったということが重要だったのです。そして、この表立板から続く一連の敷(しき:船底)はもちろん平らではありましたが、単に平坦になっていたのではなく、ヒアガリといって、前方後方とも反りを持たせてありました。これらのことは、河川交通の難点となる浅瀬を航行しやすくするための工夫で、非常に有利に働くこととなったのです。

一方、喫水(きっすい)を極力少なくするために、杉板の薄い部材を使って軽くし、幅広い胴回りとすることで、浮力をもたせるようにしてありました。喫水は、1mにも満たなかったとされています。こうした船体の軽さは、風の力を活かしやすく、場合によっては直接人が曳いたり、押したりすることも可能としたのです。しかし、その大きさの割に、極端なほど浅くする必要があったため、荷を満載にすると小縁がようやく覗くというところまで沈んだものでした。そのため、小縁の上には五尺と呼ぶ波除板(なみよけいた)をはめ込む場合もありました。また、一般に流れが速く、浅い日本の川では、利根川高瀬船のような本格的な舵は、むしろ特殊であったともいえます。

  *喫水…船を水に浮かべたとき、その船体が沈む深さのこと。

 

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第85号(平成19年3月)                   2007.3

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せきはく豆事典 「実相寺の歴史を思う」

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 関宿台町に所在する実相寺は、宝樹山実相寺という日蓮宗の寺院である。今から550年前の長禄元年(1457)に梁田成助が水海城から関宿に城を移した時に実相寺も移転してきたと伝えられている。

 関宿に移転後の実相寺は、関宿藩主となった久世家の位牌安置所として自証院日悟(広之)の位牌から自譲院日秀(広周)の位牌11基を安置しており、客殿は関宿城内にあった新御殿が廃藩置県後に移転しているなど、久世家との関係が深い寺院となっていたといえるであろう。なお、久世家の菩提寺は東京巣鴨の本妙寺である。

 実相寺の寺歴では日英の開山として応永16年(1409)に創設された寺院であることを伝えている。開山の日英は妙親院日英といい、山武市に所在する埴谷妙宣寺の開山で中山法華経寺の四院家の一つ法宣院主を務めた日蓮宗僧侶で、弟子には「なべかむり日親」として知られている久遠成院日親がいる。

 日英は千葉氏の外護を受けて布教活動を行い76か寺を創設し日蓮宗の教団発展に尽力した人物であるとされており、実相寺もこのうちの1か寺として数えられているのであろう。

 ところで実相寺という寺院は古河市水海に現在も所在しているが、古河公方によって外護されていた古河妙光寺を足掛かりにおこなわれており、水海の実相寺もこのような経緯の中で、応永3年(1396)に真言宗寺院を改宗し、寺号を実相寺としたものである。関宿台町にはもともと日蓮宗の堂が所在しており、古河公方と縁戚関係にある梁田氏の関宿への移転を契機として寺院としての寺観を整え、寺号も水海の実相寺と同じ山号と寺号を称したものと考えられる。そのときが長禄元年であったのであろう。古河公方と日蓮宗中山門流との関係によって日蓮宗の教線の拡大という意味合いがあったのではないかと考えられる。

 

(阪田正一)

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第84号(平成19年2月)                  2007.2

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せきはく豆事典 「郷土料理:スミツカレ」

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スミツカレは、千葉県北西部をはじめ、栃木県を中心に茨城県南西部・埼玉県東北部・群馬県東部・福島県南西部といった北関東に伝わる郷土食である。

 呼称としては、スミツカレのほか、シモツカレ・スムツカレ・シミツカレなど、地域によって様々である。

 語源としては、下野国(栃木県)のシモツケを淵源とする説、調理の仕方として酢を使い、冷ますことからきたという説、あるいは味をしみつかせた料理の意だとする説など、諸説あって不定である。また、文献上の初出は、『宇治拾遺物語』(説話集。承久3年(1221)頃成立か。作者未詳)または『古事談』(説話集。建暦2年(1212)~建保3年(1215)間に成立。源顕兼・編)とされ、双方に「すむつかり」との記載がある。ただし、これは表記のみの問題で、実態は不明である。今日作られているものとほぼ同じものと考えられるのは、『嬉遊笑覧』(近世風俗関連の事典類。天保元年(1830)。喜多村信節)巻十飲食編などで散見できる。いずれにしても、スミツカレはもともと旧二月初午に作られた行事食であって、初午のみならず節分という特定の行事と結びつくこと、主要材料に食材の残り物を使うこと、禁忌・俗信をともなうことに大きな特色がある。

