メルマガ(平成23年度〜平成28年度)

 

 

 

 

第193号(平成28年3月)           2016.3

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せきはく豆事典「関宿藩主が就いた幕府の職制-老中その2-」

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 関宿藩から4人の老中が輩出し、幕政の中心を担ったこと、老中の職掌には実に多岐にわたっていることについて前回の稿で述べました。老中の最も重要な職務の一つに「評定所」(ひょうじょうしょ)での審議があります。
 評定所とは江戸幕府の最高裁判機関です。幕政における重要政策の審議や大名・旗本の訴訟、管轄の違う奉行間訴訟の裁判を行うところです。江戸幕府の創設期からこうした機関はあったと思われますが、「評定所」という呼び名が定着したのは慶安5年(1652)からとされています。
 評定所の構成メンバーは老中の他に、町奉行・寺社奉行・勘定奉行(かんじょうぶぎょう)がおり、これに大目付(おおめつけ)と目付が加わります。後には側用人(そばようにん)、京都所司代(きょうとしょしだい)、大坂城代、遠国奉行(おんごくぶぎょう)なども列席しました。元々は幕府直轄領の武士を対象とした訴訟を扱っていました。しかし原告と被告が、武士対町人であったり、領民同士でも幕府領と藩領で領主が異なっていたり、寺社関係者であったりしたので、各奉行出席のもとで審議されました。
 この評定所のメンバーに老中・寺社奉行・側用人・京都所司代・大坂城代として歴代の関宿藩主が就任しています。             (尾崎 晃)

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第192号(平成28年2月)           2016.2

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せきはく豆事典「関宿側の船着き場と散策路について」

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 昨年の11月以降、当館4階展望室の北東窓から利根川河川敷に目を向けると、筑波山の方向に川岸へ続く石敷きの路を見ることができます。この石敷きの路の先には船着き場があり、これは、河川敷の自然を楽しむ散策路とともに造られたものでした。しかし、たび重なる利根川の増水等により姿が見えなくなってしまいましたが、このたび、野田市と国土交通省が周辺に繁茂していたヨシなどの草刈りと、その一帯の堆積していた土砂を撤去したことにより、再びその姿を目にすることができるようになりました。
当館が開館して間もない平成9年、当時の建設省や茨城県、千葉県、境町、五霞町、関宿町、当館などがメンバーとなり「境町・関宿町・五霞町の3町が連携し、川を基軸とした地域づくりを進めていく」ことを目的とした川の町ネットワーク計画実行委員会が設立されました。委員会では、関宿水閘門周辺や中之島公園、サイクリングロード等の整備方針をはじめ、復元した高瀬船を利用した渡し船の運行や統一イベントの開催などについての検討が行われました。平成10年に関宿側の船着き場などが造られたことにより、同年6月から観光船「高瀬舟さかい丸」による関宿・境両船着き場間の渡しと関宿水閘門までの往復周遊が開始されました。今でも、境側の船着き場から関宿水閘門までの往復周遊が運航されています(※1)
当館では平成10年から18年まで、「高瀬舟さかい丸」を利用した体験教室「高瀬船に乗って関宿城を見よう」を行っていましたが、年によっては利根川の増水により中止になったこともあったようです。ちなみに、昨年(平成27年)9月の関東・東北豪雨時に当館展望室から見た、泥水に覆われた利根川河川敷の様子を当館H.Pのフォトギャラリーに載せてあります。
川のまちネットワークでは、平成26年3月に当初から作成を検討していたガイドマップについて、「川でつながるまち 魅力再発見 川のまちネットワーク 観光ガイドマップ」として発行しています。また、昨年「高瀬舟さかい丸」がリニューアルされ、5月から毎週金・土・日曜日に通年運航されるようになりました(※2)
今回の関宿側の船着き場とその周辺での作業は、川を基軸とした地域の活性化に向けた再整備(再活用)の第一歩なのかもしれません。船着き場を利用した渡し船を復活させるためには、浮き桟橋の修理や川底の浚渫などの課題がありますが、せっかくなので、当館としても何か活用できる手立てはないか、考えていきたいと思っています。今のところ、原則日曜日は、スーパー堤防の大きな階段を下りて、工事用道路を通り抜けることができます。今までとは違った目線から川面や関宿城博物館を眺めることができると思いますので、皆さん、是非、散策してみてください。                                  
(金丸 誠)
  (※1・2)水位により、運休している場合があります。境町ホームページでご確認ください。 

 

 

 

 

 

第191号(平成28年1月)           2016.1

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せきはく豆事典「商標とラベル」

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 商標とは『広辞苑』によれば「自己の生産・製造・加工・選択・証明・取扱または販売の営業に係わる商品であることを標示するために、商品(公債、手形、株券を除く)に使用する文字、円形、記号などの標識。目標。トレードマーク。」と書かれています。つまり、製造者や販売者が他社の商品と区別するためにつけた文字や記号、図形などで表したしるしです。
 江戸時代の商標は、船や馬などを利用していた輸送者が商品を間違えることがないようにつけられたものといわれています。見分けるためのサインとしてつけられた商標ですが、商標が出回ることにより、次第にブランド商品の宣伝として効果を上げるようになります。そのため、同じ製造者であっても等級や種類の違う物は、異なった商標をつけるようになり、江戸時代には多くの商標が作られました。例えば現在のキッコーマン株式会社のトレードマーク「六角形に萬の字」は、商標のひとつです。
 明治時代に入り、さまざまな業種で統廃合が進みました。その際、それまで商品につけていた商標を統一し、製造者のしるし(トレードマーク)を決めました。そして、それまでの商標はラベルに変わり、商品に貼られました。
 主に瓶に貼られることの多かったラベルは、製品名、製造者の情報(トレードマークを含む)、品種(等級)などが入れてあり、加えて人目を引くデザインを用いることによって、広報の役目も果たしていました。ラベルという言葉から、外国から入ってきた物と思いがちですが、ラベルのルーツは「千社札」といわれています。限られた紙面に縁取りを施し、名前や地名を入れた千社札とラベルには確かに共通するものがあります。江戸時代の千社札の中には多色摺りの凝った図柄のものもあり、そのデザインが明治時代に入ってラベルとして花開いたのかもしれません。
(鈴木敬子)

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第190号(平成27年12月)            2015.12

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せきはく豆事典「9代関宿藩主・板倉重宗について」

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 板倉重宗(しげむね)は、天正14年(1586)に父・勝重、母・粟生永勝の娘との間に長男として駿河国駿府(現・静岡県静岡市)で生まれます。
 慶長5年(1600)、15歳のときに徳川秀忠にお供し、関ヶ原の戦いに参戦します。
 20歳になると従五位下・周防守に叙任し、26歳のときに駿府城の在勤を任されます。30歳のときには小姓組番頭(こしょうぐみばんがしら)と書院番頭(しょいんばんがしら)を兼務し、知行地6千石を所有します。
 元和6年(1620)、35歳のときに父の職を継いで京都所司代となり、2万6千石の領地を所有します。38歳のときには従四位下に叙任し、さらに侍従(じじゅう)に昇格します。翌年、父の勝重が死去すると、父の領地1万8千6百十石を受け継ぎます。その内、6千6百十石は弟の重昌に分け与え、残りの1万2千石を取得して領地3万8千石を所有することになります。
 寛永10年(1633)、48歳のときに1万2千石が加増され、領地5万石を所有します。領地は摂津国嶋上・嶋下、山城国綴喜(つづき)・久世(くぜ)・相楽(さがら)、近江国伊香(いか)・浅井、常陸国新治(にいはり)・筑波、武蔵国新座・豊嶋の11郡内です。
 時が経って、60歳のときに従四位上に昇格します。その後、承応3年(1654)には老齢のため、69歳で京都所司代を辞職します。代わって8代関宿藩主の牧野親成(ちかしげ)がこの職を務めますが、重宗は幕府から親成を補佐するようにと命ぜられます。そして、その恩恵として京都周辺に1万石の領地をいただくことになりました。
 明暦2年(1656)に領地を下総国葛飾・猿島・相馬・豊田の4郡内に移され、5万石の関宿城主となります。しかし、同年12月1日に関宿で死去してしまいます。享年71歳でした。

    (奥原経営『関宿町誌』を参考) ※年齢は数え年
(横山 仁)

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第189号(平成27年11月)            2015.11

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せきはく豆事典「関宿藩主が就いた幕府の職制−老中その1−」

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 関宿城は俗に「出世城」とも呼ばれています。江戸に近い房総において関宿藩は佐倉藩に次いで石高が高く、有力な譜代大名が配置され、藩主の多くが江戸幕府の要職に就任していることからそう呼ばれています。ここでは関宿藩主が就いた幕府の職制について述べていきます。まずは老中から。
 「老中」(ろうじゅう)とは、江戸幕府の常置の最高職で、将軍の直属で幕府の政治全体を統括する役職です。関宿藩からは久世広之【就任期間 寛文3年(1663)~延宝7年(1679)】・久世重之【同 正徳3年(1713)~享保5年(1720)】・久世広明【同 天明元年(1781)~天明5年(1785)】・久世広周【同 嘉永4年(1851)〜  安政5年(1858)、万延元年(1860)~文久2年(1862)】といった4人の藩主が就任しています。
 老中の職務は非常に多岐にわたります。天皇や公家に関わること、諸大名の統制や知行割、幕府直轄領の租税や幕府財政の管理、大規模な公共事業の監督から寺社の管理、外国との国事などです。老中の定員は4~5名で、3万石以上12万石以下の譜代大名が就任することが原則でした。老中になる前職は京都所司代・若年寄・奏者番・大坂城代や側用人が多く、久世広之と重之は若年寄で、広明が京都所司代でした。
 老中は常に幕府の職制の中枢を担い、江戸幕府の諸改革が、松平乗邑や松平定信・水野忠邦らの老中達によって成し遂げられました。享保の改革の初期に老中を務めた久世重之や、文久の改革で公武合体政策を推し進めた久世広周もそうした有能な老中達に連なる一人だったのです。
(尾崎 晃)

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第188号(平成27年10月)            2015.10

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せきはく豆事典「海路から広がったやきもの」その4

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 明治時代以降になると、藩による窯元の保護体制が崩れたため、国内のさまざまな焼物の産地が製品の販売に苦労しました。
 国内では、日用雑器だけでなく、食器を積極的に販売し始めました。大量生産するために、磁器は印判染付(いんばんそめつけ)という技術を西洋から取り入れ、絵付けの時間短縮を図りました。また、成形でも液状にした粘土を流し込んで成形する鋳込み(いこみ)や、型に粘土を入れて内側をコテで成形する型ロクロ、動力ロクロを使った成形などで大量生産に対応しました。さらに、販売形態も異なりました。今までの仲買による仲介を経ずに、直接、東京に店を持ったり、関東内陸部へ行商に行って販路を広げる窯元も出てきました。町中では他の雑貨品とともに瀬戸物を販売していた荒物屋が瀬戸物販売に特化した店になったり、農村部などにも瀬戸物屋ができたりしました。このように、窯元の努力によって販売経路が開拓されました。また便器や、電柱に使われる碍子(がいし)の製作に方針転換して維持した窯元もあります。
 一方、江戸時代から海外に販路をもっていた有田焼の窯元などは、万国博覧会に出品し、製品の素晴らしさをアピールし、海外へ市場を広げました。陶器の信楽焼や益子焼、会津本郷焼も海外へ販売しました。これらの製品は美術工芸品であり、この流れは戦後の製作から焼成までを一人で行う陶芸家の出現につながります。
 西方から海運や水運を使って関東にもたらされた焼物は、時代を経てさまざまな階層の暮らしの中に広がり、生活を豊かにしました。そして現在でも広く生活の中で使われています。また、その製作技術の伝播によって、関東では笠間焼や益子焼などの幕開けを促しました。今では、公民館などで陶芸教室が盛んに開かれ、気軽に焼物を作れるようになり、焼物はますます身近になっています。 
(鈴木敬子)

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第187号(平成27年9月)            2015.9

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せきはく豆事典「海路から広がったやきもの」その3

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 近年、「地産地消」という言葉が一般的に使われるようになってきました。その地で採れたものをその地で消費する、という意味ですが、これは、今に始まったことではありません。
 江戸時代、陶磁器などの焼物が東海以西から関東に入り、武士や庶民の暮らしの中に普及していきます。それに加えて、製作技術も伝わり、関東産の陶磁器などが誕生します。
 関東産の陶磁器には、江戸時代中期に作り始められた笠間焼(茨城県)、末期に生産が始まった益子焼(栃木県)・小砂焼(こいさごやき・栃木県)などがあります。これらはすり鉢や甕(かめ)などの日用雑器が主流で、販売が産地の近隣を中心に行われていました。藩の領地にあるどの窯元(かまもと)も、その藩によって保護され、発展していきました。
 一方、窯(かま)を使った素焼(すや)きの今戸焼(いまどやき・東京都)も製作技術の伝播(でんぱ)によって誕生しました。主に土風炉(どぶろ・茶道用のかまど)や植木鉢が生産され、江戸の武士たちに愛用されました。
 このように、江戸時代においても「地産地消」が行われていたのです。
(鈴木敬子)

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第186号(平成27年8月)              2015.8

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せきはく豆事典「海路から広がったやきもの」その2

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 関西・東海地方では、中世に炻器を中心とした焼物の産地が多く誕生します。特に、常滑焼、丹波焼、信楽焼、備前焼などの産地が有名です。これらの焼物は中国から輸入された釉薬のかかった焼物とともに、酒や醤油などの運搬容器として江戸に入ってきます。
 さらに、瀬戸焼の陶器が作り始められ、中世末期以降に流行した茶陶と相まって釉薬がかかっている陶器が東海から関西へと広がりを見せます。また、近世初期に九州では磁器(伊万里焼)が生産され、炻器ばかりでなく陶器と磁器も関東に流通します。高価な磁器は武士や豪商たちが愛用し、陶器は徐々に庶民の間に浸透していきます。容器としての焼物から、焼物自体を商品としたものになり、時代が下るにつれ、焼物の種類も増え、焼物が暮らしの中に定着していったことが読み取れます。
 江戸に入ってくる焼物が荷揚げされる湊は品川が中心で、そこから日本橋周辺の瀬戸物問屋に入荷します。そして、関東内陸部には十組奥川船積問屋から、江戸川や利根川を利用して輸送していました。
 関東には、九州の伊万里焼、東海の瀬戸焼や常滑焼などが多く入ってきています。江戸で焼物を売る店が瀬戸物屋と呼ばれていることから、いかに瀬戸焼が関東に流通していたかがわかります。江戸では焼物販売に特化した店がありましたが、江戸を離れると焼物専門の店は、大きな河岸場以外にはあまり存在しませんでした。そこで、地方では焼物が荒物屋で売られていたり、お茶屋で売られていたりしました。河岸場の商品取扱いの記録には焼物の扱いが記載されており、河岸場の問屋から、農村部へ荷車などで、販売していたようです。 
(鈴木敬子)

