メルマガ(平成11年度~平成17年度)

 

 

 

 

メルマガ 第73号(平成18年3月)              2006.3

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せきはく豆事典~「納谷の首塚」~

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平成7年に発行された「関宿町史跡案内」第3集には、納谷にある首塚が掲載

されている。説明文では享和元(1801)年に建碑された碑があるとしている。この碑は高さ74cm、幅90cmの基檀に、高さ218cm、幅58cmの

塔身がのる石塔で、石塔の正面には「南無妙法蓮華経」と日蓮宗の七字題目が彫

り込まれ、左側面には「享和元年辛酉素秋上澣日」、右側面には「妙典字石釋題

歌頌??(エイマイ)」とある。裏面にも銘文はあるがここでは省略したい。   

 日蓮宗といえば関宿地区台町の実相寺と深い関係があることが想像される。

実相寺は応永16(1409)年に日英によって創設された古刹であり、長禄元(1457)年簗田成助が水海城から関宿城入りした時に現在の場所に移転してきたと伝えられている。享和元年の実相寺住持が誰なのかわからないが、文政6(1823)年に遷化した三祇院日劫が住持であった可能性もある。

 右側面に彫り込まれた銘文からは、妙法蓮華経の微妙を文字として石に記し、地の神を祭り、供物を地にうずめる儀式を行ったことが知ることができる。実相寺が関宿城主第19代久世広誉の命を受けて供養塔を造立したか明らかでな

いが、法華経の功徳によって亡者と穢土を供養したことは紛れもない歴史として知ることができる。

  関宿藩が開藩してから221年目、廃藩になる70年前に相当する時期に造立されたこの石塔は多くを語らないが、この時期に各地の刑場跡に七字題目の供養塔を造立して廻国した谷口法悦及びその一族がいたことを歴史は告げている。しかし、納屋の首塚にある石塔の造立に関係したかは明らかでない。佐倉城近くの江原台にも七字題目のある同様の石塔が立っていることに興味が持たれる。

(阪田正一)

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メルマガ 第72号(平成18年2月)             2006.2

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せきはく豆事典 ~「幕末の治水家 船橋随庵」~

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 船橋家6代目として寛政7年(1795年)下総国に生まれ、伝太夫亘と名のる。武芸・学問に秀で、文化9年(1812年)に武芸師範・読書学問師範として頭角を現し、以来、城主久世広誉、広運、広周3代にわたって関宿藩で活躍する。

 天保2年(1831年)に町奉行・寺社奉行を兼任し、天保12年(1841年)には郡奉行となる。このころより、川除御普請御用に励み、水害対策や悪水路の工事にあたり多大な成果を収める。ことに、治水墾田に精細な理論と卓越した技術を持ち、随庵流の治水工学を考案し、また、「利根川沿革」「利根川治水考」「水行直論」等多くの著書を残している。嘉永元年(1848年)に着工した関宿落としの大工事は延べ約57万人、3年を費やした難工事であった。随庵堀である。その功績で20石加増され都合170石となっている。

 安政4年(1857年)藩命により、沼地で耕作のままならぬ大島禁地(※)の開発に着手し水路を造り整地して約70町歩の新田開発に成功する。この功績で藩から報奨を賜るが断り、その全てを作業従事者(農民)に均等に分け与えようとした。藩はこの行為は身分制度を否定するものとして農民たちの土地を没収したが、これに対し農民たちは集団直訴の行動に出る。この騒動の首謀者として、随庵は投獄される。釈放後隠居したが、藩での影響力はその後も強く残っていたといわれる。

 随庵のことについて孫の周斎が残した書がある。

「祖父随庵 清廉にして王事に勤め 万民の為に開削鑿決水の道を講じ 子孫の為に実禄を求めず 更に家財を倒尽するに至り 父もその意を継ぎ 勤王攘夷の徒に結び 遂に脱藩して今尚行く所を知らず(中略)困窮之極み家族を養うに足らず父子兄弟殆ど流離顛末に至らんとす」 

  随庵の人となりを知る一文である。 

(太田文雄)

(※「大島埜地」の誤記かと思われます。)