 スミツカレのおもな食材は、節分の残り豆(大豆)・大根・人参・塩引(鮭)の頭・酒粕・油揚などである。このうち、節分の残り豆とは「鬼はー外、福はー内」などと大声を出して鬼やらいに用いた炒り豆のことで、天候や作況の占い物としたり、後日、雷除けの呪い物とするなど、それ自体、強烈な呪術的要素を含んでいるものでもある。節分は立春の前日で、春到来の節目にあたるが、かつてこの日は忌み慎むべき日であって、春先に鬼や魔物が到来するという信仰は、我が国に特徴的な文化要素でもあった。かくして、初午日を迎え、この豆を使って調理にあたったということは、スミツカレそのものが単なる郷土料理ではなかったことを物語っている。

 スミツカレの基本的な調理法は、大根や人参のおろしに大豆等を入れ、長時間にわたって煮込むことにある。そのため、前晩から作りはじめることが多かった。なかでも、大根・人参をおろす際には、オニオロシといってそれ専用の大きなおろし器を使って、荒くおろすのが特徴である。また、節分の豆は一升枡の底で転がし、皮をとり除くようにしたといい、また、塩引は正月の魚でもあった。そして味付けは、醤油・砂糖などで加減を見ながら調整し、最後に酢を加えたりするが、家によってもことなり、それは主婦の腕の見せどころでもあった。よく、近隣の主婦間では、この味付けについて話題にのぼることが多く、コミュニケーションの素材ともなっていた。この背景には、3軒あるいは7軒などど、複数軒の家のそれを食べると中風にならないなどといった、民間信仰の存在が影響していると思われる。また、スミツカレは、この日以外に作ると火災の火元になる、そのため再度作るためにはタネといって、わずかに残しておいたものに付け加えるということをする。禁忌色が強く、普段は作るものでないとされているので、作るときは大量にこしらえた。そして、できたスミツカレは赤飯(小豆飯)と振り分けるようにしてツトッコ(藁苞)に入れ、稲荷祠をはじめ、近くの社寺や小祠にも供え、家族の者も同じものを戴いて、神人共食とした。

 昨今、スミツカレは、家庭はもとより料亭などでも自由に食されるようになっている。しかし、本来的には単なる郷土料理ではなく、節分や初午と結びついた行事食で、初午=稲荷信仰とも結びついた、そもそも破魔力のある、迎春の郷土食であった。

 

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第83号(平成19年1月)                    2007.1

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せきはく豆事典 「丸木船から構造船へ」

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 日本はアメリカに次ぐ石油の消費国である。石油のほとんどは、国内で工業原料・燃料として加工・消費されている。その輸送は大型タンカーが担っている。全長400mを超えるタンカーも珍しくなく、まさに大量輸送の横綱である。これらのタンカーは、木製板材を継ぎ合わせた木造船から鉄板を使用することで強度を増し大型化することができたもので、構造船としての発展形である。

 日本には縄文時代から船による人・物の輸送が行われていたことは、遺跡からの出土品で知ることができる。その船は大木をくり抜いた丸木船で全国各地から発見されている。かまぼこ型の船形で6・7m程度のものが多い。

 弥生時代以降には大陸の造船技術が取り入れられたようで、銅鐸や土器に描かれた船には、船首と船尾が反り返ったように立ち上がる形が見られるようになる。これは、複数のくり抜き船をつないだものと考えられている。また、古墳時代の船をかたどった埴輪を観察すると、丸木船の側面を板材でかさ上げしたものが見られ、船の大型化を図り積載量や乗船人員の増加を成し遂げていることがうかがえる。これ以降、船底に丸木材を使用し、上部構造を板材で造った準構造船が鎌倉・室町時代まで主流であったことを絵巻などの絵画資料からも推測することができる。遣唐使や蒙古襲来時の海戦に使われた大型船もこの形式を取っている。