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第185号(平成27年7月)              2015.7

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せきはく豆事典「海路から広がったやきもの」その1

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 「やきもの」とざっくり言っても、多くの種類があります。粘土(ねんど)を形作って焼いたものが「やきもの」と呼ばれており、粘土の材質、焼く温度などの条件の違いによって、土器・炻器(せっき)・陶器(とうき)・磁器(じき)の4種類に大別されています。その特徴は以下のとおりです。
 低温で焼成し、無釉(むゆう)で、液体がしみ出す性質を持つ「土器」、高温で焼成(しょうせい)し、無釉で、液体を入れてもしみ出さない「炻器」、高温焼成と低温焼成がありますが、釉薬(ゆうやく)がかかっている「陶器」、石を原料とした粘土を用い、釉薬を高温で焼成し、多くが絵付けされている「磁器」になります。
 日本では、ほぼ「土器」「炻器」「陶器」「磁器」の順で誕生します。そしてその誕生には、中国と朝鮮半島が大きく関わり、これらの国から入ってきたやきものや製作技術も少なくありません。
 炻器で有名な備前焼、信楽焼、常滑焼、珠洲焼などは中世に誕生し、中国や朝鮮半島から入ってきた、三彩陶器や祭事用の金属器などを模したものが作られ、流通しました。やがて常滑焼や信楽焼の甕(かめ)や壺(つぼ)などは、関東に広がっていきました。
 陶器は、瀬戸焼を中心に発展し、近世以降になると唐津焼、薩摩焼、萩焼などが盛んになります。
 近世初頭に磁器が登場し、朝鮮半島からきた陶工が伊万里焼を興します。そして、近世後期には瀬戸焼や会津本郷焼でも磁器が作られます。
 土器から始まる日本のやきものは、中国や朝鮮半島からの影響もあって、徐々に発展を遂げていきました。
(鈴木敬子)      

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第184号(平成27年6月)              2015.6

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せきはく豆事典「博物館の館銘板について」

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 当館には、博物館の表札といえる「館銘板」が二つあることをご存知でしょうか。ひとつは、坂道を登り切った取付け道路の入口に向って左側にある石製の「館銘板」、もうひとつは、正門の右側門柱に掲げられている木製の「館銘板」です。ここに書かれている「千葉県立関宿城博物館」の文字は、当館の開館(平成7年11月)に当たり、書家の成瀬映山(なるせえいざん)先生に書いていただいたものです。
 成瀬先生は行書・草書の研究に尽力し、その独特の表現が高く評価され、平成4年に日本芸術院賞・恩賜賞を受賞した後、平成13年に文化功労者表彰を受けられた方です。成瀬先生の揮毫による銘板には、文化庁の標識板があります。また、比較的身近なものとして、成田山新勝寺の「御護摩受付所」の扁額などに揮毫されています。文化庁の標識板は、平成13年1月の文部科学省の発足に際して、成瀬先生に書いていただいたものなので、当館の「館銘板」の方が、文化庁よりも6年ほど前に書いていただいたことになります。
 余談ですが、当館より1年ほど早く、平成6年6月に開館した県立現代産業科学館にはシンボルマークがあり、必ず、横書きの館名の先頭(左側)に表記されています。実は、当館でも展示テーマである「河川とそれにかかわる産業」を表現するシンボルマークのデザインが検討されていたようですが、実現しませんでした。成瀬先生に揮毫していただいた館名そのものが、ある意味でロゴマークとなり得るような作品であったから、なのかもしれません。
 話を戻しますが、石製の「館銘板」と木製の「館銘板」では、文字の太さや表現などに違いがあります。当館が作成する各種のポスター・チラシ・パンフレットなどの印刷物や、ホームページのトップページなどでは、石製の「館銘板」の文字を使用していますが、是非、二つの文字を見比べて、それぞれの表現の趣を味わってみてください。                        (金丸 誠)        

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第183号(平成27年5月)                   2015.5
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せきはく豆事典 「8代関宿藩主・牧野親成について」

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 牧野親成(ちかしげ)は慶長7年(1607)に父・信成(のぶしげ)、母・土岐定政の娘との間に次男として生まれます。
 寛永9年(1632)の26歳のとき、従五位下・佐渡守に叙任します。そして、翌年には膳番(ぜんばん)、徒士頭(かちがしら)へと就任し、上総国高根村(現・千葉県市原市)内に1千石を拝領します。さらに、36歳のときには書院番頭(しょいんばんがしら)と側役(そばやく)を兼務します。
 正保元年(1644)、38歳のときに4千石が加増され、父の旧領である武蔵国石戸(現・埼玉県上尾市北西部~鴻巣市南西部)を統治することになり、5千石を所有します。そして、41歳のときに父の領地・関宿領を継ぎ、1万7千石の関宿城主となります。
 承応2年(1653)、47歳のときに書院番頭を解かれ、側役に専任します。翌年、板倉重宗に代わって京都所司代の職に就き、河内国高安郡(現・大阪府八尾市)内に1万石を拝領します。そして、50歳のときには従四位下に昇格し、摂津国島上(現・大阪府高槻市・三島郡)・島下(現・同茨木市・摂津市・吹田市及び豊中市・箕面市・豊能郡の一部)、河内国石川(現・大阪府南河内郡及び富田林市の一部)・古市(現・同羽曳野市)4郡内に2万2千6百石を拝領します。その結果、高安郡の領地と合わせて3万2千6百石を所有することになります。当然、このときには関宿の地を離れています。
 寛文8年(1668)、病気を理由に62歳で京都所司代を辞職します。その後、2千4百石の領地が加増され、丹波国田辺(現・京都府)に移ります。そして、3万5千石の田辺城主となります。
 晩年は67歳で隠居し、延宝5年(1677)9月23日に死去します。享年71歳。死後は父と同じく、武蔵国安立郡鴻巣(現・埼玉県鴻巣市)の勝願寺で眠っています。                             
    (奥原経営『関宿町誌』を参考)※年齢は数え年。

(横山 仁)

 

 

 

 

 

第182号(平成27年4月)                   2015.4
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せきはく豆事典 「100年前のガイドブックに見る関宿」

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 今から約100年前の明治43年(1910)に、汽船荷客取扱人連合会が発行した『利根川汽船航路案内』という本があります。これは、蒸気船で利根川・江戸川流域を旅行する人達のためにつくられたガイドブックです。当時、蒸気船「通運丸」を経営していた内国通運株式会社の沿革から始まり、航路図と共に流域各地の地勢・交通機関・名所旧跡・官公庁・旅館や料理店・物産などが写真入りで紹介されており、関宿の様子も掲載されています。
 関宿にあった東関宿寄航場周辺は、戸数550余戸・人口3,840人と、当時の千葉県下にあっては比較的大きな町だったことが窺えます。この地は鯉や鮒・鯰などを捕る漁業が盛んで、養蚕や煙草の栽培も行われています。
 名所旧跡として関宿水堰(棒出し)が写真入りで紹介され、棒出しによって狭まった江戸川と、その間を通航する通運丸が写っています。江戸時代、埼玉県側の西棒出しに関所が置かれ、川を通航する荷船に対して荷物の検査をおこなっていたことが記されています。
 また、古河公方の家臣である簗田氏によって築かれ、後に久世氏の居城となった関宿城跡も紹介されています。
 100年も前からこうしたガイドブックを手に、多くの人達が蒸気船に乗って関宿の町を訪れていたことが容易に想像出来ます。
(尾崎 晃)

 

 

 

 

 

第181号(平成27年3月)                   2015.3
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せきはく豆事典 「松右衛門帆について」

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 蒸気船が登場する以前の大型船は、帆に風を受けて進む帆船がほとんどです。帆は、時代によって材質等に違いがあり、徐々に改良されています。
 近世以前の帆は、わら等の草を編んだ筵(むしろ)で作られた筵帆でした。江戸時代初期に軽さを重視した軍船は、木綿で作った木綿帆を使い始めます。しかし、当時は木綿糸の価格が高く、その上、製作に手間がかかったため、荷船に使用し始めるのは江戸時代中期頃(1700年代)になってからです。
 当初の木綿帆は「刺帆(さしほ)」と呼ばれる帆布地で、幅約36cmの反物を2枚重ねて太い糸で刺子にして、それを横に3枚つなぎ合わせた幅3尺程度のものです。その後、帆布は強度を増すために幅を狭くし、幅2尺5寸(約75cm)になります。
 「松右衛門帆」は天明5年(1785)に、播州(現・兵庫県)で廻船業を営む松右衛門によって発明されました。松右衛門は使用している刺帆が丈夫でないことに不満を感じ、研究を重ねて作りました。播州の特産である太い木綿糸を2本どりにして、より太くした糸を用いた平織りになっています。刺帆に比べて製作の手間も減り、厚くて軽く、水切れもよい丈夫な帆布です。刺帆に対して織帆と名付けられたこの帆布は、今まで以上に強い風を受けて船を走らせることができ、船の速度が速くなったので、航海の時間短縮につながったこと、耐用年数が長期化したこと、帆の修理や張り替え等に手間がかからなくなったことで瞬く間に普及しました。また、松右衛門はこの製法を秘伝とせず、多くの職人に伝えたことも短期間の普及に貢献したと言えます。
 松右衛門は、この他にも様々な功績を収めています。例えば、蝦夷地(北海道)との交易により荒巻鮭(新巻鮭)の製法を開発し販売。また、国防としての択捉島(えとろふとう)の港作り。これらの功績が認められ、松右衛門には「工楽」という姓が幕府から与えられています。
 当館の高瀬船の模型の上に展示されている帆には、このような歴史があります。資料一つ一つにある様々な歴史に心を馳せてみてはいかがでしょうか。  

(鈴木敬子)

 

 

 

 

 

第180号(平成27年2月)                   2015.2
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せきはく豆事典「災害と救済」

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 この時期、4年前の3月11日の出来事は忘れることはできません。東日本大震災‥。
 ここで、少し災害とその救済活動について触れてみましょう。
 江戸時代の天明期は異常気象や自然災害が頻発した時期でした。天明3年(1783)に日本では岩木山、浅間山が相次いで噴火し、アイスランドではラキ山が大噴火しました。その噴煙は成層圏に達し北半球を覆ったといわれています。これらの噴火や、しばらく前から続いていたエルニーニョ現象は数年間にわたり世界的な異常気象をもたらし、日本では約7年間にわたる「天明の大飢饉」が続きました(天明2年~8年)。また、天候不順による大雨は各地で大規模な洪水をもたらし、特に、天明6年には関東の利根川流域でも未曽有の水害となり流域の諸藩に大打撃を与えました。利根川流域の田畑では収穫量が皆無であったといわれ、天明の大飢饉の最中でもあったため村村の窮乏はさらに深刻なものとなったようです。
 そうした社会情勢の中、第19代関宿藩主久世広誉は、同年、関宿城下町において災害等で困窮する領民を救済する方策として、安民蔵(義倉=備荒殻倉)を設けて災害に備えることを決め、救済を始めました。さらに、翌年には飢えに苦しむ者に対しての救済を全領内で実施しました。決して豊かな財政力ではなかったのですが、災害救済を第一に考えた尊い活動といえます。
 さて、4年前の東日本大震災からの復興はまだまだです。この震災で多くの命が失われました。いまだ不明者は多いと報道されています。また、この地震や津波によって人命だけでなく、人々が大切に守り伝えてきた文化財や博物館資料も甚大な被害を受けました。震災復興のため、多くの博物館関係者が東北地方の博物館の救済活動に参加しました。その教訓を生かして、千葉県博物館協会加盟館は全国に先駆け、博物館資料救済の取り組みを始めました。県内の博物館や美術館が地震・火災・水害などで被災した時は互いに協力し合い、被災した博物館で収蔵している資料の救済活動を行おうとするものです。当然、人命第一ですが、博物館資料も助けることができる状況であれば、困っている機関に対して協力を惜しまないで互いに助けあおうというものです。まだ始まったばかりですが、他県からも注目されています。相互協力や連携の輪を強め、充実させていければ良い結果に結びつくものと期待しています。           

(太田文雄)

 

 

 

 

 

第179号(平成27年1月)                   2015.1
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せきはく豆事典「『田舎荘子』「鷺と烏の巧拙」について」

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 江戸中期の関宿藩士で武芸に長じ、且つ当時の人気作家としても有名な丹羽十郎右衛門忠明、別名佚斎樗山(いっさいちょざん)という人物が著した『田舎荘子』の中に鷺(さぎ)と烏(からす)が互いの巧拙を言い合う説話があります。
 烏が鷺に向かって、鷺の長い首と脛は飛ぶ時の釣合やどじょうを踏むくらいしか役に立たないと、容姿の悪さを批判します。そして、自分は人家に凶事が起こるのを事前に告げるのに、人間は縁起が悪いと忌み嫌うと嘆きます。
 それを聞いた鷺は、烏が凶事を告げて人間に恩に着せようとすることと、人間が烏を忌み嫌うのは共に非難されることだと言います。さらに、烏が鼠を捕ろうとして人家の屋根をむしったり、畑に植えた作物をついばんだり、人間が干しているものを遠慮なく食べるので、人間に嫌われるのはもっともなことであり、烏が凶事を告げるのは徳があって告げるのではなく、自分が不吉と同類だから自然とそこへ集まるだけだと烏の徳の無さを指摘しています。
 鷺は「人も同様に自分が悪意のあるものは必ず人の欠点を言う。だから、正しいことを言っても人には嫌われる。私の容姿の悪さは天性のもの。しかし、天性を超えた才覚を用いようとすれば必ず禍を招くので、私は天性を受け容れている」と言って飛び去ります。
 生まれながらの環境を受け容れ、己の分を弁え、心の持ち方を変えて世の中を良く見ようとする教えが『田舎荘子』の中で随所に著されています。現代では些か消極的な考え方のように見えますが、樗山が生きた社会的制約の大きい封建時代において、現状を受け容れ、その中で自らを律する術を持つことが大切なことだったのでしょう。 

(尾崎 晃)

 

 

 

 

第178号(平成26年12月)                  2014.12
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せきはく豆事典「7代関宿藩主・牧野信成について」

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 牧野信成(のぶしげ)は父・康成(やすしげ)と母・小笠原安次の娘を両親に持ち、三男として遠江国(現・静岡県)で生まれます。
 慶長4年(1599)、22歳のときに父の遺領・石戸領(現・埼玉県上尾市北西部~鴻巣市南西部)を継ぎます。翌年の関ヶ原の戦いでは徳川家康に従軍し、参戦します。その後、2代将軍徳川秀忠に仕え、28歳のときに従五位下・豊前守に叙任します。さらに、29歳で大番頭、33歳で小姓組の番頭、37歳で書院の番頭と重要な役職に就きます。
 元和元年(1615)の大坂夏の陣において、50騎の騎馬隊を率いて大阪城攻めに加わり、大砲を放って大阪城の櫓を破壊するという功績を挙げました。その恩賞として49歳で留守居役となり、2千石が加増されました。
 寛永10年(1633)の56歳のときに、4千石が加増され、1万1千石の大名となります。そして、10年後の朝鮮通信使来聘(らいへい)のときに使者を迎える役を務めます。その働きによって、従四位下に叙任します。
 正保元年(1644)、67歳のときに下総国の関宿城主となり、石戸領から関宿領(1万7千石)に転封することとなります。しかし、正保4年(1647)に病気のため家督を子の親成(ちかしげ)に譲って、旧領の石戸領で隠居します。関宿城主としての在任期間は3年でした。
 慶安3年(1650)4月11日に73歳で亡くなり、武蔵国鴻巣(現・埼玉県鴻巣市)の勝願寺に埋葬されます。後に、この寺院が牧野家代々の菩提寺となります。
 ちなみに、父・康成の石塔が関宿の光岳寺にあります。ぜひ、訪ねてみてはいかがですか?

