関宿藩と関宿

関宿城

歴史

関宿城長禄元年(1457)、古河公方足利成氏の有力家臣簗田成助が水海城(茨城県古河市)から関宿に移って築城したのが関宿城の始まりと伝えられています。以来簗田氏の居城となった関宿城は、「抑彼地入御手候事者、一国を被為取候ニも不可替候」(喜連川文書)と象徴されるように、後北条氏が北関東へ勢力を伸ばす上で戦略的拠点でした。天正二年(1574)に簗田氏が関宿城を開城し、その後は後北条氏の支城として戦略上重要な前線基地となりました。
天正十八年(1590)、松平康元(徳川家康異父弟)の入城が関宿藩の始まりで、以後江戸幕府は代々ここに譜代大名を配してきました。藩主は八家二十三代にわたっていますが、なかでも久世氏の治世が最も長く、老中などの要職に就き幕府内で重要な地位を占めました。また、川越城や佐倉城などとともに江戸城防衛の重要拠点であり、利根川水運の中継地点に位置していたことから、幕府は関宿城をとても重要視していました。
幕末になると関宿藩内は勤皇・佐幕派に分裂し、波乱の中で明治維新を迎え、明治四年(1871)の廃藩置県で関宿藩が廃止されました。翌年には新政府の方針で関宿城の廃城が決定されました。数年のうちにすべて取り壊され、ここに400年余りに及ぶ関宿城の歴史に終止符が打たれました。

関宿城の配置

関宿城はかつて利根川と江戸川を結ぶ逆川に面した位置にありました。城を囲むように流れるこれらの川は自然の外濠の機能を有していました。しかし平地に立地した平城であったため、城内への水の流入を防ぐ土塁を周囲に築いたものの、度重なる洪水に悩まされました。
主郭には本丸、二ノ丸、三ノ丸、発端曲輪(はったんくるわ)、天神曲輪が配置されました。本丸の北西隅に御三階櫓(おさんかいやぐら)と呼ばれた天守閣があり、本丸を取り囲む二ノ丸や三ノ丸、各曲輪には上級家臣の屋敷や武器蔵・厩(うまや)などが置かれました。
桜町通りや小姓町通りが縦横に走る外郭には家臣団屋敷や関宿関所の役人の屋敷が置かれました。

関宿城跡の発掘

関宿城跡の発掘旧城内は現在、本丸跡の一部、内濠、二の丸跡、三の丸跡、発端(はったん)曲輪(くるわ)跡、武家屋敷跡等が残っています。
千葉県教育委員会では当館建設に伴い、旧城内の規模や遺構の状況を把握する目的から昭和六十一~六十三年度にかけて城内の発掘調査を行いました。
その結果、本丸跡では本丸を区画する石積みが約6mの長さで見つかりました。三の丸跡では柱穴列(ちゅうけつれつ)の比較的大型の建物跡のほか、火縄銃の弾丸104個も出土しました。武家屋敷跡では10数棟の建物跡、井戸跡などを調査しました。このほか、城郭を囲む土塁(どるい)跡を確認しました。
出土品の中には建物に使われた瓦類、飲食用の陶磁器類、照明用の灯明皿、煙管(きせる)等があり、これら全てが当館で保管されています。

関宿藩について

久世(くぜ)鷹の羽の紋について

久世鷹の羽この紋は、江戸時代に関宿藩主であった久世(くぜ)氏の家紋です。久世氏は十二代久世廣之(1669年)から二十三代廣業(1869年)の明治の廃藩置県に至るまでの間十代(二代は牧野氏)にわたり藩主を務めました。この紋が「久世鷹の羽」と呼ばれ、丸に並び鷹の羽に斑点のあるのが特徴です。
鷹の羽紋-鷹は武威のしるしとして武将の間に好まれました。鷹紋は日本ではもっとも多用され多くのパターンを生みましたが、そのほとんどは実形ではなく、羽をもってシンボライズしています。
江戸時代、徳川幕府は江戸の外城の1つとして、関宿藩には代々譜代大名を配した重要な場所でありました。藩主は八家二十三代にわたっていますが、なかでも久世氏の治世が最も長く、老中などの要職に就き幕政にも重要な地位を占めました。
幕末になると関宿藩は勤皇、佐幕派に分かれ、波乱の中で明治維新をむかえました。

関宿藩の変遷

関宿藩の起こりは、天正十八(1590)年に徳川家康が関東入国の際に、異父弟の松平康元に2万国を与え関宿城主としたことに始まります。
関宿藩は、東北外様諸大名に対する備えや関宿関所(水番所)の管理等と重要視され、幕府は小笠原氏、牧野氏、板倉氏など有力な譜代大名を配してきました。なかでも久世氏の治世が最も長く、幕末まで九代の藩主を数え、老中をはじめとする幕府の要職を歴任し、幕政に深く関わりました。
明治二(1869)年の版籍奉還を経て、明治四(1871)年の廃藩置県により関宿県が置かれ、関宿藩は廃止されました。