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メルマガ 第71号(平成18年1月)             2006.1

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せきはく豆事典 ~「節分と春来る鬼」~

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  節分は立春の前日で、春到来の節目にあたる。昨今では、幼稚園などで子どもたちが鬼の面を作って我が家に持ち帰ってきたり、スーパーなどでも“節分の豆”というのを売っているので、この日、「鬼はー外、福はー内」などと大声を出して、豆撒きをするご家庭も多いことだろう。ただ、豆殻(大豆の枝)に鰯の頭を差し、これにヒイラギを添えたものを魔除けとし、家の入り口などに差し付けることまでやっている家は少なくなった。「鰯の頭も信心から」という言葉の意味もすたれつつある。かつて、野田市周辺では、朝、大豆を煎って一升マスに入れ、いったん神棚に供えておき、夕方になって豆撒きをしたものである。そして、豆撒きの前までには、先ほどの“魔除け”を母屋の各所に付けておいたわけだが、それにも方法があって、鰯の頭にはツバを吐きかけ、火であぶり、わざわざ臭うようにしたという。そうすると、魔物が寄って来ない、家の中に入って来ないなどといっていたからである。ある地区では、「この臭いは人の臭いで、鬼はそれを人の頭だと勘違いして食べて帰っていく。そのため、家には入って来ない。だから、夜中は外に出ず、夜なべ仕事なども一切せず、ひっそりと過ごしていたものだ」という。この日は忌みごもりの日でもあったのである。このように、“春先に鬼がやって来る”という行事は、実は全国的にみられるもので、何も秋田のナマハゲだけに限ったことではなく、我が国の特徴的な文化のひとつでもある。枯渇した冬から芽吹きはじめる春に向けては、ひとつ間違えば喰い殺されてしまうような、何か得体の知れない恐ろしいものが必ず徘徊する。そして、そののち、いよいよ春はやってくる。

(小林 稔)

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メルマガ 第70号(平成17年12月)             2005.12

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せきはく豆事典 ~「初日の出」~

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 1年の始まりを告げる日の出、これが初日の出です。日の出そのものは珍しいものではありませんが、初日の出は1年の始まりということで、特別な思いを抱く方も多いのではないでしょうか?(そういえば、皆さんは1年に何回ぐらい日の出を見ていますか?)ともかく、冷え込んだ空気の中、暖かさを実感できる太陽の光は気持ちのいいものです。

 日の出とは、太陽の上端が見かけ上地平線(または水平線)に一致した時刻を指します(日の入りも同様です)。そして、2006年の東京の初日の出は、午前6時50分です。元旦から早起きして新年の思いを新たにしたり、風景の美しいところへ出かけて写真撮影というのもいいですね。

 近年は、山登りをして山頂で、船の上で、飛行機の中から初日の出を拝むというのがはやっているようです。天候に左右されないという点では飛行機が一番でしょうか?(いくらかかるのかな?)

 ところで、日本で最も早く初日の出が見られるのは日本の東端である「南鳥島」で5時27分。本州では「富士山山頂」で6時42分、平地に限れば千葉県の「犬吠埼」で6時46分となります。

 当館では、「関宿城で初日の出を見よう」というイベントを開催します。東京の日の出時刻の20分前に集合(完全予約制…募集は終了)していただき、天守閣から筑波山方向より昇る日の出を見ます。そして、1月1日は朝7時より開館し、皆様をお迎えいたします。

※ここに示したデータは、海上保安庁海洋情報部のHPによるものです。

(柴内 孝)

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メルマガ 第69号(平成17年11月)              2005.11

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 せきはく豆事典  ~「サポーター活躍中です」~

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  当館でも、いよいよサポーターの活動が開始され、活気がでてきました。登録されているサポーターは現在3部門、12名です。主な活動内容は「展示ガイダンス」「資料整理」「イベント等館活動」です。

 サポーターの方々には都合の良い日で無理しない範囲での参加をお願いしていますが、毎日数人の参加をいただき活発な活動となっています。

 展示ガイダンスは早速、団体見学の人たちを前に、館の概要を説明していただいていますが、最初のうちはかなり緊張している様子がうかがえました。最近は徐々に慣れてきたようで、学芸員の説明とはひと味違う地元の話も交えながらガイダンスを行い、団体見学者にも好評です。