    (奥原経営『関宿町誌』を参考) ※年齢は数え年       

(横山 仁)

 

 

 

 

第177号(平成26年11月)                    2014.11
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せきはく豆事典「浮世絵の絵の具について」

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 現在(平成26年11月)、開催中の地域連携巡回展「通運丸で結ばれた関宿・野田・流山−海運へのターニングポイント−」では、目玉である「東京両国通運会社蒸汽往復盛栄真景之図」という明治期に制作された浮世絵が展示されています(※)。赤や青、緑など、様々な絵の具を用いて摺られた浮世絵で、とても鮮やかな色合いです。また「冨士三十六景 鴻之台と祢川」や「諸国勝景 下総利根川」という江戸期に制作された浮世絵も展示されています。どちらも青がメインに使われている浮世絵ですが、明治期に制作されたものと違い、江戸期のものは落ち着いた印象を持ちます。
 初期の浮世絵は、鉱物や植物など自然素材から作られた絵の具を使用しており、青は藍や露草、赤は鉛丹や紅花などを素材としていました。江戸時代後期になって、西洋から化学的に合成された「ベロ藍」と呼ばれる青色の絵の具が入ってきます。有名な葛飾北斎の「冨嶽三十六景」では、この絵の具が多く使われています。展示されている「冨士三十六景 鴻之台と祢川」や「諸国勝景 下総利根川」も同時期の作品で、青が印象的に使われています。
 一方、赤色の絵の具は明治初期に「アニリン」という絵の具が西洋から入ってきます。化学的に合成されたこの絵の具の輸入によって、浮世絵は明治期にとても鮮やかな色彩に変化しました。
 地域連携巡回展で展示されている「利根川通汽船通運丸荷物類等 等級区分一覧表」を見ると絵の具は1級品に入っており、とても高価なものだったことがわかります。それでも流通されていたということは、鮮やかな色合いの絵の具はとても魅力的だったのでしょう。
 当館の常設展でも江戸期と明治期の浮世絵が、何枚か展示されています。浮世絵の色合いを比較しながら、歴史の流れを考えてみるのも一興かもしれません。 

(鈴木敬子)

    ※当館第3展示室にて常設展示中(令和3年現在)。資料詳細はこちら

 

 

 

 

 

第176号(平成26年10月)         2014.10

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せきはく豆事典「通運丸物語 その4−通運丸の終焉とその後−」

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 約半世紀の間、人々の重要な足として活躍してきた通運丸にも終焉を迎える時がやってきました。通運丸の就航とほぼ同時期に鉄道の敷設が本格化し、次第に全国各地に広がりを見せ、通運丸は料金・時間の面で、鉄道との競争を余儀なくされていきました
 また、昭和初期には国産の自動車が生産されるようになり、トラック輸送は陸上輸送の主役を担うようになりました。これに併せて各都市間で道路網の整備が進み、河川に橋が架けられるようになりました。さらに台風などの自然災害により大量の土砂が川に流れ込み、船の通航に支障を来すようになりました。こうして通運丸は昭和初めごろに定期的な通航が行われなくなりました。
 明治政府は国内の産業育成と貿易の拡大に努めて、大型船舶の建造、半官半民による海運会社の設立、外国航路の開発を行いました。こうして海運は大きく発展を遂げていきました。一方、国内では物資輸送が鉄道や自動車に替わりました。船はその重要性を増々拡大していき、それは現在でも変わることはありません。

(尾崎 晃)

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第175号(平成26年9月)         2014.9

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せきはく豆事典「通運丸物語 その3−通運丸で結ばれた町−」

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 明治43年(1910)に発行された『利根川汽船航路案内』という本があります。この本には航路の地図や内国通運株式会社の沿革に加えて、関宿・野田・流山を含む各寄航場の様子が書かれています。
 各町の地勢・交通機関・名所旧跡・官公庁の所在・旅館や料理店・物産などが写真入りで掲載されている立派なガイドブックです。例えば、野田や流山は繁栄している醸造業、東関宿は名所旧跡として関宿城跡が紹介されています。当時の人々はこうした本を買い求め、通運丸に乗って東京から銚子・霞ヶ浦などの観光地を訪れ、名産品に舌鼓を打ったことが容易に想像できます。
 この本が発行された8年後の大正7年(1918)には、さらに詳しく写真の多い『利根川勝地案内』という本が発行され、同様の内容で各地の繁栄ぶりが紹介されています
 通運丸によって結ばれた各町の発展は、通運丸だけによってもたらされたものではありませんでした。鉄道の開通や自動車の普及によっても大きく発展しました。やがて、これらの交通機関の普及は通運丸を脅かす競争相手となっていきました。

(尾崎 晃)

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第174号(平成26年8月)         2014.8

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せきはく豆事典「通運丸物語 その2−通運丸の就航−」

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 通運丸を就航させたのは内国通運会社で、現在の日本通運株式会社がその後身に当たります。内国通運会社は、政府から主要な街道や水路の河岸問屋・伝馬所を統合する大きな権限を持たされていた陸運元会社が元になって出来た会社です。
明治政府はこれまでの助郷制度を改め、対価支払いによる新しい交通システムを創ることを目指していました。それには水陸両方で長距離の輸送が出来る民間の会社が必要とされ、当初は大きな会社を作り、後に分散化していく方針をとりました。
 通運丸は明治10年の就航以降、昭和9年に東京−銚子間航路が廃止されるまで87隻が造られました。最初の船は長さ約22m・幅約2.7m・深さ約1.35mの大きさでした。最盛期は大正6~10年で28隻の通運丸が通航していました。
 通運丸は当初、東京深川・扇町(現江東区猿江1丁目)を発着地としていましたが、その後、蛎殻町(現中央区日本橋蛎殻町)と両国(現中央区東日本橋2丁目)・高橋(現江東区高橋1丁目)が発着地(原発場)となりました。やがて江戸川・利根川を中心に鬼怒川・渡良瀬川・霞ヶ浦など主要な河川に航路を伸ばし、貨客の輸送に活躍しました。 

(尾崎 晃)

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第173号(平成26年7月)         2014.7

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せきはく豆事典「通運丸物語 その1−通運丸の就航まで−」

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 これから4回にわたって地域連携巡回展「通運丸で結ばれた関宿・野田・流山−海運へのターニングポイント−」の内容などについて紹介します。今回は、通運丸が登場するまでの状況について説明します。
 「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず」と狂歌にも歌われたペリー来航は、江戸幕府を揺るがす大事件となりました。この事件はペリーらが乗った蒸気船(狂歌では当時の高級茶の銘柄である「上喜撰」にひっかけています)によってもたらされました。ペリー来航後程なくして江戸幕府は滅び、明治新政府による新たな国家作りが始まりました。
 明治政府は殖産興業を推進していく上で国内外の物資や人を速く大量に輸送するシステムが必要と考え、当時物資の輸送の主役を担っていた海運や河川水運に蒸気船を導入していきました。また同じ時期に鉄道を敷設するなど、陸上交通の改善にも力を注いでいきました。
 関東地方は江戸時代から利根川や江戸川などの大小の河川を利用した水運が発達し、沿岸には多くの河岸場ができていました。そこに天候や昼夜の別なく、速く多くの荷物や人を運ぶことができる蒸気船が就航します。それが今回主役の「通運丸」です。通運丸は明治10年(1877)から昭和9年(1934)までの約半世紀にかけて関東地方を代表する蒸気船として活躍しました。次回は通運丸がどのような船であったのかについて紹介します。

(尾崎 晃)

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第172号(平成26年6月)         2014.6

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せきはく豆事典「舟運の文明開化『通運丸』」

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 長く続いた徳川家の時代から新政府のもとで西洋の新しい文化を取り入れた明治という時代は、考え方や産業の在り方が大きく変わった、まさに「文明開化」の時代といえます。西洋文明の代表である「蒸気機関」は、陸上では蒸気機関車、水上では蒸気船という今までにない交通手段として運輸・交通のヒーローを誕生させました。
 従前の輸送における河川交通の主役は高瀬船をはじめとする和船でした。明治10年に内国通運会社(現・日本通運の前身)が東京深川の扇橋から江戸川・利根川を経て、思川の生井村(現・栃木県小山市)に至る航路に外輪蒸気船「通運丸」を就航させました。それ以来、東京から関宿を通って利根川上流域への上川航路、東京から利根運河を経て銚子までの下川航路(利根運河開通以前は今上~三ツ堀ルートなどの陸路を利用)、東京から行徳への行徳航路、さらには銚子や東京から霞ヶ浦・北浦などへの航路も開かれ、人や物資輸送に「通運丸」の活躍は目覚ましいものがありました。
 明治10年代後半に両国の通運丸発着場の賑わいを描いた錦絵には、洋風建物の軒先に寄航地名の木札が掲示され、そこから船着き場まで多くの乗降客が並ぶ姿と水上を行き交う「通運丸」が描かれています。そこには新たな文明に対する人々の期待と憧れを抱かせる華々しい光景が広がっています。和船では実現することのできなかった短時間での移動を果たしたことで、通運丸の利用が増大していきました。ちなみに、明治32年の東京~銚子の所要時間は20時間だったそうです。
 経済・産業がさらに発展することで、鉄道網が整備されたことや、大正後半期からの車の増加に対する道路整備の進展が、河川水運の終焉を決定づけました。
 現在、わたしたちが海上を走る豪華客船や大型輸送船を見る時とは違った感覚で、当時の人たちは身近になった文明の香り高い「通運丸」を見ていたのかもしれません。

(太田文雄)

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第171号(平成26年5月)         2014.5

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せきはく豆事典「6代関宿藩主・北条氏重について」

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 北条氏重は父・保科正直(まさなお)と母・多却姫(たけひめ)を両親に持ち、文禄4年(1595)に信濃国高遠(現・長野県伊那市)で生まれます。ちなみに、母親の多却姫は初代関宿藩主・松平康元の妹に当たります。
 慶長16年(1611)、17歳のときに北条氏勝の養子となり、遺領1万石を継いで佐倉城主になります。19歳で従五位下、出羽守を叙任し、領地が下野国富田(現・栃木県栃木市)に移ります。20歳のときに大坂冬の陣に出陣し、二番隊として二代将軍・徳川秀忠にお供します。そして、秀忠の命令により、岡崎城を守ることになりますが、氏重は先鋒隊を懇願し、大坂行きとなって和泉国岸和田(現・大阪府岸和田市)の城番を務めます。元和元年(1615)に大坂夏の陣が起こると、高野山に通じる橋本街道を守り、敵兵の往来を防ぎ止めました
 元和5年(1619)、25歳のときに領地が下野国富田から遠江国に移され、久野城主(現・静岡県袋井市)となって1万石を所領しました。34歳のときには江戸城西の丸の石垣を築くため、伊豆国(現・静岡県)から石を運送する役職に就きます。そして、41歳で大番頭を務めます。
 寛永17年(1640)、46歳のときに久野城から下総国関宿城(現・千葉県野田市)に移され、城主として2万石を所領します。関宿城主の在任期間は4年でした。その後、50歳のときに関宿城から駿河国田中城(現・静岡県藤枝市)に移され、5千石が加増されて2万5千石の城主となります。さらに、54歳のときには田中城から遠江国掛川城(現・静岡県掛川市)に移され、5千石が加増されて3万石の城主となります。
 しかし、万治元年(1658)10月1日に64歳で亡くなります。この年、氏重には跡継ぎがなかったので、領地を幕府に返還しています。

 (奥原経営『関宿町誌』を参考) ※年齢は数え年

(横山 仁)

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第170号(平成26年4月)         2014.4

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せきはく豆事典『田舎荘子』について

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 江戸中期の関宿藩士で、武芸にも長じていた丹羽十朗右衛門忠明という人物がいます。彼は佚斎樗山(いっさいちょざん)というペンネームで、当時の人気作家としてさまざまな著作を発表しています。忠明自身は万治2年(1659)に江戸で生まれ、関宿藩主の久世広之と重之・暉之に仕え、暉之の頃に著作活動を始めます。その処女作となる作品が享保12年(1727)に刊行された『田舎荘子』です。忠明の著作の中でも一番有名な作品でしょう。
 『田舎荘子』は上・中・下巻からなり、その内容は雀と蝶、鷹とミミズクなど殆どが動植物の語り合いから、人の世のあるべき姿、心の持ち方などを述べています。その中でも特に有名な話は「猫の妙術」です。
 ある剣術士の家に大ネズミが出て大変困ったことになりました。剣術士はその退治を飼っている3匹の猫に頼みますが敵(かな)いませんでした。自ら木刀を持って退治を試みるも失敗します。そこで、ある老猫に3匹の猫と共に相談に行きます。そして老猫からそれぞれの猫に対して、ネズミの捕り方の問題点を指摘されます。黒猫は技に頼り過ぎ、虎猫は気持ちが入り過ぎ、灰色猫は無理に無心を装う心の不自然さを諭されます。傍で聞いていた剣術士は、それが剣術論にも通じることから老猫に教えを乞い、日頃の心の持ち方や教育のあり方を教わるというものです。
 忠明は武芸だけでなく学問に励み、特に荘子を大変勉強していました。忠明を人気作家にまで押し上げたのは、難しい教えを動植物の会話に例えて、親しみやすく解りやすく語りかける優れた表現力だったのでしょう。また、不特定多数の読者を意識し、多くの人々が日常生活に役立つ教えを広めようとした一種のサービス精神があったからでしょう。ただの武芸者や学者に止まることなく、世の中の人々に役立つことに貢献した稀有な人物と言えます。  

