関宿の河岸(かし)
河川交通の発達に伴い、流域には「河岸(かし)」とよばれる集落が誕生しました。河岸は物資輸送の基地であるとともに、水運に携わる様々な職種の人々の生活の場であり、大変な賑わいを見せました。
関宿を代表する河岸としては境河岸と関宿三河岸をあげることができます。これらの河岸は流通の拠点であるとともに、関宿藩の財政基盤の一翼を担いました。
境河岸
利根川左岸の現在の茨城県境町にありました。南北に貫く街道(日光東往還)に小松原・青木家の両河岸問屋をはじめ、各種問屋や商店、旅籠、茶店などが軒を連ね、その前を行商人や旅人、荷馬などが往来しました。天明五年(1785)「石高家数人別書上帳」(小松原家文書)によれば総人口1,851人のうち、交通運輸関係者が57パーセントを占めており、物資の移動が盛んである河岸の特色を物語っています。境町の商店街を歩くと、河岸として賑わった当時の面影が各所に残されています。
なお、境町歴史民俗資料館には数千点にもおよぶ小松原家文書が保管されており、境河岸の歴史を詳しく知ることができます。
関宿三河岸(さんがし)
内河岸・向河岸・向下河岸を総称して関宿三河岸(以後「三河岸」と略す)といいます。三河岸は江戸川流頭部に当たる関宿城下の江戸町にありました。このうち、内河岸は関宿城大手門にほど近い江戸川の左岸に、その対岸(現・埼玉県幸手市)には向河岸、その南隣には向下河岸がありました。これらはもとは地続きでしたが、江戸川の開削で東西に分断され、内河岸と向河岸・向下河岸は川を挟んで相対することになりました。
関宿は利根川水運の中継地であり、利根川本支流の流域各地からの船が集結し、関宿関所で船荷改めを受けました。
明治後期の江戸川の大規模な改修工事により河岸のあったところが河川敷や堤防に変わり、現在では往時の面影をしのぶことはできません。
高瀬船と通運丸
高瀬船
江戸時代の利根川水運の主役は高瀬船とよばれる大型の川船でした。船の長さは最大のもので30mほどのものもあり、一度に1,300俵ちかくの米を積載することができました。このため当時の利根川流域各地と大消費地江戸とを往来する高瀬船で賑わいました。大きな帆に風を受けながら航行する高瀬船は利根川の風景の美しさを一層際だたせるもので、数多くの錦絵に描かれています。
通運丸
明治時代に入ると西洋の技術が導入され、各分野で近代化が図られました。利根川水運においても、明治十年に外輪蒸気船通運丸の第1号が登場しました。全長22mで、船体の両側面につけた水車を回転させて進みました。明治二十三年に利根運河が完成すると、銚子と東京の間を約18時間で結びました。白帆の高瀬船を横目に航行する通運丸に、当時の人々は文明開化を実感したことでしょう。
真岡(もおか)もめん
近世に入って商品作物の栽培が広まり、各地で木綿の栽培が行われるようになりました。利根川支流鬼怒川沿いの下野国真岡(もおか)(栃木県真岡市)では古くから木綿産業が盛んで、利根川水運の発達により販路が次第に拡大されました。真岡木綿は「真岡晒し(もおかさらし)」の名で知られましたが、その肌触りが特に江戸の人々に好まれ、「真岡」は木綿の代名詞にもなりました。事実、白子組(江戸木綿問屋の組合)13軒の関東木綿総仕入れ高の80パーセント近くを真岡木綿が占め、江戸市場への流入量が他の木綿に比してその割合が格段に高かったのです。
真岡木綿の江戸輸送に大きな役割を果たしたのが塚田兵右衛門です。代々木綿買次業を営み、江戸の白木屋などと取り引きをしていました。文政四年(1821)、塚田家は境河岸問屋小松原家と姻戚関係を結びました。以後塚田家の江戸向け木綿輸送は小松原家が一手に扱ったと言われています。