 資料整理は館蔵の文書類を再点検し、文書の読める人たちが中心となって古文書の内容を把握して資料台帳の整備を図っています。今後の資料活用に結びつく大切な仕事をお手伝いしていただいています。

 イベント等館活動では、講座の準備や当日の受付等裏方の仕事をお願いするとともに、参加者と一緒に体験等も行っていただいています。

 サポーターの皆さんは予想以上の頻度で活動をしていただき、また、生き生きとした様子であることが心強く感じられ、今後の発展を予感させています。我々もサポーターの皆さんの力を借りながら、一般の方々が博物館をより身近なものに感じられるよう、博物館活動の活性化に努めていきたいと考えています。

(太田文雄)

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メルマガ 第68号(平成17年10月)              2005.10

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せきはく豆事典 ~「関宿城と寺院」~

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 長禄元(1457)年に水海城から関宿城に居城を移した簗田成助は、天正2 (1574)年の北条氏政攻めによる開城まで関宿城主として所領を収めた。関宿地区にある実相寺、昌福寺、吉祥寺の寺院も関宿城の築城と同時に水海から関宿に移転してきた。

 関宿城に関しては絵図が数点残されており、その中で最も古い絵図と考えられるのが「正保城絵図」と呼ばれるものがある。その絵図には、現在の関宿台町を中心に所在する8か寺や既に廃寺になった寺院(不動院・清信寺)、江戸川の河川敷になった寺院(福寿院)が描かれている。「正保城絵図」とは江戸幕府が正保元(1644)年に諸藩に命じて城郭と城下町一体の地図を作成させた絵図であるが、その内の一つに関宿城も収められている。絵図には、正保元年に7代関宿藩主である牧野信成が関宿城入封に伴って創設されたとする清信寺(見樹寺)も描かれており、当時の様子を正確に伝えていると考えられる。

 城下に所在したこれらの寺院は寺町を形成するかのように所在し、藩士の 菩提寺として武士社会と密接な関係が認められるところである。奥原謹爾が 著した『関宿志』からは藩士とその菩提寺の関係が良く分かる。

 実相寺は応永16(1409)年に創設された日蓮宗の寺院で、江戸時代には久世氏の位牌所となった。また、現在の庫裏は文久2(1862)年に建築された新御殿と呼ばれた建物で、関宿藩が廃止された後に実相寺に移築された建物である。

昌福寺は天長5(829)年に創設された真言宗の寺院で、江戸時代には久世氏の祈祷所になっていた。この祈祷所は不動堂と称し、羽目板には後藤流の彫刻が施されており、もとは不動院の建物で、戦後に移転された堂である。

  宗英寺が関宿藩初代藩主松平康元によって慶長元(1596)年に創設され、古河公方足利晴氏の墓や康元自身の墓が所在している。また、光岳寺には7代関宿藩主牧野信成が造立した先代牧野康成の供養塔が所在している。

 身近な所に郷土の歴史を伝える様々な文化財が所在するが、寺院には歴史 を動かした、時の人物に係る貴重な遺産が遺されているといえる。秋の一日を利用して文化財めぐりも新たな郷土の発見になるのではないか。                  

(阪田正一)

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メルマガ 第66号(平成17年8月)              2005.8

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せきはく豆事典 ~「今年の企画展は、高瀬船がテーマです」~

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 利根川は、渡良瀬川や鬼怒川など多くの川が合流し、関東の大動脈として大消費地江戸を中心に物資や人の交流など重要な役割を果たしてきました。

 江戸時代の利根川水運の主役は、高瀬船と呼ばれる大型の川船でした。その長さは、最大のもので約30メートルぐらいあり、米俵を約1200俵運べるものもありました。このような船が利根川や江戸川を大きな帆を張りながら行き交い米はもちろん生活用品や各地の特産物・人々を運びました。