(尾崎 晃)

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第169号(平成26年3月)         2014.3

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せきはく豆事典「関宿藩士池田正樹の「難波噺」について」

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 前号では,江戸中期の関宿藩士で武芸者であり,当時の一流の流行作家でもあった丹羽十郎右衛門忠明,別名佚斎樗山(いっさいちょざん)の『天狗芸術論』について紹介しました。

 今回は,日本各地の風物に関する記録を残した関宿藩士池田正樹の『難波噺』について紹介します。この『難波噺』は,当人の大坂の風物に対する驚き,物珍しさ,思いが素直に書かれています。今でいう旅行記録です。内容は,大坂市中とその近辺の史跡や名所・寺社の様子,大坂の風物や伝承,年中行事,当時の人々の娯楽・行楽です。時代は明和6年(1769)から安永3年(1774)までの5年間の記録です。

 池田正樹の職務は,主君久世広明が大坂城代として赴任していたので,その属吏として大坂の城代屋敷の受け取りや様々な引き継ぎと準備をすることでした。明和6年(1769)11月4日に下総国関宿(野田市)を父とともに出立して,11月17日明六ツ時に大坂・八軒家の浜(大阪市中央区)に着きます。大坂に着くなり,油問屋の伊右衛門方(大阪市中央区平野町1丁目)に4日間,間借りをすることになります。その後,11月21日に城代中屋敷へ移ります。

 彼は,勤務に従いながら屋敷周辺や町中のおもしろい噺を拾い集めて記述しています。その中には,現在は無くなってしまっている風物もあります。

 現在,『難波噺』の概略は『大坂見聞録』渡邊忠司著 東方出版 2001年刊で知ることができます。

 *上記の文は,『大坂見聞録』渡邊忠司著から引用しました

 (益子 泉)

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第168号(平成26年2月)         2014.2

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せきはく豆事典「天狗芸術論について」

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 今回は,江戸中期の関宿藩士で武芸者であり且つ当時の一流の流行作家でもあった丹羽十郎右衛門忠明,別名佚斎樗山(いっさいちょざん)の代表的著作である『天狗芸術論』について紹介します。この本は享保14年(1729)に刊行された武芸書で,長年の修行にも関わらず満足のいく境地に達しない武芸者が,天狗との語らいのなかで武芸の何たるかを学ぶというものです。天狗が語ったこととは・・・

1.なぜ修行するのか?

 武芸には技術と道理があるが,技術が高められないと道理を理解することは出来ない。武芸は理屈で覚えるより先ず修行によって身体で覚えろということ。 

2.近頃の若い者は・・・

 昔は武芸を学ぶ者は修行に長い時間をかけて高い技術を習得し,武芸の道理 は長く悩みながら自ずと理解していった。師匠も道理までは安易に教えず,弟子自ら理解するのを待ったものだ。しかるに近頃は若い時から骨の折れることを嫌がり小手先の技術を学ぶだけで終わっている。師匠も初心者にも極意を説き,手をとって教えている。これでは理屈ばかり達者な者になってしまう。  

3.極意は公開すべし

 剣術の道理は普遍的なもので,誰もが理解出来るものである。秘伝などと称して初心者に教えないのは判断力を持たぬ者が間違って理解しないようにしているだけだ。真の極意とは公開したからといって誰もが真似出来るものではないので,別に隠す必要はない。 

 これは『天狗芸術論』の一部分です。武芸の何たるかを語りつつ一般の人に通じる教育論にまでなっています。これは忠明が不特定多数の読者を意識していたからだと思われます。上記の一節など,現代でも頷けることもありますね。もし忠明が現代に生きていたら何と言うか聞いてみたい気もします。

 (尾崎 晃)

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第167号(平成26年1月)          2014.1

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せきはく豆事典「5代関宿藩主・小笠原貞信について」

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 小笠原貞信は高木権右衛門貞勝を父に持ち,寛政8年(1631)8月24日に美濃国石津郡多羅(現・岐阜県大垣市)で生まれます。9歳のときに4代関宿藩主・小笠原政信の養子となり,政信の娘を正室にします。

 養父・政信の死去により,寛政17年(1640)9月14日に10歳で遺領22,700石を受け継ぎ,関宿城主となります。しかし,貞信が幼かっため,9月28日に関宿から美濃国石津郡高須に移されます。わずか,14日の在任期間でした。その後,17歳のときに増上寺裏門の普請を手伝い,褒美をいただきます。26歳のときには従五位下,土佐守を叙任します。

 元禄4年(1691)7月26日,60歳のときに所領を越前国大野郡内(現・福井県大野市)に移され,勝山城主となります。以後,小笠原家が明治維新までこの地を治めます。

 71歳で隠居し,正徳4年(1714)6月17日にこの世を去ります。享年83歳でした。遺体は浅草の海禅寺に埋葬され,鉄梁一玄真光院と号しました。

   (奥原経営『関宿町誌』を参照) ※年齢は数え年

 (横山 仁)

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第166号(平成25年12月)            2013.12

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せきはく豆事典「西関宿廻船問屋奉納の大杉船絵馬」

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 明治30年に西関宿(現:幸手市)の廻船問屋が航行の安全を祈って奉納した絵馬が幸手市内の神社に所蔵されています。絵柄は,大しけの中,難破しかける船に切腹を図る武将と,それを止めようとする烏天狗が飛来する場面です。

 色彩豊かでダイナミックな構図で描かれた画面から,物語性を感じ,気になって調べてみたところ,「南総里見八犬伝」で知られる曲亭(滝沢)馬琴が著した「椿説弓張月」(ちんせつゆみはりづき)の中に同じような場面がありました。その場面は,「保元の乱に敗れ九州にのがれた鎮西八郎為朝が,平氏討伐のため水俣から出航。ところが,嵐に遭遇し船は難破。為朝の妻の白縫(しらぬい)が生贄となって荒れた海を鎮めるため入水,しかし海は荒れ狂い,為朝も「これまで・・」と悲観し自決を決意しますが,崇徳院の使者(烏天狗)に助けられる」というものです。

 これは,文化4年(1807)に刊行された作品で,挿絵が葛飾北斎によります。挿絵には,(ア)烏天狗が6人(?)飛来し,妻を失い悲嘆した為朝の切腹を止める場面,(イ)為朝の子の舜天丸(すてまる)を抱いた為朝の家来が巨大な鰐鮫の背に乗り琉球に向かう場面が描かれています。

 この場面を国芳も浮世絵に描いており,(ア)(イ)に加え,妻の白縫(しらぬい)が生贄となって波間に浮かぶ姿が描かれています。本絵馬は,(ア)(イ)の場面を再現しています。また,波は国芳,船は北斎が描いたものに似ていますが,源氏の家紋である笹竜胆を描き加えるなど,絵師の創作も見え,優れた出来栄えとなっています。

 舟運で賑わった西関宿の舟運業者たちも信奉したアンバ様と,海難救済の天狗と馬琴の描く為朝の伝説を重ね合わせ,ダイナミックな構図で描かれた絵馬の秀品です。

 (太田文雄)

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第165号(平成25年11月)            2013.11

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せきはく豆事典「川が結ぶ(4)−現在の東京の水路と貞山運河− 」

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 河川や水辺の良さ・大切さは誰もが知る所です。洪水や高潮など自然災害を未然に防ぎ,潤いのある水辺空間の形成をとおして人々のいこいの場や賑わいを取り戻し,川から受ける恩恵で人々の心を豊かにする取り組みがそれぞれの地域で行われています。江戸時代に活躍した水路は現在どのように活用されているのか紹介します。

【東京の水路】

  仙台堀川公園に代表されるように,東京の運河は,震災や戦争によって生み出された瓦礫等の処分先として選ばれ埋め立てられました。また,戦後の人口増による住宅地の建設や道路網の整備といった理由から埋め立てられたり,暗渠になったりしました。

  このように東京では多くの運河が消滅している中で,かつて水運路として活用されていた水路が,物流・観光・防災・生活空間としての様々な形で活用されている例があります。例えば,小名木川にはかつて,水上バス「かわなみ」が定期就航していたり,現在では観光用の水陸両用バスが運行しています。

  さらに,防災の面から国や東京都が中心となり,防災船着場整備計画が立てられ,都内に61か所の船着場があります。

【貞山運河】

 春には,緑豊な田園風景が広がりとても美しい風景を持っている仙台平野です。秋には水田一帯が黄金色に染まり,貞山運河沿いの松林の緑とのコントラストがとても美しい景色をもたらします。その貞山運河も先の震災で大きな被害を受けました。水路の地盤沈下や亀裂,ゴミとなってしまった多くの物が散乱していました。現在は,地域住民やボランティアの方,地元自治体,国の協力でほぼ元の状態に戻りつつあります。

 (益子 泉)

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第164号(平成25年10月)            2013.10

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せきはく豆事典「川が結ぶ(3)−境河岸− 」

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  境町は江戸時代初期に奥州・江戸間の輸送経路になっていました。その後,日光東往還が通り,関宿城下町5町のひとつとして,また,宿場町も兼ねるようになりました。そのようなことから物だけでなく人も集まる河岸として繁栄していきました。

 境河岸には2軒の河岸問屋がありました。兵庫(青木)家と五右衛門(小松原)家です。ともに境町で名主を勤め,それぞれの屋敷が本陣,脇本陣となっていました。

 河岸問屋は,荷物を手配したり受け取ったりするだけの業務のみ行っていたわけではありません。河岸に着いた荷物を中継するにも,天候などに左右されれば船が出ないので,荷物を保管する倉庫が必要でした。境河岸付近が描かれた「大師典八十八箇所寺郷路方角大殻図」には,白い壁の土蔵と思われる建物が幾つも見られます。河岸問屋は蔵を建て,その使用料を徴収する倉庫業も営んだほか,荷物とともにやってくる荷主やその代理人などが宿泊する旅館業も営んでいました。

 小松原家には,膨大な量の河岸問屋関係資料が残されています。それらの資料からは,取り扱われた荷物の品々ばかりでなく境河岸を構成する建物や人々の様子さえも窺うことができます。「石高家数人別書上帳」によると天明5年(1785)の境町の職業構成は,境町の総人口1,851人で,問屋が前出の河岸問屋2軒のほかに海産物を扱う浜方問屋4軒,米・大豆などを扱う雑穀問屋7軒,その他3軒,合計16軒がありました。156人が問屋の仕事に従事していました。

 水運に直接関わる人々としては,船乗りや荷積みを担う者及び船持などがおり,合計215軒・788人。さらに陸上輸送を受け持つ馬持が28軒・122人,渡し船の船頭が9軒・46人です。これら交通運輸関係者が総人口に占める割合は約6割でした。河岸という町全体が,交通運輸の業務を担った場所だったのです。

 (益子 泉)

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第163号(平成25年9月)            2013.9

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せきはく豆事典「川が結ぶ(2)−道三堀と小名木川・新川− 」

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 天正18年(1590),江戸に入府した徳川家康が最初に行なったのは,江戸の城と城下町を造ることであった。その町作りは,江戸城を防御する都市構造を基本に開始された。最初に必要となったのが,材木などの建築資材を直接江戸城に運びこむための水路であり,江戸城に進入する外敵を防ぐための濠であった。

 水路の整備は江戸城を起点に,海運と接続する江戸湊や,「江戸」を代表する川で当時「大川」と呼ばれた隅田川からさらに関東一円へと広がっていった。しかし,これらは家康が目指した全国規模の交通網整備の一部に過ぎない。よく知られている五街道の整備もその一つで,交通網を整備することで,幕府は全国的な流通システムの構築と掌握を目指していたのである。

 家康が第1のステップとして行った事業が,道三堀の開削である。これは当時江戸湾に突き出た半島状の「江戸前島」の基部付近を開削し,日比谷入江に面する江戸城と隅田川河口及び江戸湊を結ぶものだった。次に小名木川と新川(船堀川)の開削をである。これも天正18年の開始とされているが,その後に展開される利根川東遷事業や荒川西遷事業などの成果を関東河川交通網整備として理解するならば,小名木川の開削はその整備の端緒として位置づけられる。当初の目的は,当時関東一の製塩地帯であった行徳塩浜と江戸城を直接結ぶことであった。塩は米と並ぶ重要な生活必需品であり,戦略物資である。小名木川・新川は,後の利根川東遷事業の完成により江戸市中と江戸川・利根川水系を結び,塩のみならず東北諸藩をはじめとする各地からの廻米や商品作物,近郊からの野菜など様々な物資を運ぶ重要な運河となった。

 小名木川は,現在の江東区清澄と同区大島の間をほぼ東西に,一直線に結んでおり,明らかに人口河川であることが分かる。その距離は,約4.6キロメートルである。小名木川の名称は,慶長年間(1596~1615)に拡張されたと伝えられ,その時の任にあたった小名木四郎兵衛の名が由来である。もともと干潟沿海に確立していた水路であったといわれているが,海岸線に沿っての航行は,海岸の地形や潮流から受ける影響が大きく,安定した航路を確保することが難しかった。そのため,江戸湾の埋め立てを進行しながら,その水路を埋め残す形で整備したものである。寛永期(1624~1644)には,小名木川の南岸は埋め立てが進み,新田として開発されていったが,その頃小名木川の南には仙台堀が掘られ,仙台藩の深川蔵屋敷などが設置されている。

 船堀川(新川)は,江東区大島で中川を経て,西船堀から多少蛇行しながら南行徳付近の江戸川に接続し,その距離は,約3キロメートルである。新川も開削されたものであるが,多少蛇行する流路を見ると,もともとあった古い川の流路を改良したものと思われる。

 (益子 泉)

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第162号(平成25年8月)            2013.8

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せきはく豆事典「川が結ぶ(1)-日本一の運河・貞山運河-」