 船底まで板材構造で造られるようになるのは、戦国期ころからのようで、この頃から船の大型化が見られるようになる。構造船への発展である。船底を広く造ることで積載能力が高まったわけである。このような造船技術の発達は船の能力を向上させたばかりではなく、物流の主役に躍り出ることにもなる。

 江戸時代にはいると海岸線を伝って江戸や地方を結ぶ海運路や河川舟運路が整備され、船による輸送は江戸経済や地方産業の発展の原動力となった。江戸時代には全国各地域独特な船が造られ航行するが、利根川の高瀬船は川船の構造船として、他に類を見ない大きさで内陸水運の横綱の地位を築いていく。

(太田文雄)

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第82号(平成18年12月)                  2006.12

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せきはく豆事典 「高瀬船の大きさ」

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「船鑑(ふなかがみ)」という絵図がある。これは、享和2年(1802)幕府の川船改役によって作成されたものと推定されている。そして、ここには五大力船など、江戸の内川まで乗り入れた海船をも含め、33種の川船が描かれており、船名や使用地域、寸法なども記されていて、関東地方の川船全般について知ることができる。利根川水系の高瀬船については「関東川々所々ニ有之/上口凡/長三丈一、二尺ヨリ八丈八、九尺迄/横七、八尺ヨリ一丈六、七尺迄」とあって、その長さは小さなもので約9.3m、最大にしては約26.7mもの大きさがあったことがわかる。加えて、セイジ(世事・炊事)と呼ぶ船室まで付いていた。

 また、安政4年(1857)赤松宗旦の『利根川図志』をみると「米五六百俵(毎俵四斗二升)を積む者常なり。舟子四人を以てす。その大なる者は八九百俵を積む。舟子六人を以てす」云々とあって、最大では900俵(約54t)もの積載量を持つ船であったことがうかがえる。

 他方、水戸藩では高瀬船について独自の分類法を持っていた。坂場流謙が書き残した文化4年(1807)の『国用秘録』巻3「海川船役銭改之事」によれば、大きさによって厳密に大高瀬・中高瀬・小高瀬と3種に分けていたことがわかる。このうち、水戸藩独自の寸法取りに則り、大高瀬の最大値をとっていえば、全長九十七・二尺(約29.16m)、幅十三尺(約3.9m)とみられ、何とその最大積載量は1,200俵(約72t)であった。これが文献上にみる最大の高瀬船である。利根川高瀬船は、長さに比して圧倒的な積載量を持ち備えた、一種独特な我が国最大級の川船だった。

*1俵=約60kg、1尺=約0.3mで換算

(小林 稔)

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第81号(平成18年11月)                   2006.11

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せきはく豆事典 「関宿城近景・酪農家」

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  「関宿は酪農が盛んなところ である。」 

  「終戦時内閣総理大臣といえば、鈴木貫太郎である。」

この一見脈絡のない二行を結びつけられる人はどのくらいいるだろう。 

鈴木貫太郎の生涯をごく簡単な年表で示してみると上記二行についての関連 性が見えてきます。

1867(慶応3年)  和泉国久世村(大阪府堺市)に生まれる。

1872(明治5年)  郷里関宿に戻る。関宿久世小学校入学。

1884(明治17年) 海軍兵学校入学。

1894(明治27年) 日清戦争勃発、旅順港攻略に参加。

1936(昭和11年) 2・26事件、反乱軍におそわれ重傷を負う。

1941(昭和16年) ハワイ真珠湾攻撃

1920(昭和20年)  鈴木内閣成立、総理大臣となる。

1948(昭和23年)  関 宿(現野田市)にて、逝去。

 まず、貫太郎は、関宿藩が持つ大阪の飛び地で生を受け、終戦後は関宿へ戻り余生を送ったことがわかります。貫太郎といえば、2・26事件をはじめ、終戦前後の政治家としての活躍は有名ですが、大役を終えた後、郷里関宿の復興に努めた功績はあまり知られていないようです。終戦後、郷里の関宿へ戻った彼は、河川敷の広々とした土地に目をつけ、「米麦収入だけでは人々の生活は良くならない、河川敷に牧草の種子をまき、乳牛を飼うようにすることが関宿の人々の生活を豊かにするものだ。」と説きました。酪農に対しての理解者が次第に増え、酪農そのものが軌道に乗ったのは、貫太郎没後ですが、その甲斐あって酪農が盛んとなり、今日に至っています。

