洋画排斥運動が高まるなか、明治15年と17年に開催された第1回、第2回内国絵画共進会では、ついに洋画は除外されることになりましたが、このことはかえって洋画を志す作家たちの団結力を深め、浅井は明治22年(1889)に小山正太郎、松岡寿らと我が国最初の洋画団体「明治美術会」を設立し、その中心として活躍することになります。浅井の「春畝」、「収穫」はこの明治美術会展の第1回展、2回展に出品されました。明治25年(1892)には、教場(のちの明治美術学校)も開かれ、後進の指導にあたります。
◯母の肖像 |
◯ほしかき |
◯田植の図 |