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  江戸で徳川家康が最初に道三堀の開削を行ったように,仙台藩でも藩主伊達政宗が初めて仙台城下に物資を運ぶための運河を開削している。それは,阿武隈川河口と名取川河口を結ぶ全長約15kmの「木曳堀(こびきぼり)」である。この開削時期について『仙台市史通史編3』では,名取平野の諸水路の造成や新田開発などと関連し,新田開発が活発となる慶長年間(1596~1615)後半から元和年間(1615~1624)とするのが妥当であろうと著されている。

 万治年間(1658~1661)に,塩釜湾口の牛生(ぎゅう)と七北田川(ななきたがわ)河口の蒲生(がもう)を結ぶ全長約7kmの運河を開削している。開削を行ったのが,仙台藩士・佐々木只大夫である。当初,「大代運河」と呼ばれる牛生から多賀城の大代(おおしろ)までの1.8kmの開削を行った。次いで,大代から蒲生までの「御船入堀」と呼ばれる運河の開削に挑むが,開削場所が砂地であったため,通船できなかった。これを完成させ,通船を可能にしたのが蒲生(現・仙台市宮城野区蒲生)の和田織部房長らである。寛文13年(1673)のことである。これにより,塩釜湊に揚がった米などが安全に仙台城下近くまで輸送できるようになった。

 その後,3つの沿岸運河が掘られた。天保9年(1838)に蒲生と名取川河口の閖上(ゆりあげ)間の,開削計画が上がったが,天保の飢饉の影響により,実現できなかった。しかし,明治18年(1885)に「新堀」として全長約10kmの運河が宮城県によって開削された。これら4つの運河を合わせると全長33.5kmとなり,当時日本一の長さを誇っていた。宮城県は完成を記念し伊達政宗の諡である「瑞巌寺殿貞山禅利大居士」をとって「貞山堀運河」と命名した。

 なお,その後に掘られた北上運河(北上川と鳴瀬川を結ぶ)と東名運河(鳴瀬川と松島湾を結ぶ)を含めた全長約49kmを貞山運河と呼ぶこともある。

 (益子 泉)

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第161号(平成25年7月)            2013.7

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せきはく豆事典「江戸時代たまご事情」

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  どんなゆで卵が好きか聞くと,人によって好みがまちまちのようです。よく湯だった固めの卵,黄身に少し赤さの残る半熟玉子,黄身の中心がとろりとゆるい半熟玉子など千差万別。中には温泉卵が一番という人も。

  現在では身近な食材となっている鶏卵ですが,関宿藩領境河岸でのたまごの取り扱いを参考に,江戸時代のたまご事情を見ていくことにしましょう。境には大きな河岸問屋が2軒あり,そのうちの一つが小松原家でした。小松原家には当時の荷の取引を記録した大福帳が残されていて,江戸と地方との間で取引された荷物の種類や荷主などが詳しく記載されています。

  江戸時代中ごろの元文期(1730年代ころ)から後期の天保期(1830~40年代ころ)までの4冊の大福帳で取引経過をみると,元文期から寛政期(1790年代ころ)までは微増傾向ですが,天保期に取扱量が飛躍的に増大しています。

  養鶏は近世初期が始まりとされています。寛永期(1630年代ころ)に家光がポーランドから輸入した鶏を仙台の伊達家,水戸の徳川家に与え,そこでの飼育が養鶏の本格化につながったといわれ,生類憐みの令で一時衰退しますが,八代将軍吉宗が養鶏を奨励し(1720~30年代ころ)新種の鶏が輸入されたことで飛躍的な隆盛をみたそうです。

  境河岸で扱う鶏卵の生産地も元文期では仙台,水戸など初期に養鶏が盛んであった所が目立ちますが,天保期(1830年代ころ)に至ると東北地方でも須賀川,白川の藩領域である南部に特化します。さらに,現在の栃木から茨城の鬼怒川や利根川流域の村々が生産の主体となります。このように,生産地は次第に江戸という大消費地へ近づくとともに,船による輸送に便利な大型河川沿いの村々に移っていきます。そして,境河岸は周辺農村の鶏卵の集積地として,また,鬼怒川・利根川沿岸の鶏卵生産地からの荷の経由地として機能を果たしていきます。

 天明3年(1793)の浅間山噴火以来,利根川の河床が徐々に上がったことで境河岸での荷の扱い量が減っているにもかかわらず,境河岸での鶏卵の取扱量が増加していることや,それを取り扱う江戸の問屋の数が増加していることなどからも,次第に鶏卵の需要が増え江戸庶民にも受け入れられていったことが窺えます。

 江戸末期に書かれた「守貞謾稿」によると,かけそば16文に対してゆで卵が一個20文で売買された時もあったとの記載があり,生産量が少なかったことや輸送が面倒であったことなどから,卵は今と違って高価な食材であったようです。

 卵は輸送時に割れてしまっては商品になりません。また,保存も大変でした。江戸時代では(今でも通用するようですが),よく乾かした木箱内に湿気のない清砂や乾燥した籾殻などを詰め,卵の鈍端を上に向けて置き,風通しのよい冷暗所で保管するとよいとされました。夏で1か月,冬には3か月くらいは大丈夫とのことです。いずれにしても,江戸時代のころは籾殻などで養生し,慎重に運んだのでしょう。遠隔地からの大量輸送を可能にした舟運は物資の流通に大きな影響を与えていますが,卵の流通もまた然りで,江戸時代後期に利根川・鬼怒川流域で鶏卵の生産が盛んであったこともうなずけます。

 ちなみに,卵の大きさをL・Mなどと表記しますが,白身の量が違うだけで黄身の大きさはあまり変わらないそうです。

(太田文雄)

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第160号(平成25年6月)            2013.6

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せきはく豆事典「関宿藩の武芸者」

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 江戸時代の武士は腰に大小の刀を差しています。当たり前過ぎる話かもしれませんが,常に刀を差している武士は,「いざ」という時は戦いに臨まなくてはなりません。しかしいくら武士の家に生まれたからと言って,最初から刀や槍の扱いに長じている人はいません。武士は道場で各種の武芸を学び,その習得に努めていました。関宿藩士の中にも高名な武芸者がいます。名を丹羽十郎右衛門忠明といい別名佚斎樗山(いっさいちょざん)と言います。万治2年(1659)に生まれ寛保元年(1741)に没しています。特に剣術を良くし,その流派は恐らく一刀流の系統と思われ,忠明は藩士達に剣術の指導に当たっていたと思われます。忠明は学問にも優れた才能を発揮し,いくつかの著作も出版し,多くの読者を得ていました。

 忠明の著の一つに享保14年(1729)に刊行された『天狗芸術論』があります。これは武芸の啓蒙書で,天狗の言葉を借りて剣術の何たるかを説いています。武芸書というよりも哲学書に近く,忠明の教養の深さを窺い知ることが出来ます。多くの武芸者が高い技能習得と技術指導に止まる中,それを理論・体系化し著作物にまでまとめあげることが出来る人物はそう多くはいません。そうした意味で忠明は稀な存在と言えるでしょう。

 忠明が活躍した時代は将軍徳川吉宗による享保の改革が行われていたときです。この時期は各種の武芸が見直され,その習得が奨励された時期でもありました。忠明はそうした気運を上手につかみ,才能を開花させた一人でした。

  ※『天狗芸術論』は現在活字化されており,どなたでも気軽にご覧いただけます。    

(尾崎 晃)

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第159号(平成25年5月)            2013.5

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せきはく豆事典「4代関宿藩主・小笠原政信について」

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 小笠原政信は酒井左衛門尉家次を父に持ち、慶長12年(1607)に武蔵国本庄(現・埼玉県本庄市)で生まれます。小笠原信之の養子となり、8歳のときに養父の信之が死去したため、2万石の遺領を継いで古河藩主となります。同年、将軍・徳川秀忠に伴い、大坂冬の陣で一番隊を務めます。政信は少年ながら、秀忠の命令を受けて近江国(現・滋賀県)の佐和山城を守ります。そして、豊臣方との和睦後、佐和山城をもらい受けます。さらに、翌年の大坂夏の陣のときには伏見城を守りました。

 元和5年(1619)の13歳のときに、古河から関宿に移り、4代関宿藩主となります。このとき、検地した土地を合わせて22,700石を所領します。亡くなるまで関宿藩主を21年間務めます。         

 その間、20歳で大坂城の加番を任され、21歳のときに従五位下、左衛門佐に叙任されます。22歳のときには江戸城西の丸の的場乾溝石垣の修理を任され、23歳で江戸城西の丸の石垣を普請します。26歳になると大阪城の城番を任され、退任後、将軍・徳川家光の上洛により、江戸城の居留守居役を命ぜられます。31歳のときには、江戸城本丸の普請のため、御守殿を任されます。                     

 しかし、若くして寛永17年(1640)7月2日に死去してしまいます。享年34歳でした。関宿の総寧寺に埋葬されますが、その後、この寺を下総国鴻之台(現・千葉県市川市)に移し、そこに改葬されました。

       ※年齢は数え年です。  

(横山 仁)

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第158号(平成25年4月)             2013.4

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せきはく豆事典「権現堂桜堤」

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 関東の桜の名所として有名な権現堂桜堤,桜はもちろんのことですが,現在は菜の花,紫陽花,曼珠沙華といった花,そして権現堂調節池の水空間を活かし埼玉県営権現堂公園として整備が進められています。冬の時期は,早朝から多くの人がワカサギ釣りを楽しんでいる光景が見られます。

 この権現堂堤は,かつての権現堂川が氾濫することを防ぐために築かれたものです。現在,権現堂川は廃川になり,権現堂調節池になっています。 

 権現堂川は寛永18年(1641),伊奈忠治が利根川の水を通すために開削した人口河川です。名前の由来は,川沿いに熊野権現を祀る熊野神社(幸手市北3丁目)があるところから呼称されています。

 最初の築堤は,天正4年(1576)と言われています。

 権現堂堤は寛政元年(1789)から弘化3年(1846)までの57年間に17回も決壊を繰り返しました。この決壊による濁流は江戸市中まで押し寄せ,本所・深川・浅草・向島一帯に浸水し,冠水が場所によっては4mになることもあったそうです。

 明治政府は,明治8年(1875)新たに堅固な堤防を築きました。権現堂堤は,その後修復を重ね堤防の役割を果たしてきましたが,それでもたび重なる洪水に悩まされた政府は,明治末期になって利根川流域の改修計画を見直し,権現堂川を廃川とすることにしました。

 昭和2年(1927)に,上流部の利根川(赤堀川口)と下流部の江戸川口で締切り廃川となりました。

 桜の歴史は,大正9年(1920)行幸堤保存会(明治9年,明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄って視察したことから“行幸堤(みゆきづつみ)”とも呼ばれるようになりました。)を組織し,堤に延長6km約3000本のソメイヨシノが植えられたことから始まります。第二次大戦中は供出のため桜は伐採されてしまいました。また,戦後は燃料として使用されたため堤は丸坊主のようになってしまいました。

その後,昭和24年(1949)から公民館職員らが中心になって苗木3000本を国道4号線から県道にかけての約1kmに植樹しました。現在,そのうちの約1000本が残り桜並木のトンネルとなっています。

(益子 泉)

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第157号(平成25年3月)             2013.3

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せきはく豆事典「3代関宿藩主・松平重勝」

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 松平重勝は,初代・2代藩主の松平氏と家系が異なり,能見家からの出自です。ちなみに,初代・2代藩主は久松家からの出自です。

 天文18年(1549)に三河国(現・愛知県)で生まれ,27歳のときに長篠の戦いで手柄を立てます。さらに,36歳のときには小牧長久手の戦いで敵の首を討ち取るという戦功を上げています。慶長17年(1612),64歳のときには徳川家康の六男・忠輝の付家老となり,越前国蒲原郡内(現・新潟県三条市)に2万石を所領する三条藩主に拝命されます。しかし,主君の忠輝が反乱罪を犯したとして,68歳のときに2代将軍・秀忠に仕えることとなりました。そして,元和3年(1617)12月に下総国(現・千葉県)の関宿藩主として2万6千石を所領します。入封した年齢が69歳で,在任期間が3年でした。その後,遠江国横須賀(現・静岡県掛川市)に転封となり,横須賀藩主と駿府城代を兼ねることになります。

 元和6年(1620)12月14日,駿府において逝去し,駿府国西寺町(現・静岡県静岡市)の西福寺に埋葬されます。享年72歳でした。  

   註:年齢は数え年を表記しています。

(横山 仁)

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第156号(平成25年2月)             2013.2

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せきはく豆事典「江戸を歩こう『小名木川』」

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  江戸という地名は,入り江にあった戸(港)ということに由来するそうです。徳川家康が入府した頃は,江戸城のすぐ近くまで日比谷入江が迫っていました。日比谷入江の東側には,半島状に突き出した江戸前島があり,さらに東の隅田川との間にも入江が入り込み,その辺りが中世以降の江戸湊であったようです。

 家康は最初に,新しい江戸城と城下町の建設に必要な資材を運搬するための水路を開削します。江戸城と江戸湊を結ぶ運河は道三堀と呼ばれ,現在の日本橋川と一部位置が重なります。さらに行徳に通じる運河を掘って,塩の輸送路を確保しました。この運河は慶長年間(1596~1615)に拡張され,その時の任にあたった小名木四郎兵衛の名を取り,小名木川と呼ばれています。小名木川は,利根川東遷が完成すると,新川(船堀川)を経て,江戸川・利根川と結ばれました。これにより,江戸に向けて関東各地のみならず東北地方からも物資が集まるようになります。それらの物資や人々の往来を把握するために,小名木川には関所と同じ役割を持つ船番所が置かれました。番所は最初,隅田川口(深川)にありましたが,明暦3年(1657)の江戸大火以後に市中が拡大したのに伴い,中川口に移転しました。

 現在も東京都江東区を,東西に一直線に貫く小名木川。深川付近には,江戸の情緒を感じる場所もまだ残っていて,これからの季節,散歩や見学にお薦めです。

(岡田光広)

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第155号(平成25年1月)             2013.1

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せきはく豆事典「2代関宿藩主・松平忠良」

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  松平忠良は,初代関宿藩主になった松平康元の長男として,天正10年(1582)に三河国西郡(現・愛知県蒲生市)で生まれた。家柄が徳川家と深い関係にあったことから,父・康元と同じく忠良も2代将軍・徳川秀忠の「忠」の字をいただき,「忠良」と名乗った。 