  関宿城博物館にお立寄りの際には、近くの酪農家を訪ねてみてはいかがでしょうか。

(柴内 孝)

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第80号(平成18年10月)                   2006.10

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せきはく豆事典 「利根川の流れ(その2)」

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  第76号のメールマガジン「豆辞典」で利根川の流れは、原始・古代から中世の頃までは、洪水の度に流路を変え乱流しながら関東平野を東京湾に向かって流れる川であったことに触れました。

 この流れを、江戸時代の初期に人工的に変えて銚子から太平洋に向かわせる事業が江戸時代の初期に行われました。「利根川東遷事業」といわれる土木事業です。

 江戸時代直前の関東平野には、中央に広がる大宮台地の西側の低地に入間川、大宮台地の中央を割って綾瀬川と元荒川、大宮台地の東側の下総台地との間の低地に渡良瀬川や古利根川、庄内古川、太日川(後の江戸川)がそれぞれ東京湾に向かって流れていました。関宿から我孫子をとおって銚子に向かう川は常陸川と呼ばれ、東京湾に流れ込む川とは違う川筋でした。

 それでは、東京湾に流れていた利根川がどんな風に銚子に向けられたのか、その経過を見ていきましょう。

 徳川家康が関八州を与えられ江戸に入ったのが天正18年(1590)です。家康は、関東の開発や江戸の都市計画を推し進めていきますが、河川改修もその一つで幕府の大きな事業となりました。

 利根川の流路を変える第一歩は、家康が江戸に入って間もなくの文禄3年(1594)に忍城領主の松平忠吉(家康の四男)が川俣(羽生市)で二つに分かれていた利根川の一方(会の川)を締め切り、本流を東に向けることから始まったといわれます。その結果、利根川の本流は東へ迂回し古利根川に入ります。

 元和7年(1621)には大規模な開削工事が行われ新川通が切り開かれ、栗橋で渡良瀬川と合流し、権現堂川を下って庄内古川、太日川が利根川本流となります。さらに、寛永17年(1640)には古利根川が大雨の度に洪水を引き起こすため、野田の台地を割って新川を通します。これが現在の江戸川です。従って、利根川が現在の埼玉県と千葉県の境を流れることとなります。

 そして、ついにその時が来ます。承応3年(1654)、今まで2回の開削・拡幅工事を行ったにもかかわらず川の水を通すことのできなかった赤堀川(栗橋から関宿までの区間)を深く掘って通水に成功します。ここで今まで東京湾に注いでいた利根川の本流は、関宿の北を通って銚子へと向かうのです。利根川東遷事業の一応の完成となります。

 利根川が銚子へ向かうことで、銚子から利根川をさかのぼり関宿から江戸川を下って江戸に入る河川舟運路が完成します。この舟運路により大量の物資を安全に江戸に運ぶことが可能となり、江戸経済発展に大いに貢献していきます。江戸に大量の米を運ばなければならなかった関東北部や東北方面の城主や幕府にとって待望の舟運路となりました。その後、各河川流域には舟荷の積み下ろしのための河岸が増加し、地方と江戸との物資輸送ばかりでなく文化の広がりも担っていきます。

 また、今までの利根川流域である埼玉の低地は耕作地が拡大し、石高の増加をもたらし、新たな村も急増します。

 このように、経済発展のための舟運路の確保や洪水の緩和による新田の開発などを目的として「利根川の東遷事業」が進められたと考えられています。

(太田文雄)

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第79号(平成18年9月)                   2006.09

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せきはく豆事典 「高瀬舟と高瀬船」

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  かの森鴎外の小説に『高瀬舟』という名著があります。安楽死をテーマに“命”について問いかけた作品ですが、“たかせぶね”と聞くと、すぐさまそれを想い起こす方も多いことでしょう。しかし、今回ここでお話しする利根川水系の高瀬船と、鴎外のそれとはまったく異なるものなんです。