 今回の企画展では、高瀬船の船体構造の特質や船と直接携わった人々に焦点を当て、物心両面から高瀬船そのものについて紹介していきます。

 主な内容は次のように考えています。

   ○高瀬船と舟運の発達

   ○高瀬船の構造

   ○高瀬船と船大工

   ○高瀬船と船頭たち

 今ではその姿を見ることのできない高瀬船。高瀬船に関する情報をお持ちの方、博物館までご一報下さい。(学芸課04-7196-1400)

 

(小林 稔)

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メルマガ 第65号(平成17年7月)              2005.7

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せきはく豆事典 ~「七夕とお盆と終戦記念日」~

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 かつて、七夕はお盆の月の行事だったというのをご存じですか。「笹の葉さあらさら、軒端にゆれる…」などと唱歌に歌われたり、校庭に笹竹を立てて飾ったりするなど、特に戦後の学校教育の浸透も手伝って、昨今ではもっぱら、七夕といえば新暦7月7日の行事、お盆とはまったく別の行事と思われています。しかし、以前はそうではありませんでした。本来は、お盆とひとつながりの一連の行事だったのです。対して、お盆の方は季節感はもとより、かの終戦日とあいまって、月遅れ8月で定着したと考えられます。もちろん、東京盆などといって7月にお盆を行うところもありますが、こちらはすでに戦前に移行していたというのがおおかたです。つまり、都市部では先行して暦日の異動がはじまっていて、それが徐々に近郊にも波及しはじめようとしているとき、戦争が勃発、終戦となって、防波堤のような、ひとつの妨げ要因が生じたというわけです。そもそも亡くなった家人や先祖をお祀りするといった盆行事が、8月15日の終戦記念日と心情的に大きく重ね合わされることになったのは、きわめて自然なことで、なるべくしてなったといってよいでしょう。            

(小林 稔)

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メルマガ 第64号(平成17年6月)              2005.6

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せきはく豆事典 ~「利根川東遷とその後」~

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 江戸以前、広大な関東平野の中央を荒川・利根川が幾筋もの支流を従え、暴れ回り流下し、いずれも東京湾へと注いでいました。これは、関東平野の地形が大きな盆地状をなし、埼玉付近がすり鉢の底の様であったためです。いわゆる埼玉低地と呼ばれる地域です。

 徳川家康が江戸入府してまもなく、領国の開発のため新田開発や交通路の整備を積極的に進めています。その一つが「利根川の東遷」と呼ばれる大土木工事です。

  家康は洪水のたびに大打撃を受け湿潤な後背地と化す埼玉低地を、締め切りと瀬替えによって良好な耕作地に改良し、周辺の新田開発を押し進めるため、手始めに、会の川を締め切り利根川の流路の一部を東方へ遷すことに成功します。これが、利根川東遷の始まりです。その後、何度かの瀬替えを行い、流路を古利根川から太日川(現江戸川)へ、そして1654年に流路を利根・渡良瀬川流域から常陸・鬼怒川流域へ変更するため開削した赤堀川をさらに広げるとともに、深く掘り下げ、利根川の水を常陸川(現利根川)に通水し、東遷・流域変更の事業を完成させています。

 東遷事業の目的は今のところ定説はありませんが、その後の手賀沼・印旛沼の開拓などの干拓事業の推進や当時の財政基盤が米などの石高であることなどを考えると、主要目的はやはり耕地面積の増大を目指した政策であったように思われます。このほかに、江戸水害の防止、舟運・水上交通の整備、東北方面の防衛等が考えられていますが、それらは副次的な事柄であるように思えます。

 この事業の結果、埼玉低地は新田開発が進み、武蔵・葛飾では1640年の村落数915ケ村から1838年には1179ケ村に、石高は1.5倍に増えています。さらに、江戸への流水が減少したことで、洪水の被害が低減されたと同時に、利根川から江戸川を通る河川交通路が確立したことが伺えます。各河川流域の舟運の発達に伴い各所に河岸が栄え、人・物資の往来が盛んとなっていきます。野田・流山の醤油もこの時期に隆盛しており、地場産業の発展にも貢献しているといえます。