 父・康元の死去により,22歳(註)のときに遺領4万石を継いで関宿城主となった。その後,33歳のときに大坂冬の陣において2代将軍・秀忠の一番隊として参戦し,翌年の大坂夏の陣でも奮戦して徳川側の勝利に貢献した。そして,大坂夏の陣の恩賞として1万石が加増され,下総国関宿(現・千葉県野田市)から美濃国大垣(現・岐阜県大垣市)に移された。また,この地において鷹狩りを許されることになった。鷹狩りとは,鷹などの鳥を使った狩猟の一種で,将軍から特定の大名にしか許されなかった特権である。

 忠良は寛永元年(1624)5月18日に死去し,浅草の大松寺に葬られた。享年43歳である。

   註:年齢は数え年を表記している。

 (横山 仁)       

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第154号(平成24年12月)              2012.12

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せきはく豆事典「醤油の生産と舟運(2)」

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 関東地方における醤油の産地は銚子・佐原などの利根川下流域で,その後,野田の江戸川流域,さらに土浦や霞ヶ浦沿岸に広がっていきます。

  銚子・野田における主な醸造者と醸造年は,銚子の田中玄蕃が元和2年(1616), 同じく銚子の浜口儀兵衛(紀州出身)が正保2年(1645),野田の高梨兵左衛門が 寛文元年(1661),同じく野田の茂木七左衛門が寛文2年(1662)です。

  銚子や野田に遅れ,土浦では享保元年(1716)に大国屋勘兵衛が醤油醸造を始めます。土浦は舟運に恵まれた土地で霞ヶ浦の後背地に良質な大豆・小麦の生産地が控えていました。後に「江戸二テモ上品トセリ」と評価されるほど上質の醤油が生産されました。

  関東地方の醤油醸造家の販路は,当初それぞれの周辺地域に限られていました。銚子や野田の醤油が本格的に江戸に供給されるようになったのは宝暦年間 (1751~1764)です。それ以前は,まだ江戸に移入された醤油の8割近くが,関西 からの「下りもの」でした。

  関東各地で醤油醸造家が増えてくると,各地で生産高や出荷に関する価格などを統制する醤油仲間が結成されました。醤油仲間は,生産過剰を抑えて品質の維持・向上に努め,下り醤油に対抗しました。文政4年(1821)に,銚子組・成田組・千葉組・野田組・川越組・江戸崎組・水海道組・玉造組の計8組の業者が集まり,関東八組醤油仲間が結成されました。文政7年(1824),関東八組醤油仲間は,鹿島講を組織し団結を深め,江戸の問屋に対して荷を送らない積留を行い,関東地廻り醤油の値上げを実現させています。

  こうした努力もあって文政5年頃には,江戸に移入された醤油約125万樽のうち,123万樽(約98%)を関東地廻り醤油が占めるようになり,下り醤油は,次第に江戸の町から姿を消していきました。

 (益子 泉)       

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第153号(平成24年11月)            2012.11

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せきはく豆事典「醤油の生産と舟運(1)」

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 醤油の生産と舟運(1)

  醤油の原型は,飛鳥時代頃に中国・朝鮮を経て伝わった「醤(ひしお)」とされています。醤には魚介類を醗酵させた「魚醤(ぎょしょう)」や,穀物を醗酵させた「穀醤(こくしょう)」などがあり,原料の点から見ても穀醤が醤油の原型に近いものであると想像が付きます。また,中国から伝わった味噌製法から偶然,溜(たまり)醤油(しょうゆ)製法が発見されたとも言われています。いずれにしても醤油は,日本独自の発展を遂げ,現在は醗酵調味料の傑作という評価を海外からも得ています。

  関東における二大醤油生産地は,いうまでもなく野田と銚子です。銚子では享保14年(1729)に江戸への集荷量が増え,宝暦3年(1753)に醤油仲間が結成されています。一方,野田は明和年間(1764~1772)から醤油醸造者が増え,天明元年(1781)に醤油仲間が結成されており,このことから,当初は銚子の方がいち早く醤油を商業ベースに乗せていたと思われます。

  二つの土地に共通する利点は,利根川・江戸川を利用した舟運です。舟運は,大量の荷物を安く運ぶことができるため,醤油産業にとって原料の仕入れや製品の出荷に最適の輸送手段であったのです。

 ◎醤油の生産

 醤油原料は,大豆,小麦,塩です。これらに麹菌,乳酸菌,酵母などによる複雑な発酵過程が加わることで,醤油独自の風味がもたらされます。

  近世の醤油は,大きく分けると溜(たまり)醤油,濃口(こいくち)醤油,淡口(うすくち)醤油の3種類です。江戸時代の初期は,醤油の主流が「溜醤油」でした。その産地は,一般に播州龍野(現兵庫県),紀州湯浅(現和歌山県),小豆島(香川県)などです。野田では永禄年間(1558~1570)に豆油から溜醤油が作られたとの伝承があります。溜醤油は,醤油の原型とも言え,原料が原則として大豆と塩のみです。

 濃口醤油は,江戸の文化が発展していく中,寛永期(1624~1644)の終わり頃,関東地方で考案されました。それまでの溜醤油は,原料から出荷まで3年を要するため,生産が需要に追いつかなくなっていました。濃口醤油は,原料から1年で出荷できた上,江戸の人々の好みに合って高い評価を得ていき,関西からの「下り醤油」を凌(しの)ぐまでに成長しました。現在も醤油の主流は濃口醤油で,生産量が全体の約85%を占めています。

  淡口醤油は寛文6年(1661)に龍野で考案されたといわれています。濃口と同じように原料から出荷まで期間が1年ですみます。淡口醤油は,野菜や魚類などの素材の味や色を生かす関西料理に合わせるため,醤油自体の色や香りが抑えられています。

 (益子 泉)     

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第152号(平成24年10月)              2012.10

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せきはく豆事典「行徳の塩(2)」

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 行徳塩が運ばれた道は,下り塩が運ばれた道でもあったのです。そして,各地方から江戸へ米を輸送した帰り荷として塩が輸送された道でもありました。

 行徳から出荷される塩は,出荷先により包装が異なっていました。「笊(ざる)」は行徳塩を江戸(東京)に出荷する際の単位および容器で,一笊には桶枡で五桶分(三斗一升五合,実際は三斗入り)の塩が入っていました。在方には米俵と同型のものに一俵につき八桶=四斗八升の塩を詰め,在方の棒手売りは四桶または六桶が入る背負い籠,遠国出荷の俵は五桶(ただし三斗)が入る角俵だったのです。また,専売へは四十斤が入る叺(かます)に塩を詰めていました。

 明治2年(1869)当時,金一両の売値での行徳塩・赤穂塩・斉田塩それぞれの量は,行徳塩=一石四斗四升,赤穂塩=一石八斗三升三合六勺,斉田塩=三石四斗五升六合だったのです。行徳塩は赤穂塩の約1.3倍,斉田塩と比べると2.4倍ある高値の商品でした。このように高価でも行徳塩が遥か遠方に販路を拡大できた訳は行徳塩の加工法にありました。行徳は安価な下り塩に対抗するため,あらかじめ苦汁(にがり)を除いて輸送中に量が目減りしない古積塩(ふるづみじお)を開発しました。

 下り塩は安価だったのですが苦汁など水分を含み,輸送中にその水分が浸み出して目減りする差塩だったのです。古積塩は藁筵を敷いた穴に生塩を入れ,雨に当たらないようその上に藁(わら)屋根(やね)を葺(ふ)き,そこに夕顔や南瓜をはわせて苦汁で生長させ,数か月から1年かけて苦汁を除く加工を施した塩でした。古積塩は高価であっても目減りしなかったので珍重されました。古積塩の開発年代は,はっきりしませんが元禄年間(1688~1703)には加工法のめばえがあったといわれています。この古積塩は,もとは行徳の地塩だけで生産し「地古積(じこづみ)」といいました。江戸末期には下り塩を買い入れて,古積に加工した「直し古積」も作るようになり,このような創意工夫により行徳塩は名声を高め,常陸・上野・下野・信濃方面へと江戸川・利根川を遡り,そのさらに上流へと舟で運ばれていきました。江戸川は行徳という産地から消費地へと舟運で繋ぐ塩の道だったのです。

 明治維新以降,輸送方法に変化が訪れました。群馬県・長野県方面には行徳河岸から東京・南千住の隅田川にある日本鉄道会社構内まで艀船(はしけぶね)で運ばれ,そこから先は鉄道で輸送されるようになりました。

 そして,生産する行徳塩田にも変化が現れました。瀬戸内十州塩より安価な台湾塩など外国塩の輸入により,行徳を始め他の全国の小規模製塩地は大きな打撃を受けたのです。そして,明治38年(1905)実施の塩専売法は,行徳塩の生産衰退に拍車をかけるものでありました。さらに,大正6年(1917)9月には台風による高潮によって壊滅的な被害を受け,その後,復興が進まず,同9年(1920)にはほとんどの製塩業者が廃業,昭和4年(1929),全国にある零細製塩地を廃する第二回製塩地整理の対象となり,産業としての行徳塩田はその幕を閉じることになりました。

 その後は,自家用として製塩する人はいたのですが,昭和24年(1949)を最後に一軒もなくなりました。

   (出典:千野原靖方 1978『行徳塩浜の変遷』 崙書房)

 (益子 泉)     

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第151号(平成24年9月)              2012.9

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せきはく豆事典「行徳の塩(1)」

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 醤油を造るにあたって、関東地方で赤穂塩、才田塩を元禄年間より一部で使用していました。他は、行徳塩などの地廻り塩によっていました。化政期になると赤穂・斉田に代表される「下り塩」に依存していました。これらの下り塩は江戸初期から廻送され、江戸の醤油問屋でも扱っていたため、地方から江戸へ運送した船に帰り荷として運んでいました。

 江戸後期の日本全国製塩高500万石中、約9割の450万石を瀬戸内海沿岸の十州製塩業は生産していました。これに比べ同時期で、行徳塩は3万7000石に過ぎなかったのです。十州塩が日本全国のほとんどを占めている中で、行徳塩は微少な生産量でした。しかし、行徳の塩は東北・関東地方の製塩業では筆頭を占め、江戸という大市場を控えいたり、幕府の保護が厚かったという好条件が特長です。

 行徳で生産された塩は、主に(【1】)行徳周辺、(【2】)江戸方面、(【3】)北関東方面と3つの販売ルートを持っていました。

 (【1】)行徳周辺は製塩業者の直売りや個人商店・棒手売りなどで、製塩業者の元に塩を買いに来る人たちに直接卸していました。

 (【2】)江戸(東京)方面へは、地廻り塩問屋が結成される享保9年(1724)以前は棒手売りや船頭によって御府内に直売りされていましたが、地廻り塩問屋結成後は棒手売りによる直売りは禁止され、地廻り塩問屋の独占販売になりました。地廻り塩問屋は御府内各所にあり、多いときで76軒、明治初期でも50軒を数えました。まず船頭が製塩業者から買いとり、小名木川を通って江戸の各所にある地廻り塩問屋に運ばれ、彼らを介して小売業者や消費者に塩が売られていました。しかし、棒手売りは規制の網の目をかいくぐって御府内にも売りに出かけ、地廻り塩問屋から訴えられることもありました。

 明治維新後は、それまでの流通機構が混乱したので、おびただしい数の棒手売りが東京に入り「行徳の椋鳥(むくどり)」などと呼ばれました。また、船頭の中には地廻り塩問屋を通さず直売りする者が現れたといいます。

 (【3】)江戸川を遡って北関東へは行徳の塩問屋を介して販売されました。行徳の地廻り塩問屋を介した行徳塩は、行徳河岸から高瀬船に荷積みされ、江戸川・利根川を遡り途中の河岸で荷揚げされ、常陸・上野・下野・信濃の各方面へと送られました。

 常陸へは利根川から北浦・涸沼・那珂川を経て黒羽河岸まで船に乗せ、黒羽からは磐城方面へと陸送されました。

 利根川下流域では土浦・水海道・龍ヶ崎・佐原・銚子にも行徳塩の売捌きがありました。

 下野へは、利根川・鬼怒川を経て阿久津河岸まで船で運ばれ、利根川支流を経て栃木で荷揚げされ、鹿沼→今市→山王峠を経て会津田島まで陸送されました。

 上野へは利根川上流の平塚河岸で荷揚げされ、伊勢崎→前橋を経て渋川で分かれて越後境の清水峠の麓まで、また同じく三国峠の麓まで運ばれました。

 上野・倉賀野河岸は船で荷物を送るのが限界とされ、ここで荷揚げされ各地へ陸送されました。

 信濃方面へは、倉賀野→横川→碓氷峠→軽井沢→小諸→上田への道、倉賀野→横川→和美峠→南軽井沢への道、倉賀野→下仁田→内山峠→佐久地方への道、倉賀野→白井→十石峠→佐久地方へ、倉賀野→栂峠→南佐久地方への道でした。

 文久2年(1862)行徳塩問屋は倉賀野・伊勢崎・川など利根川上流域の十六河岸問屋と塩船賃値上げについて申し合わせを交わしているように、これらの河岸に行徳塩は送られていた事実があります。

 また、行徳塩問屋は明治2年には11軒あった。「行徳塩仲間取極書」は遠国出しの行徳塩1俵分の重量について、上州倉賀野の河岸問屋との間で取り交わされた取り決め書ですが、ここに行徳塩行司(行事)、釜屋孫八を総代として11軒が連印しています。塩行司(行事)の行徳塩問屋を経て、行徳塩は江戸川を遡って北関東方面へ出荷されていきました。

   (出典:千野原靖方 1978『行徳塩浜の変遷』 崙書房)

(益子 泉)     

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第150号(平成24年8月)              2012.8

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せきはく豆事典「浮世絵と錦絵(その2)」

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 錦絵を扱った題材については前回記しましたが、当館で鑑賞できるのは名所風景・物産などに関連するものです。というのも、当館の展示テーマが「河川とそれに関わる産業」であり、錦絵についてもテーマに沿ったものの収集・展示となっているからです。

 まず高瀬船を描いたものとしては、歌川広重画の「諸国勝景下総利根川之図」が大きなパネルで掲示されています。高瀬船の帆は風を受けて膨らみながらも、穏やかに水面の上を進んでいます。まさに順風満帆といったところでしょうか。また葛飾北斎画の「富嶽三十六景常州牛堀」は、手前に高瀬船、遠くに富士山が見える遠近法の手法が用いられ、繊細な風景描写の中にも船頭が米の研ぎ汁を川に捨てている様子が併せて描かれ、生活感のあるものとなっています。

