江戸時代は、日本橋を起点に5街道とその脇街道なども整備されました。関宿には日光街道の脇街道である日光東往還が通り、周辺には利根川舟運の一部を陸路にした木下街道や鮮魚街道、庶民の生活に密着した脇道などさまざまな道が通っています。 |
日本は海に囲まれた島国で、山地が多い環境のため、近世までは大量の物資や人の移動には、海や川を使い、船を用いました。また道を作る際には、山を避け、海沿いに開けた平野や山に囲まれた盆地などに通します。河川を渡る地点は、なるべく楽に徒歩で渡れる場所を選び、内陸部に道を通す時は渓谷に沿って谷間を進み、低い峠を越すなど、地理に順応して整備されました。 |
江戸時代に日光街道の脇街道として作られた往還で、関宿道、久世街道、結城街道、多功道などと呼ばれ、文化3年(1806)に作成された「五海道其外分間延絵図並見取絵図」では関宿通多功道という名称が使われました。また周辺の人々は日光街道と呼ぶこともあります。 |
江戸時代は、日光道中とも呼ばれ、徳川家康の廟所が久能山から日光東照宮に移され、将軍の日光参詣が制度化されたことによって整備された街道です。日本橋(中央区)から鉢石(日光市)まで約143kmで20宿(千住・粕壁・栗橋・古河・雀宮・宇都宮など)あります。このうち宇都宮宿までの16宿は奥州街道の宿場と兼ねています。 |
水戸街道は、当時は水戸道中と呼ばれ、水戸方面からは江戸道と呼ばれていました。日光街道に付随する街道で、江戸と徳川御三家の一つ水戸藩の城下を結ぶために整備された、5街道に次ぐ重要な脇街道(脇往還)です。そのため千住から松戸までは、本来、脇街道を管轄する勘定奉行でなく、5街道の管轄にあたる道中奉行が管轄した最重要脇街道でした。水戸藩が街道の整備を行い、常陸や奥州の大名(津軽藩、仙台藩、南部藩など二十余藩)も参勤交代などで利用したり、江戸への物資輸送路としても利用されました。 |
木下街道は、銚子に水揚げされた魚介類を運ぶための下利根川と江戸を最短距離でつなぐ木下河岸(印西市)から行徳新河岸(市川市)を結ぶ約36kmの街道です。庶民の道として発達したため、江戸時代には決まった街道名はなく、目的地に応じて下利根方面からは行徳道、江戸道、江戸方面からは鹿島道、銚子道、印西道などと呼ばれました。銚子に漁場が開かれた慶安3年(1650)頃から徐々に使われ、元禄期(1688〜1703年)頃に江戸の人口が急増し、東京湾で獲れる江戸前の魚だけでは間に合わなくなり、本格的に整備されたようです。銚子から高瀬船で利根川を遡り、木下から馬の荷で行徳まで運び、再度船に積み替えて日本橋まで運びました。また、江戸時代後期に、利根川下流の息栖・香取・鹿島の三社詣の旅で旅客船に乗るために、江戸方面から多くの人々が利用するようになりました。 |
木下街道
鮮魚街道
脇道は、多くは庶民の生活に密着した道として発展します。先にあげた木下街道や鮮魚街道も、脇道の一つとして発展し、多くの物資や人が移動する街道に発展していきました。 |
長谷渡し-岡田河岸ルート
今上渡し-三ツ堀河岸・木野崎河岸ルート |
今上河岸から成田道
鎌倉街道は、鎌倉古道・鎌倉往還・鎌倉大道などの総称で、中世初期に、御家人たちが有事に鎌倉へと馳せ参じるために、鎌倉と各地を結んだ街道です。初期の鎌倉街道は道幅が決められ、直線的に作られており、丘陵部では馬に乗った武士の進軍が見えないように、両側を壁のようにした掘り割り道を作るなどの特徴があります。室町時代頃からは武士のためだけでなく、流通の用途も加わったため、村々を結ぶ道が増え、地形に応じて曲がり、狭い道も増えていきます。 |
明治期以降、文明開化によって物流が鉄道へと移行していきます。また、馬車や自動車などが使われるようになり、道の整備も進んでいきます。第二次世界大戦以後、トラックによる陸上輸送が進み、道が広く、平らになり、自動車専用道路などもできていきます。 |