藩主一覧

初代 松平康元

在城主期間 天正十八年(1590)~慶長八年(1603)
死亡年月日 慶長八年八月十四日(1603年)
年齢 52
墓所所在地 関宿宗英寺関宿町台町57

二代 松平忠良

在城主期間 慶長八年(1603)~元和二年(1616)
死亡年月日 寛永元年五月十八日(1624)
年齢 43
墓所所在地 東京浅草 大松寺台東区西浅草1-1(浅草郵便局裏)

三代 松平重勝

在城主期間 元和三年(1617)~元和五年(1619)
死亡年月日 元和六年十二月十四日(1620)
年齢 72
墓所所在地 駿府 西寺町 西福寺

四代 小笠原政信

在城主期間 元和五年(1619)~寛永十七年(1640)
死亡年月日 寛永十七年七月二十日(1640)
年齢 34
墓所所在地 関宿 総寧寺
後(寛文三年1663)寺は市川の鴻ノ台に移り改葬する。
市川市国府台3-10

市川市総寧寺に小笠原政信夫婦供養塔2基(市指定建造物)

五代 小笠原貞信

在城主期間 寛永十七年(1640)~寛永十七年(1640)
死亡年月日 正徳四年六月十七日(1714)
年齢 84
墓所所在地 東京 浅草 海禅寺台東区松が谷3-3-3

貞信幼少のため10日余りの在城期間で終わる

六代 北条氏重

在城主期間 寛永17年(1640)~正保元年(1644)
死亡年月日 萬治元年10月1日(1658)
年齢 63
墓所所在地 上嶽勝願寺静岡県袋井市

七代 牧野信成

在城主期間 正保元年(1644)~正保四年(1647)
死亡年月日 慶安三年四月十一日(1650)
年齢 73
墓所所在地 武蔵国 鴻ノ巣 勝願寺埼玉県鴻巣市

八代 牧野親成

在城主期間 正保四年(1647)~明暦二年(1656)
死亡年月日 延宝五年九月二十三日(1677)
年齢 71
墓所所在地 武蔵国 鴻ノ巣 勝願寺埼玉県鴻巣市

九代 板倉重宗

在城主期間 明暦二年(1656)~明暦二年(1656)
死亡年月日 明暦二年十二月一日(1656)
年齢 71
墓所所在地 三河国幡豆郡見吹村 長圓寺 愛知県西尾市

十代 板倉重郷

在城主期間 明暦三年(1657)~寛文元年(1661)
死亡年月日 寛文元年十二月二十三日(1661)
年齢 43
墓所所在地 三河国幡豆郡見吹村 長圓寺 愛知県西尾市

十一代 板倉重常

在城主期間 寛文二年(1662)~寛文九年(1669)
死亡年月日 元禄元年八月七日(1688)
年齢 46
墓所所在地 三河国幡豆郡見吹村 長圓寺 愛知県西尾市

十二代 久世廣之

在城主期間 寛文九年(1669)~延宝七年(1679)
死亡年月日 延宝七年六月二十五日(1679)
年齢 71
墓所所在地 丸山 本妙寺 豊島区巣鴨5-35-6

十三代 久世重之

在城主期間 延宝七年(1679)~天和三年(1683)
死亡年月日 享保五年六月二十七日(1720)
年齢 60
墓所所在地 丸山 本妙寺 豊島区巣鴨5-35-6

十四代 牧野成貞

在城主期間 天和三年(1683)~元禄八年(1695)
死亡年月日 正徳二年六月五日(1712)
年齢 78
墓所所在地 深川 要津寺 墨田区千歳2-1-16

七代牧野信成の次男

十五代 牧野成春

在城主期間 元禄八年(1695)~宝永二年(1705)
死亡年月日 宝永四年三月二十六日(1707)
年齢 26
墓所所在地 深川 要津寺 墨田区千歳2-1-16

十六代 久世重之

在城主期間 宝永二年(1705)~享保五年(1720)
死亡年月日 享保五年六月二十七日(1720)
年齢 60
墓所所在地 丸山 本妙寺 豊島区巣鴨5-35-6

