一方で農展に出品し、同8(1919)年には商工省工芸展の審査員となり、その後帝展の工芸部設置に尽力し、審査員を務めます。
大正12(1923)年に文部省より留学の命を受け、フランス、イタリア、ドイツ、イギリスなどを歴訪し、同14(1925)年にパリで開催された「パリ万国現代装飾美術工芸博覧会」の審査員を務めます。
大正14年に帰国し、ヨーロッパの新思潮について東京美術学校の教え子の高村豊周などの若い工芸家たちに教示し、大きな影響を与え、同15(1926)年、新しい工芸を模索する「无型」(むけい)が結成されます。
帝展に工芸部の設置のため香取とともに尽力し、昭和2(1927)年の設置後は、委員、審査員を務めます。昭和10(1935)年、香取とともに帝国美術院会員となっています。
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