 鴎外の小説の題名ともなった高瀬舟とは、言うまでもなく、京都の高瀬川を往来していた川船のことをさしています。そして、ここでは“ふね”に「舟」の字をあてているんですね。対して、利根川水系を舞台の中心とした高瀬船の場合は、「船」の字を使います。これは、昨今の漢字表記に則しているわけではなく、利根川高瀬船については、もとよりこの字を用いることの方が、むしろ一般的だったといっても過言ではありません。近世の古文書その他でも、多くは「高瀬船」と記しているんです。どちらかというと、舟は、“小さな船”といったニュアンスを含んでおり、鴎外もそれをイメージしていたんでしょうね。

 ところで、高瀬と呼ばれた川船は、実は全国各地の河川にありました。もちろん、いずれも同一寸法によったものではなく、千差万別、それぞれの地域の実情に見合った工夫と形態を持ち備えていました。もともと瀬というのは水深のないところをいい、かつ、いささか流れも速いといった意味をも含みますが、そのなかにあって、高瀬というのは、瀬高いところ、つまり同じ瀬であっても深みのない、水面下の地表が高いということを意味しています。すなわち、おおむね河川で使用する船のことを高瀬船と称していたというのは、このことに所以しています。そして、このことは、少なくとも近世以降のこととして通説化しています。しかしながら、この呼称がどのような理由によって普遍的に認識されるようになったのかという問題については、未だ明らかになってはおりません。おそらく、製材技術の発達はもちろん、板の接ぎ合わせ技術を持ち備えた船大工等の職能者の拡充と拡散、あるいは河川交通の隆盛と関係があるんでしょうね。ただ、いずれにしても京都の高瀬川を端に発し、それが全国的に広まったというわけではないようです。

(小林 稔)

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第78号(平成18年8月)                   2006.08

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せきはく豆事典 「関宿城近景・関宿水閘門」

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千葉県立関宿城博物館から徒歩10分の江戸川上流部に関宿水閘門という 施設が存在します。「水閘門」という漢字をみて、その施設の持つ機能を思い浮かべられる方は少ないかもしれません。「水門(すいもん)」とは、運河・放水路などで、水量・水位を調節するものをいい、「閘門(こうもん)」とは水量を調節するばかりでなく、水位の高低差の大きい運河や河川などで、船舶を通過させるために水位を調節するものをいいます。こうした、水門と閘門を併せ持つ施設を水閘門(すいこうもん)といいます。

  それでは、関宿水閘門を紹介しましょう。

 

   ~関宿水閘門基礎データ~

    ・所在地  :茨城県五霞町

    ・竣工年  :昭和2年

       ・構造形式:鉄筋コンクリート造りの堰(ストニー式ゲート)

           閘門(合掌式ゲート)

       ・管理者  :国土交通省

 

関宿水閘門は、利根川・江戸川の分派点の近くにあり、江戸川を流れる水量を調節することと船を安全に通すことを目的に、大正7年(1918)に着工し、昭和2年(1927)に完成しました。9年に及ぶ大工事でした。

  建設の直接の理由は、明治43年(1910)の大洪水を契機として、国は利根川の改修計画を改訂し、翌1911年からの江戸川改修工事の中で、関宿水閘門の工事を着工しました。当時の日本は、大型建造物がレンガ造りからコンクリート造りへと移り変わる時代でした。そのため、コンクリートで作られた 関宿水閘門 は当時の建築技術を知る上でも貴重な建造物で、土木学会推奨土木遺産に認定されています[平成15年度(2003年)認定]。

  竣工してから79年を経過した今も、しっかりと現存しているその姿から当時の土木技術のレベルが高かったことが伺われます。(HPをご覧ください⇒http://www2.chiba-muse.or.jp/www/SEKIYADO/contents/1519022527654/index.html#point2)水門の上は、徒歩・自転車でわたることができますので、当館にお立寄りの際には、是非、見学して頂きたいと考えます。

(柴内 孝)

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第77号(平成18年7月)                 2006.07

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せきはく豆事典 「関宿城初代藩主松平康元の墓所」

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 当館のホームページに「周辺スポット」→「ドライブ・サイクリングコース」→「千葉県」があり、入ると関宿周辺の地図を見ることができる(こちら⇒http://www2.chiba-muse.or.jp/www/SEKIYADO/contents/1519020599422/index.html)。その中に宗英寺がある(こちら⇒

http://www2.chiba-muse.or.jp/www/SEKIYADO/contents/1519020881256/index.html#point5)。