 次は物産に関連するものです。大日本物産図絵の「下総国醤油醸造之図」は、原料の仕込みから絞られた醤油を樽詰めにするまでの工程が描かれていますが、よく見ると醸造所のすぐ外は川で、船の一部が見えます。舟運によって醤油が運ばれ、この産業が発展したということを感じさせるものです。また「茶を製す図」では、摘み取った茶葉を製品にするまでの工程が描かれています。

 錦絵は、江戸時代だけのものではありませんでした。これまでもその題材は流行に敏感なものであり、明治時代の新しい文化に絵師たちも強い関心を抱きました。開花絵と呼ばれるものの中では、蒸気船通運丸を描いた「東京両国通運会社川蒸気往復盛栄真景之図」の色彩が鮮やかです。またパネルですが三代目広重画の「東京高輪海岸蒸気鉄道之地図」があり、蒸気機関車をはじめ和船や蒸気船などが描かれ時代の活気を感じさせます。

 当館ではパネル等を含め、約20点の浮世絵を展示しています。どの作品も、じっくりと隅々までご覧になって頂きたいと思います。これらの作品は、いずれも第3展示室で観ることができます。 

 (岡田光広)       

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第149号(平成24年7月)              2012.7

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せきはく豆事典「浮世絵と錦絵(その1)」

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 浮世絵は,江戸時代の風俗や風景を描いた絵画で,庶民の暮らしとともに発展してきました。描かれた題材には,美人画・役者絵・名所風景・物産絵・武者絵などがあり多彩です。幕末には安政2年(1855)の大地震を風刺的に描いた「鯰絵(なまずえ)」も売り出されました。

 江戸時代において,浮世絵の鑑賞のしかたは庶民的なものでした。盛り場などを中心に,江戸土産として手軽に購入でき,現代でいえばブロマイドやポスター的な感覚で楽しまれていたようです。

 浮世絵の祖として知られる菱川師宣は,17世紀前半に安房国保田(現千葉県鋸南町)に生まれました。彼の代表作である「見返り美人図」は肉筆画ですが,むしろ版本の挿絵などを多く描き,人気を博したと言われます。彼の描いた版画は,まだ色刷りではなく墨一色でしたが,明和2年(1765)になると多色摺木版画の技法が開発され,いわゆる錦のように多彩な色を持つ絵,すなわち錦絵が誕生しました。

 肉筆画と違い,錦絵は版画なので何枚でも作れ,価格的にもそう高いものではありませんでした。ただし,版木は消耗するので,制作枚数には限りがありました。

 錦絵の開発者といわれる絵師は,鈴木春信です。彼は,当時町で評判だった看板娘をモデルに,華奢な女性画を描き人気となりました。しかし,錦絵は絵師一人ではなく,彫師,摺師に加え,プロデューサー的な人もいて協同で制作されたことを忘れてはいけないでしょう。

 さて,あれほどもてはやされた美人画や役者絵も天明期(1781~1788)から寛政期(1789~1800)頃になると,写実主義が盛んになってきたことや,庶民が旅をする機会が増えてきたことなどにより,風景画に対する関心が高まりました。旅の機会が増えたことは交通の発達も大きな要因で,風景画の中には当時の交通の主役であった船が描かれるものも多く見られます。当館にも展示されている「常州牛堀」などの『富嶽三十六景』を描いた葛飾北斎と『東海道五十三次』の作者で知られる歌川広重は代表的な風景画家といえるでしょう。

次回は,当館で鑑賞できる錦絵を中心に紹介します。 

(岡田光広)        

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第148号(平成24年6月)              2012.6

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せきはく豆事典「初代関宿藩主・松平康元について」

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 松平康元は,天文21年(1552)に尾張国(現・愛知県)知多郡阿古居で生まれました。父は久松俊勝,母は徳川家康と同じくお大の方です。当初,久松勝元と名付けられていましたが,9歳のときに家康から「松平」の称号と「康」の字を与えられて「松平康元」と改名しました。

 当時は戦国の世で,康元が成人すると家康のために各地へ出陣し,参戦していきました。21歳のときには三方原の戦,24歳のときには長篠の戦,28歳のときには高天神の戦,33歳のときには小牧長久手の戦,39歳のときには小田原攻めに加わり,数々の手柄を立てました。その甲斐あってか,天正18年(1590)に家康から下総国(現・千葉県,茨城県)葛飾郡内に領地2万石をもらい,関宿城主となりました。

 翌年,陸奥国九戸(現・岩手県)で一揆が起こり,康元は騎兵150人,歩兵1,000余人を率いて下野国(現・栃木県)小山に出陣しました。家康はその軍勢の多さに感動し,本多忠勝,井伊直政と一緒に先陣に参列させました。凱旋後,下総国内に領地2万石を加増され,合わせて4万石を所領しました。さらに,この年に従五位下,因幡守を叙任しました。

 母・お大の方が伏見城で亡くなると,母を弔うため慶長7年(1602)8月,関宿に一寺を建立し,「弘経寺(ぐぎょうじ)」と命名しました。しかし,家康の命令により,寺名を「光岳寺(こうがくじ)」と改めることとなりました。現在も,この寺は末永く守られています。

 康元は,慶長8年(1603)8月14日に関宿でなくなります。享年52歳でした。埋葬されたところは,康元が創建した関宿にある宗英寺(そうえいじ)です。関宿藩主は23代続きますが,地元・関宿で眠っているのは康元,ただ一人です。

   (奥原経営『関宿町誌』より)

(横山 仁)

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第147号(平成24年5月)             2012.5

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せきはく豆事典「日光東往還(3)~今に残る松並木~」

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 野田から関宿に向かって行くとかつては,二川地区柏寺の道の両側に見事な松並木があった。そして,真夏でも涼しい木陰をつくっていた。(この様子(昭和50年初め頃)を金子勝一氏が撮影した写真を当館2Fに常設展示している。)

 しかし,現在では大部分が枯死し切り倒され,並木としての形態は全く失われ,ぽつん,ぽつんとわずかに残るのみで,注意していないと見過ごしてしまう程になってしまった。現在(平成24年5月25日)では,ここ二川地区での松並木の大木は3本のみである。それは,関宿幼稚園近くに1本,二川小学校の敷地内の道路側に2本である。最近までは4本あった。関宿幼稚園近くの1本が,今年4月3日の夜に強風で倒れてしまった。

  現在,ライオンズクラブ等地元の方々の手で若木が植えられ,一度失われた歴史的景観を再び復活しようと努力されている。

 日光東往還筋には,「五街道分間延絵図」で調べると二川地区以外にもいくつかの松並木があったことがわかる。中でも,境町の宿はずれより始まる松並木は,次の谷貝・仁連町を過ぎ諸川町まで,およそ二里三十町(約11.3Km)にわたり街道の両脇に延々と続き,日光東往還随一の長さを誇る並木となっている。一方,野田市の市街地においては,中根から宮崎にかけて,街道に松並木があったようである。

 現在でも,これらの所に若干の名残の松が数本ぽつん,ぽつんと立っている。

   【出典:木原徹也著「日光東往還」ふるさと工房刊】      

(益子 泉)

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第146号(平成24年4月)              2012.4

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せきはく豆事典「日光東往還(2)~日光道中の脇道~」

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  日光東往還は,江戸時代に道中奉行が調査を行い文化3年(1806)に完成した「五海道其外分間見取延絵図」によれば,街道の正式名称は「関宿通多功道」という。水戸街道の向小金新田付近より分かれ,最初の宿場が山崎宿(野田市山崎),次いで中里宿,関宿宿,さらに利根川を渡り境町,結城町へと北方へ通じ,日光東往還最後の宿である多功宿(栃木県上三川町)を経て日光道中の雀の宮宿(宇都宮市)に合流した。本街道の日光道中の東側をほぼ並行して走る脇往還であり,この間10宿・20里34町(約82.3Km)の道のりであった。

 この街道のうち,境町より諸川までの道は鬼怒川の舟運と結ばれて,東北・北関東の物資を江戸に送る重要なルートとして,既に江戸時代初期には利用されていたとみられる。

 しかし,関宿から南の山崎宿を経由して水戸街道の小金町へ通ずる道については,残念ながら徳川家康の会津討伐に関した伝説以外は古い時代の事はよく分かっていない。

 しかし,中世からの主な道路は洪水被害の多い不安定な低湿地を避け,低地に接した台地を通るのが普通であった。例えば中世の鎌倉街道のひとつは,武蔵野台地上の川口,鳩ヶ谷,岩槻,幸手を通っている。後の日光道中が通る埼玉県東部の低湿地が本格的に開発されたのは,利根川の東遷をはじめ諸河川の改修が済んだ後であった。

 したがって江戸時代初期に有力な大名が配された小金・山崎・関宿を結んだ台地上の道は,古くから重要なものだと思われる。しかしその後徳川幕府は,重要な街道として東海道その他を五街道と定めたが,その中には日光東往還は入らなかった。

 道中奉行が支配した五街道には,2~3里ごとに宿場が設けられ,宿場役人を定め常備の人馬を用意し,幕府役人などの公用旅行者や荷物を次の宿場まで継送る伝馬の制度が整えられており通行者も多く賑わいをみせた。  しかし,現在まで地元には”日光街道”の名称が残り,幕府が定めた関宿通多功道の名称が残らなかったのは余程日光へ通じる道の印象が強かったからであろう。事実,近郷近在の人々が将軍の大行列を見物に出かけた日光社参があると,日光東往還は将軍の日光滞在中に日光山内の要所を警護した「日光山勤番」と呼ばれた大名達の行列が相次いだ。現在の流山・柏付近は「上様日光御参詣二付,警護の大名日光東海道小金御通行……此大名四月九日より十二日迄御通行被成,右二付大畔新田市野谷新木戸抔江者商人共小屋掛致,尤見物の男女夥敷,右日数ハ昼夜馬士唄無限,東海道二モ勝リ候程二御座候」と,大勢の見物人目当てに小屋掛けの出店ができ,日光東往還を往来する馬子唄が一日中聞こえ,東海道にも勝る賑わいだったと記録されており,華々しい歴史の舞台に登場した。 

   【出典:木原徹也著「日光東往還」ふるさと工房刊】      

(益子 泉)

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第145号(平成24年3月)              2012.3

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せきはく豆事典「日光東往還(1)~正式名称は~」

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 古くから地元では“日光街道”などと呼ばれてきた野田地方を通る旧街道の名称は日光東往還や関宿多功道,久世街道といわれどれが正式名称なのか。また,それぞれに呼び方には理由があるものと思われる。

 天正18年(1590)の家康の関東入国のとき,現在の日光東往還筋には家康にゆかりの深い大名が封ぜられた。家康の5男で甲州武田家の名跡を継ぎ小金(千葉県松戸市)に在った武田信吉は文禄3年(1594)に下総佐倉へ5万石で移封となり,下総山崎(野田市)に在った岡部長盛は在封20年後の慶長14年(1609)に3万2千石に加増のうえ,丹波亀山(京都府亀山市)へ移封となる。その後,これらの地には大名が封ぜられることなく廃された。そのためか日光東往還は参勤交代の大名がにぎにぎしく往来する重要な街道とはならず,幕府道中奉行の支配する五街道には加えられなかった。

 ただ地元では,この街道はその後も生活道路として大切な道であったらしく,街道沿いの旧村々に残された絵図などの中に日光東往還に相当する道を見い出すことができる。例えば「正徳四年(1714)伊奈半左衛門様へ指上候絵図」との添書のある「下総国庄内領霞絵図」には,日光東往還のうち,現在の野田市中根付近から野田市宮崎付近に至る野田市役所庁舎前を通る道が,真っ直ぐな幅の広い道として描かれており,かたわらには「道通松御並木」とあり当時既にこの間の日光東往還には松並木が植えられていたようである。そしてこの道は,野田市をはじめ地元では日光へ通ずる道としてずっと認識されていたようである。街道沿いの旧村々の江戸時代の記録には日光街道や,日光東往還の他に”東日光街道,日光東道中,日光東遷道”など様々に書かれていた。これら地元に伝えられた街道名はいずれも”日光”という名称が入り,よほど日光への道として印象が強かったものと見られる。

 地元ではこのように日光街道などと古くから呼ばれてきたが,地方を通る脇往還のひとつであるため正式の定まった名称は無かったと思われていたが,意外にも徳川幕府はこの街道に正式な名称を付け,重要な道として扱っていることが分かった。

 それは幕府の道中奉行が総力を挙げて作製した「五海道其外分間見取延絵図」の中に,東海道,中山道などの五街道とともに日光東往還に相当する道が「関宿通多功道」として収録されていた。この絵図は道中奉行がその支配下の五街道はもちろん,全国の主要街道について寛政年間(1789~1800)に実地踏査を行い,精細な絵図として文化3年(1806)に完成した公式な記録であり「関宿多功道」

 というのが幕府が定めた日光東往還の正式名称である。

 また,江戸時代関宿藩に久世氏が長く居城したことから”久世街道”あるいは ”関宿道”等と呼ばれる場合もあった。

   【出典:木原徹也著「日光東往還」ふるさと工房刊】      

(益子 泉)

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第144号(平成24年2月)                2012.2

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せきはく豆事典 「六斉船」

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 六斉船は月に6回関宿・江戸間を定期的に運行していた旅客専用船である。六斉船は関宿関所(番所)の下手・関宿向下河岸から出航したといわれ,ここに野村勘兵衛,木村清左衛門という両船宿があり,江戸への旅客船を出していた。他にも境河岸からも出ていた。船は高瀬船で,各船宿には5~6艘くらい用意されていた。いつも日暮れに出航し途中の河岸(東宝珠花,野田,流山,松戸,市川,行徳)に一切立ち寄らないで,関宿から江戸へ直行し,江戸の両国へ着くのが翌日の正午頃であったという。乗客数は,安永9年(1780)の9,430人が最も多い記録という。1艘には多い時で,40人前後,少ない時は10人程度と想像される。

 関宿・江戸の陸路は徒歩で1日の行程である。それは,若者や足が達者な者にとってのことで,老人や達者でない者には六斉船は便利であった。 六斉船は明治10年前後に廃止されたと見られる。明治2年に関所が廃止されて,検問が無くなったためわざわざ関宿で船を乗り換える必要がなくなったことにもよる。