十七代 久世暉之

在城主期間 享保五年(1720)~寛延元年(1748)
死亡年月日 寛延二年八月十八日(1749)
年齢 51
墓所所在地 丸山 本妙寺 豊島区巣鴨5-35-6

十八代 久世廣明

在城主期間 寛延元年(1748)~天明五年(1785)
死亡年月日 天明五年五月二十四日(1785)
年齢 55
墓所所在地 丸山 本妙寺 豊島区巣鴨5-35-6

十九代 久世廣誉

在城主期間 天明五年(1785)~文化十四年(1817)
死亡年月日 文政四年三月(1821)
年齢 71
墓所所在地 丸山 本妙寺 豊島区巣鴨5-35-6

二十代 久世廣運

在城主期間 文化十四年(1817)~天保元年(1830)
死亡年月日 天保元年十月十二日(1830)
年齢 34
墓所所在地 丸山 本妙寺 豊島区巣鴨5-35-6

二十一代 久世廣周

在城主期間 天保元年(1830)~文久二年(1862)
死亡年月日 元冶元年六月二十五日
年齢 46
墓所所在地 丸山 本妙寺 豊島区巣鴨5-35-6

二十二代 久世廣文

在城主期間 文久二年(1862)~明治元年(1868)
死亡年月日 明治三十二年(1899)
年齢 48
墓所所在地 谷中霊園 台東区谷中

10歳で城主に

二十三代 久世廣業

在城主期間 明治元年(1868)~明治二年(1869)
死亡年月日 明治四十四年(1911)
年齢 43
墓所所在地 谷中霊園 台東区谷中

久世広之(くぜひろゆき)の幕政参加

久世広之(くぜひろゆき)の幕政参加関宿藩十二代藩主久世広之(1609~1679)は、四代将軍徳川家綱の保育にあたり、寛文二年(1662)に若年寄に就任しました。翌年には老中に登りつめ、大老酒井忠清のもとで着実に職務を遂行しました。
三代将軍徳川家光までは、幕府の力を強固なものとするため、「武断政治」とよばれる強圧的な政治が行われました。しかし家綱の代になって幕府の支配が確立し、社会も安定してきたので「文治政治」へと転換が図られました。広之は老中として、法令や制度を整えて社会秩序を保つなど、文治政治の実現に努力しました。
なお広之が仙台藩お家騒動の解決に奔走したことは、山本周五郎著『樅ノ木は残った』で有名です。

久世広周(くぜひろちか)と公武合体

久世広周(くぜひろちか)と公武合体江戸幕府は長い間鎖国政策をとってきました。ところが、アメリカのペリーが嘉永六年(1853)に浦賀に来航したのをきっかけとして、アメリカ、オランダなど5か国と条約を結び、開国政策に踏み切りました。
この政策を担当したのが大老井伊直弼でしたが、勅許を得なかったため孝明天皇の怒りを招き、その結果朝廷と幕府が激しく対立しました。将軍継嗣問題ともあいまって、尊王攘夷派の反対運動が激化しました。そこで井伊は安政の大獄を実施して橋本左内・吉田松陰らを処刑するなど厳しく弾圧しました。当時老中であった関宿藩二十一代藩主久世広周は井伊の政策を批判したため、老中を失脚しました。
万延元年(1860)、桜田門外の変で井伊が横死した後、広周は老中に返り咲きました。広周は同じ老中の安藤信正とともに「久世・安藤政権」を築き、朝廷と幕府の融和を図るために公武合体政策を推し進めました。なかでも代表的なものが孝明天皇の妹和宮を十四代将軍徳川家茂の夫人にむかえたことです。いわゆる「皇女和宮降嫁」で、有吉佐和子『和宮様御留』など小説の題材にもなっています。
文久二年(1862)、坂下門外の辺で安藤が負傷して老中を失脚、ついで広周も失脚し、永蟄居を命じられました。元治元年(1864)、広周は失意のうちに関宿城内の客殿(新御殿)で死去しました。この客殿は後に関宿町実相寺に移築されました。

日光東往還(にっこうひがしおうかん)

日光東往還(にっこうひがしおうかん)日光東往還は御成(おなり)街道や例幣使(れいへいし)街道とともに日光道中(街道)の脇街道の一つとして数えられました。水戸街道(国道6号線)向小金付近(千葉県柏市)から山崎(同野田市)・関宿・結城(茨城県)など10の宿を経て雀宮(栃木県宇都宮市)で日光道中と合流もので、20里34町(82.3キロメートル)の道のりでした。
JR常磐線南柏駅西口からほど近い水戸街道と県道柏・流山線との交差点が日光東往還の起点であり、信号機に「旧日光街道入口」の名が付されています。それに続く県道松戸・野田線(流山街道)、県道結城・野田線(結城街道)が東往還のルートです。
上の写真は関宿城下の日光東往還を沢山の人々が行き交う様子を描いたものです。