 宗英寺は関宿地区の皆さんにはおなじみのお寺である。その理由は関宿藩初代藩主松平康元の墓所があるからである。宗英寺は慶長元(1596)年に康元によって創設された曹洞宗の寺院で、古河公方足利晴氏の墓や船橋随庵の墓もある。ここまではよく知られているが、康元の実際の墓所はどのようなものか詳しく知るには実際に墓所を訪ねなければならない。そこで、大名のお墓の例としてその様子を紹介したい。

 墓所は石柵で囲まれ、正面には石扉があり、そこには梅鉢の紋と蓮葉が彫りこまれている。基壇は基礎にのり、その上に敷茄子と蓮弁の請花がのり、塔身を受けている。塔身は高さ1.72m、幅0.66mの板碑状で、頭部が圭頭(三角形)になっている。縁取りがあり、内側に「当寺開基大興院殿因州太守傑伝宗英大居士」「慶長八癸卯年八月十四日」と銘文が刻まれ、下部に大形の蓮華座が彫られている。裏面には「従四位少将松平氏源康元之墓 行年五十二歳」とある。また傍らの石塔には「為当寺康元之墓 草創年而自破壊干時明和三丙歳八月十四日 従五位下源朝臣松平康郷修補之」とあり、この銘文から現在の康元の墓所は明和三(1766)年に康元の曾孫にあたる忠充の五男で康郷が修理をおこなったものということになる。しかし具体的な「修補」の内容は不明であるが、元禄十六(1703)年の元禄地震が起きているので、この地震で倒壊した墓所を八月十四日の忌日にあわせて補修をおこなったのであろうか。

(阪田正一)

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第76号(平成18年6月)                   2006.06

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せきはく豆事典 「利根川の流れ(その1)」

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 よく板東太郎、筑紫次郎・・・と引き合いに出される日本各地の暴れ川の長男坊、利根川は人工の河川としても有名です。と言うのも、現代の治水工事で日本各地の川は近代的な護岸工事によりその姿を変えていますが、ここに登場する利根川の大変貌は今から400年ほど前の江戸時代初期に行われた川の流路を大きく変える大事業によって成し遂げられたのです。それまで、東京湾(江戸湾)に流れ込んでいた利根川を太平洋の銚子に落としたのです。

 そもそも水は、高いところから低いところへ流れ下ります。ですから、川はその地域で最も低い場所に向かって流れる。これは自然の摂理です。関東平野は東京湾から今の埼玉県界わいが最も低い盆地状をなしています。従って、太古より関東平野北西部の山々の水を集めた河川は東京湾に向かって流れていたのです。綾瀬川、荒川、利根川、渡良瀬川などがそうです。特にそれらの川が集まる埼玉県付近は高低差が少なく、川が乱流・蛇行していたと言われています。ほぼ中世の頃までは川の流れは自然に任せ、自由奔放に平坦な関東平野の中央部を流れ、洪水の度に流路を変えながら東京湾に向かって流れ下っています。そのことは、網の目のような流路の痕跡と、その両岸に形成された微高地(自然堤防)、そこに立地する集落などを地図上から読み取ることでも理解することができます。

 ところが、これらの河川に人の手が入り、急激に変わる時期があります。1590年、江戸に入った徳川家康が江戸の発展を願い、この関東の暴れ川を征すことで、関東平野の開発と江戸経済・流通の発展、江戸の洪水の緩和などを目指した政策「利根川東遷事業」を進めた時です。

 では、どのような経緯でその事業は行われたのか、それは次回の楽しみにします。

 (太田文雄)

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メルマガ 第75号(平成18年5月)              2006.05

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せきはく豆事典 「小麦饅頭と7月1日」

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  6月といえば、かつては田植えの時季で、農家にとっては大忙しのとき。今はゴールデンウィーク直前あたりに合わせて、田植機が闊歩往来しているのをよく見かけます。しかし、かつての田植えでは、よく5月の節供を目安にしたものです。5月って?それじゃあんまり変わらないんでは…と思われるかもしれませんが、旧の5月(皐月)は今の6月あたり。だいたい1ヶ月ほど遅れます。戦後間もなくまでは月遅れで行事をしていた家も多かったんですね。つまり、今の6月5日を節供の日としていたわけです。