 また,船宿の木村清左衛門は明治14年に東京に移転した。野村勘兵衛は,明治10年頃に発足した内国通運会社へ吸収合併されたという。創始から廃止まで約230年間江戸と関宿を往復した。明治23年の利根運河完成。また,同21年に東京・宇都宮間の鉄道開通,同27年の総武線,同29年の常磐線,同30年の成田線が開通し関東地方の陸上交通網は整備拡充されていった。利根運河完成により,関宿経由の高瀬船は姿を消していった。10里以上の航路の短縮で船舶は関宿を遠ざかった。この関宿関所の急流遡航を補助して賃金を得ていた関所台詰の船夫は収入減の大打撃を受けた。

(益子 泉)

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第143号(平成24年1月)                2012.1

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せきはく豆事典 「三軒家の鬼門除稲荷」

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 関宿城の鬼門にあたるところから,鬼門除け稲荷として建立されたものであると伝えられている。すぐ隣りに千葉県最北端の地点を示す三角点がある。関宿に稲荷神社が多いのは,藩主が城内に祀り,各地に分社したのかもしれない。この社の隣りに「天神様」の碑がある。このことに関係する話がある。明暦3年(1657)1月18日江戸で大火があり(明暦の大火=振袖火事といわれる),その復興のために久世広之が幕府より普請惣奉行を命ぜられた。その時,広之は亀戸天神を江戸繁栄のために建立している。広之は江戸の復興の役目を果たし関宿に帰る時,関宿城の鎮守として菅原神を祀り,二の丸に社を置きこれを天神郭といった。

(益子 泉)

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第142号(平成23年12月)               2011.12

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せきはく豆事典 「地名『三軒家』について」

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 当館の住所は三軒家という地名です。その昔,「久世大和守広之」というお殿様が関宿城藩主に着任した時,側用人の松尾・植竹・大島の三家族をこの場所に住まわせたところから「三軒家」という地名が誕生したそうです。

 その頃,この辺りは大変な雑木林や荒地でしたが,広之が3人に「この地30町歩を与えるから開墾して農作物などを作りなさい」と仰せ,3人は家族とともに毎日,毎日せっせと木を切り倒し,雑草地を開墾し10町歩ずつ三等分しました。そして,三家族の主人たちは,毎日昼間は関所札場に勤めることになり,利根川,逆川を行き交う大小の船の数量などを調べる役目に当たっていたそうです。今でもこの3軒の家名の家は存在します。

(益子 泉)

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第141号(平成23年11月)              2011.11

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 せきはく豆事典  「猿島茶の躍進」

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 猿島茶が江戸市場に進出するようになると,関宿藩は特産物である猿島茶の専売制に着目し,嘉永6年(1853)に江戸箱崎の上屋敷において関宿藩物産会所を創設した。その経営を任されたのが,矢作村(現・茨城県坂東市)の富山三松・境町(現・茨城県境町)の初見和三郎・辺田村(現・茨城県坂東市)の中山元成・藩吟味役の大久保晋輔・金主(資金を出してくれる人)として出資した浅草花川戸の鈴木藤郎である。

 従来,関宿藩の領内で製茶された猿島茶を諸国に販売する場合は,茶問屋仲間を通して取り引きするか,個別的に茶商と取り引きしていた。しかし,関宿藩物産会所の設立後は,猿島茶を始めとする領内の産物が全てそこに集荷され,関宿藩物産会所が商人に代わって取り引きをする仕組みになった。

 『嘉永六年関宿藩産物会所茶荷物諸掛り調上帳』の記録によると,関宿藩物産会所は嘉永6年(1853)に約169両(1,690万円)の収入を得たが,関宿藩の予想に反して収益は低かったようである。

 黒船の来航により,日本国中が不安と動揺で騒いでいるとき,中山元成は安政4年(1857)に伊豆国下田(現・静岡県下田市)の玉泉寺で米国総領事・ハリスの秘書ヒュースケンに猿島茶を見せ,売り込みの交渉を試みた。しかし,交渉は不調に終わってしまった。

 翌年,日米修好通商条約が締結されると,横浜が開港され,外国との自由貿易が始まった。そして安政6年(1859)に,中山は米国ポール商会の貿易主任・阿星(あせい)と商談し,猿島茶の売り込みに成功するのである。

 その後,猿島茶は海外でも好評を得,日本において重要な輸出品の一つとなった。もちろん,生産地である猿島地方は活況を呈し,めざましく発展していった。

 文久2年(1862),関宿藩は猿島茶の集荷所である茶会所を領内の関宿(現・千葉県野田市)と境(現・茨城県境町)に開設した。そして,慶応元年(1865),岩井(現・茨城県坂東市)にも設置し,関宿・境・岩井で集めた猿島茶を江戸箱崎の関宿藩物産会所へ輸送するようにした。その積出港となったのが境河岸(現・茨城県境町)と長谷(ながや)河岸(現・茨城県坂東市)である。

 一方,猿島茶の需要が飛躍的に伸びて,価格が高騰したことを良いことに,製茶業者の中に粗製濫造を行い,暴利をむさぼる者が現れた。その結果,国内外からの信用を失墜することになってしまった。また,佐幕派・勤皇派の抗争によって国内の社会や経済が混乱し,百姓一揆が各地で頻発していた。このような状況が将来,茶価の暴落を招く原因となったのである。

(横山 仁)

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第140号(平成23年10月)               2011.10

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せきはく豆事典 「猿島茶と茶検地」

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 徳川家康の全国統一により江戸幕府が開かれると,江戸は飛躍的に人口が増加し,大消費地として繁栄していった。それに伴い,江戸では米・野菜などの農産物や家を建てる材木の需要が高まった。また,各地で生産される特産物の需要も高く,関宿藩の特産物である猿島茶も例外ではなかった。そこで,関宿藩は農民に猿島茶の栽培を奨励するとともに,領内において茶検地(畑の茶に税を課すためにおこなわれる調査)を実施し,猿島茶を課税の対象とした。(萬治元年閏十二月六日 指上申一札之事 -茶検地-(中村家文書,寛文十三年五月 桐ヶ作村茶改帳(個人蔵)))  猿島茶は当初,茶専用の茶園で栽培するというよりも畑の周囲に植える畦畔茶としての栽培が多かったので,課税の方法は面積ではなく,長さで取り決めていた。つまり,「茶株1間につき税がいくら」というふうにである。関宿藩は茶永(茶に課せられた年貢)の税率をほかの畑作の年貢よりも高く設定したので,茶永が関宿藩の収入の多くを占め,藩の財政を支えていた。そのため,関宿藩は面積の狭い畦畔茶の栽培から面積の広い茶専用の茶園栽培へ拡大するように奨励した。

(横山 仁)

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第139号(平成23年9月)                2011.9

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せきはく豆事典 「製茶法の改良」

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 当初,猿島茶の製茶法は蒸した茶葉を日光で乾燥させるという「日乾法(にっかんほう)」であったため,品質が粗悪であった。そのため,江戸の茶商たちには不人気で,専ら得意先が武州(現・埼玉県)・上州(現・群馬県)・信州(現・長野県)方面であった。しかも,製茶した猿島茶の値段は安く,茶永(茶に課せられた年貢)を差し引くと採算がとれない状況にあった。

 そのような状況下,天保5年(1834)辺田村(現・茨城県坂東市)の中山元成が江戸に出向いて山城国宇治(現・京都府宇治市)出身の茶師・多田文平を招き,製茶法の改良に取り組んだ。それは宇治茶伝統の製法である「焙炉法(ほいろほう)(蒸した茶葉を焙炉で乾燥させ,揉み上げる方法)」により,香味に優れているものを製茶することであった。さっそく,中山は江戸の茶商たちに売り込もうと,「焙炉法」で製茶した73貫(273.75Kg)の猿島茶を持ち込み,茶商の山本嘉兵衛や大橋太郎次郎たちに試飲してもらった。ところが味は苦く,青臭いと酷評され,1貫500匁(5,625g)で1両(10万円)という値段に付けられた。しかし,江戸の茶商たちからは「茶園を培養すれば必ず銘茶になる」と励まされ,製茶法ばかりでなく,肥培の管理や茶摘の仕方にも注意を払い,良質な猿島茶の生産を目指して努力を重ねていった。

 時を同じくして,山崎村(現・茨城県境町)の野村佐平治も天保の飢饉によって貧困にあえぐ農民の救済策として猿島茶の改良に取り組んだ。天保9年(1838),野村は江戸日本橋の茶商・山本嘉兵衛を訪ね,当時高値で取引されていた宇治茶の栽培と製茶法について教えを受けた。その教えは製茶法ばかりでなく,栽培における肥培管理のことまで詳細に及んでいた。その後,野村は山本の教えを忠実に守り,試行錯誤を重ねながら宇治茶に近い猿島茶を作り上げた。そして,江戸の茶商・古木屋佐平の店に「江戸の花」という茶銘で販売したところ,一気に評判となった。ちなみに,この時の販売価格は1貫(3,750g)につき銀50匁(約8万3千円)である。

   (註) 猿島地方の茶問屋仲間は,茶価の下落を恐れて天保8年(1837)に『茶問屋仲間議定書』を作成し,茶問屋仲間を通さない茶の取引を締め出そうとしていた。しかし,野村佐平治はこの時,茶問屋仲間を通さないで,古木屋佐平と直接取引をおこなったのである。

(横山 仁)

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第138号(平成23年8月)                2011.8

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せきはく豆事典 「猿島茶と茶検地」

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 徳川家康の全国統一により江戸に幕府が開かれると,江戸は飛躍的に人口が増加し,大消費地として繁栄していった。それに伴い,江戸では米・野菜などの農産物や家を建てる材木の需要が高まった。また,各地で生産される特産物の需要も高く,関宿藩の特産物である猿島茶も例外ではなかった。(注1)そこで,関宿藩は農民に猿島茶の栽培を奨励するとともに,領内において茶検地(畑の茶に税を課すために行われる調査)を実施し,猿島茶を課税対象とした。(注2)

 猿島茶は当初,茶専用の茶園で栽培するというよりも普通の畑の周囲に植える畦畔茶の栽培が多かったので,課税の方法は面積でなく,長さで取り決めていた。つまり「茶株1間につき税がいくら」というふうにである。茶永(茶に課せられた年貢)は税率がほかの畑作物の年貢よりも高かったので,茶永が関宿藩の収入の多くを占め,藩の財政を支えていた。そのため,関宿藩は茶苗の植え付けを増やすように強制したり,面積の狭い畦畔茶の栽培から面積の広い茶専用の茶園栽培へ拡大するように奨励した。

注1 当初,猿島茶は製法の技術が未熟で粗悪品であったため,専ら上州や信州方面に供給されていた。しかし,江戸時代後期になると製茶の技術改良によって品質が向上し,江戸の茶商たちと取引され,大都市・江戸へ供給されるようになった。

注2 関宿藩領において茶検地を記した古い記録には,正保4年(1647)の『上出島村茶検地野帳』と,明暦4年(1658)の『矢作村茶園検地帳』がある。前者は7代藩主・牧野信成,後者は10代藩主・板倉重郷のときに行われている。

(横山 仁)

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137号(平成23年7月)                 2011.7

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せきはく豆事典 「活用が広がるお茶」

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 お茶の製品といえば、やはり飲料用のお茶です。全生産量の98.5%が緑茶の飲料用に加工(出典;農林水産省統計部「作物統計」)されます。最近は茶葉を利用した新製品や葉の成分のカテキンや抗菌作用を利用した製品が生み出されています。例えば、カテキンや抗菌作用を利用した物では、衣料品、タオルやサンダル、石鹸、エアコンのフィルター、臭いを利用したマッチ、コーラ、チョコレート、線香、化粧品といったものが開発されています。お茶のコーラは、今年の5月に発売されたばかりだそうです。また、マッチは茶殻の処分に困ることやマッチの硫黄分を少なくしたいことから製品化したそうです。いろいろと考える人がいるのだと感心させられます。

(益子 泉)

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136号(平成23年6月)                 2011.6

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せきはく豆事典 「お茶にかかわることわざ」

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 当館にて平成23年度企画展『猿島茶と水運-江戸後期から明治期を中心に-』(10/4~11/27)を開催します。その企画展にあわせてお茶に係わる事象を取り上げています。

 「茶」が入ることわざやことばはたくさんあります。その中からやはり古くから日本人になじみがあるお茶という感想を持つことわざを2つ紹介します。

【日常茶飯】・・・・(お茶は毎日飲むものだから、毎日の食事の意から)毎日のありふれた事柄。

【お茶の子さいさい】・・・物事が簡単に解決できる時や何の問題もない時に使う。  「お茶の子」・・・お茶と共に頂く軽食(あるいは茶菓子)のことで、昔は朝食の前にお茶と軽食を食べてからひと仕事し、それから朝食をとった事から「朝食前の軽いもの」という意味が込められている。同じようなことばに「朝飯前」と言う言葉もあります。  

「さいさい」・・・囃子ことばです。 やはり日本人は昔から日常生活の中でお茶とは切れない生活をしていたのだと思います。

(益子 泉)

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第135号(平成23年5月)                  2011.5

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せきはく豆事典 「お茶にこだわる猿島茶」

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   日本では,北は秋田県から南は沖縄まで広範囲でお茶が栽培されている。そのほとんどは緑茶になる。昭和40年代までは各地で紅茶が生産されていたが,品質・価格面でインド・スリランカに太刀打ちできなかった。またウーロン茶ブーム(昭和54年から昭和60年)の時に,各地でウーロン茶の製造を試みたが紅茶同様に思わしくなかった。このような経緯がある中で現在でも猿島茶製造業者の中には,茨城県産の茶葉だけでウーロン茶を製造している業者がある。

(益子 泉)

 

 

 

 

第134号(平成23年4月)                  2011.4

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せきはく豆事典 「今に引き継ぐ猿島茶」

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 千葉県東葛飾地方の野田・流山・柏の市内小中学校の中では,現在も4月下旬から5月上旬にかけて,校内お茶摘み会を実施している学校がある。野田市内では,宮崎小学校等の数校の小学校で今でも実施している。柏市立田中中学校では,生徒が近隣の家々に出向き,屋敷の生垣や畑の畦畔の茶摘みを行っている。また,その摘んだ茶葉の加工は,猿島(板東市)の製茶業者にお願いしているとのことである。実施している多くの学校は,利根川近辺の学校が多い。30年ぐらい前には多くの学校でこの茶摘みを実施していたが,東葛地区の農地の宅地化や農家の減少,さらに学校の多忙化や授業時数の関係から削減するようになり学校行事としての茶摘みも廃止する傾向になってきた。

(益子 泉)

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関宿城博物館