近現代の治水・洪水

水塚(みづか)

水塚(みづか)水塚とは、一般に洪水の際に避難するため、屋敷内にあらかじめ築き上げられた土盛りや、その上に設けられた建物を総称します。
水塚と同様の機能を持つ建造物は、木曽三川流域や淀川流域、信濃川流域などにも見られ、水屋(みずや)、水倉(みずくら)などの呼び方があります。日本の場合、大河川の中・下流域においてはほとんど水防の目的で設置されています。
いったん洪水が起こると、人々は長期にわたって水塚に避難しなければならないことが多く、そのため建物内には避難生活に必要な日用の生活用具や非常用の食糧などを収納していました。
関宿周辺の水塚の場合、土盛りは3~4m程度のものが多く、また建物は通常2階建てで、1階には米俵や味噌樽などの食糧、2階には布団、ちゃぶ台、衣類を入れた長持ちや行李(こうり)などの生活用具が置かれ、時には母屋の仏壇なども滑車を使って引き上げる工夫が施されました。

関宿水閘門(せきやどすいこうもん)

関宿水閘門(せきやどすいこうもん)明治四十三年の洪水を契機に改訂した利根川改修計画の一環として、江戸川においても全川にわたる高水工事が実施されることになりました。
関宿水閘門の建設は、江戸川流頭部における流量・水位調節を目的としたもので、江戸川改修工事の主要事業の一つです。工事はまず、新低水路を掘削した後、大正七年(1918)、低水路に仮締め切りを設け、水門と閘門の工事に着手しました。
水門はディーゼルエンジンによって昇降する8門のゲートを備え、1門幅25尺(7.6m)、高さ15尺(4.5m)で、利根川と江戸川の分派量を調節する役目をもつものです。閘門は船舶の航行を可能にするために水位を調節する役目をもち、合掌式の門扉4枚を備え、開閉は人力でした。
水閘門は昭和二年(1927)に竣工しました。これによってそれまで江戸川流頭部の水量調節を果たしてきた関宿棒出しは撤去されました。 

所在地 茨城県猿島郡五霞町山王
問い合わせ 電話0471-25-7311(国土交通省江戸川河川事務所)

カスリーン台風

カスリーン台風敗戦からまだ間もない昭和二十二年(1947)九月、マリアナ海域で発生した11号台風で、関東地方を中心に各地で記録的な雨を降らせました。このため利根川などの河川が氾濫し、甚大な被害をもたらしました。
同年九月十五日の夜半、埼玉県大利根町付近の利根川堤防の決壊により、濁流が久喜・杉戸・栗橋・幸手・春日部・庄和・越谷など埼玉県東部市街を襲いました。その後濁流は葛飾区から首都東京へと押し寄せました。
流出家屋23,736戸、半壊家屋7,645戸などの被害をもたらすとともに、1,057名もの尊い生命が犠牲となりました。

利根川の築堤工事

利根川の築堤工事明治に入り、我が国でも蒸気による土木工作機械を用いられるようになりました。河川改修においても次第に掘削や運搬のために機械が導入されるようになりました。それでもなお多くの場合、相変わらず人手による作業が必要とされ、特に築堤工事の際には土運搬や地固めに現場周辺の農家などから多くの人員が動員されました。
利根川改修工事では当初、土運搬の方法として土手に軌道を敷き、人力で木製の土運搬車を走らせましたが、次第に運転距離が延びてきたので大正4年以降は20t機関車を用いるようになりました。
堤防の築造には土羽打ち棒を用い、突き固めには地突石が使われました。また、杭打ちには大型のやぐらを組み、人力で縄を引いて作業を行いました。このような作業風景は昭和に入ってからも見られ、利根川流域各地に土羽(どは)打ち唄など当時の作業唄が残っています。

利根運河

利根運河かつて利根川・江戸川間を航行する船は、両川が分岐する関宿を経由しなければならず、また、鬼怒川合流点までの利根川には浅瀬が多いため、渇水時には航行が困難という問題がありました。
利根運河計画はこれらの問題を解決するものとして、茨城県北相馬郡選出の県会議員広瀬誠一郎が当時の茨城県令人見寧(やすし)らに陳情し、人見がこれを受けて推進しました。
利根運河の設計に当たったのがオランダ人技師ムルデル等で、工事は明治二十一年(1888)に開始され、翌々年に竣工しました。
利根運河の開削によって、関宿を経由して東京に向かっていた船は航路をこれまでより38kmも短縮し、日程も3日を1日に短縮することができました。
明治後期から大正時代にかけて隆盛をきわめた利根運河も、その後の鉄道の発達や道路の整備拡充により通船は減少の一途をたどり、昭和16年にはその役割を終えました。現在は洪水調節水路(派川利根川)となり、水辺が親水公園として整備され、桜の名所にもなっています。