  さて、そこでですが、この6月、野田市周辺の農家ではまさに繁時をきわめたときでした。ちょうど、この時季は麦の収穫時季とも重なっていたのです。「麦刈って、田植えやって、そりゃあ、たいへんだったんだから。天気がよければ畑に、雨が降れば田んぼに行って…」とはよく聞かれる話。そのため、節供の柏餅(柏饅頭)も夜なべでこしらえた家も多かったとか。そうこうして、やっと6月下旬頃までかかって無事終了。このときはサナブリといって、ホッと一息の休み日をもうけたものでした。そして、ここでよく登場してくるのが、7月1日という日。7月1日といえば、富士山の山開きの日でもあって、浅間様の日ともされますが、当地ではこの日を休み日としていたのがほとんどです。

  かくして、この日には穫れたばかりの新小麦で小麦饅頭を作って食べ、家族皆してゆっくりしたのです。小麦饅頭には、辛い思い出と喜びの味がこもっています。

(小林 稔)

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メルマガ 第74号(平成18年4月)              2006.04

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せきはく豆事典 「関宿城近景~江戸川~」

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 当博物館は、江戸川と利根川の分派点のスーパー堤防上に建てられています。今回は、せきはくマガジンVol.63の「利根川」に引き続き、「江戸川」をご紹介しましょう。

 江戸川は茨城県五霞町・千葉県野田市で利根川から分かれ、茨城県・千葉県・埼玉県・東京都の境を南下して東京湾に注ぐ流路延長約60キロメートル、流域面積約200平方キロメートルの一級河川です。首都圏の洪水防御、生活用水等の水源の安定的確保を担う上で重要な河川であり、その河川敷は、都市に残された貴重なオープンスペースとして重大な使命を担っています。

 その江戸川の持つ歴史的側面に触れてみましょう。 かつて、江戸川は、日光連山の一部、足尾に源を発する渡良瀬川の下流部で、太日川(おおいがわ→ふといがわ)と言われていました。1590年、家康は利根川が江戸湾に流れ込んで洪水を引き起こしているのを見て、利根川東遷(※1)を伊奈備前守忠次に指示したと伝えられています。行徳の塩を専用の運河を掘って確保した家康は、年貢米などの物資の航路整備を洪水対策と共に計画していました。利根川東遷がほぼ成ると、すぐに江戸川の工事にかかり、関宿~金杉間を直線的に掘り、野田あたりで河道につなぎました(1641年頃)。これによって、『銚子~(利根川)~関宿~(江戸川)~江戸』(換言すれば、太平洋と江戸湾)が河川によって結ばれ、その川筋には多くの河岸が繁栄しました。その河岸の一つが関宿です。つまり、関宿は、城下町と宿場町という両面を併せ持っていた場所と言うことが出来ます。また、関宿には関宿関所という“川関所”が設けられ、いわゆる「入り鉄砲と出女」を監視する重責を担っていました。

 このように、江戸川は、利根川と共に関東経済の活性化には欠かすことの出来ない存在として、米穀・魚介類・木綿・醤油・味醂等の物資や多くの商人たちを江戸へ運ぶ舟運路として確立されていきました。

 現在では、関所や関宿城の実物を見ることはかないませんが、利根川・江戸川の変遷や関宿城に関する資料が関宿城博物館に保存・展示されていますので、是非、見学していただきたいと思います。

(柴内 孝)

(※1)利根川東遷…近世以前の利根川は、鬼怒川・小貝川とは水系を異にし、乱流・変流をほしいままにしながら、埼玉平野を数条に分かれて、江戸湾に向かって流れていました。

これが、徳川家康の江戸入府を契機に江戸時代の初期約60年間に於いて関東代官頭伊奈氏を中心とした利根川の数次に渡る瀬替え工事が行われた結果、太平洋に注ぐことになりました。この一連の工事は後に「利根川の東遷」といわれるようになりました。

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関宿城博物館