 このように、利根川の東遷事業は、その後の流域に住む人々の生活ばかりでなく、産業や交通に大きな変化をもたらし、江戸時代以降の経済・産業・文化の形成に強い影響を与えた事業であったといっても過言ではないでしょう。

(太田文雄)

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メルマガ 第63号(平成17年5月)              2005.5

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せきはく豆事典~「関宿城近景 ~利根川~」~

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関宿城博物館は、利根川と江戸川に挟まれたスーパー堤防の上に建設された博物館です。2つのコンセプトを持って日々調査・研究を行っています。コンセプトの一つは、「関宿藩と関宿」、二つ目は、「河川(主に、利根川・江戸川)とそれに係わる産業」です。

 今回は、日本を代表する川、利根川を取り上げたいと思います。

 

【利根川の豆知識】

 ○水源地:群馬県大水上山(おおみなかみさん)

     →大正15年(1926年)、水源は、大水上山の標高1、800

      メートル付近であることが発見されました。

 ○全 長:約322キロメートル

     →上越新幹線の東京~新潟間とほぼ同じ距離で、新幹線では約2時

      間の距離。大水上山から銚子までを約4日間で流れます。

     →江戸川と利根川の分派点(関宿)から銚子までは、約122キロ

      メートルあります。

 ○流域面積:16、840平方キロメートル

     →日本一の流域面積…埼玉県の約4倍にあたります。

 ○利根川の支川数:794

  ○利根川の名称の由来(4つの説)

      1 アイヌ語で広くて大きい川という意味の「トンナイ」からきている。

      2 水源地には、高くてとがった峰「利(と)き峰」が多いので、その言

        葉が略された。

   3 トネノアタイ、トネツヒコという人の名からきている。

   4 大水上山の別の呼び名「刀嶺岳」「刀根岳」「大刀嶺岳」からきてい

    る。また、利根川の名前が最初に出てくる文献「万葉集」には、「刀

    禰(トネ)」と書かれている。

 ○利根川は約400年前は、江戸湾に注ぐ川でした。江戸時代初期に、利根

  川東遷(とうせん)事業と呼ばれる河川改修工事が約60年かけて行われ、

  太平洋へと注ぐ川となりました。

   利根川東遷(とうせん)事業の主な目的は次の4つでした。

   1  江戸を水害から守る

     2  埼玉平野の開発

     3  舟運による東北地方との経済交流

     4  江戸城の大きな外堀としての役目

 ○昭和22年9月、カスリーン台風襲来

  →本流・支流を併せて、堤防決壊87箇所。被害を受けた人約60万人。

   死傷者3、500人余り。これまでの治水計画の大幅な見直しが急務と

   され、ダム建設・スーパー堤防建設が急ピッチで進められる契機となり

   ました。

 ○利根川にかかる「銚子大橋」は、長さ1、450メートル。川にかかる橋

  としては日本一の長さです(平成17年現在)。

 ○河川敷を有効活用→採草・牧草地・公園・運動場・ゴルフ場・グライダー場

           などに利用し、自然環境を守りながらも市民が川に親     

           しめるように様々な施策が行われています。

 

 どうですか?利根川一つをとってもこれだけ多くの豆辞典が出来上がります。「へ~」ボタンは、何回押されたでしょうか?とはいっても、‘明日使える無駄知識’というわけではありません。歴史を学ぶことには大きな意義があるわけですし、こと生命に係わる洪水となれば、こうした知識・知恵を持つことは、とても重要であるわけです。

 川(水)の大切さは、今更書く必要もないと思いますが、文明発祥が川と密接に結びついていることは、現在でも何ら変わりもないのです。ですから、川に関する“治水”・“利水”について考えることは人間の生活にとって大変重要なものであるわけです。

 ここで、全ては紹介できませんので、是非、当館を利用され、学習していただければ幸いです。私たち学芸員もそのお手伝いをしたいと考えています。

(柴内 孝)

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第62号(平成17年4月)                   2005.3

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せきはく豆事典 ~「花祭り」~

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新緑の季節となりました。ところで、この時季に行われる行事で、花祭りというのをご存じですか?お釈迦様の日といえば、すぐにおわかりになるかも…。子どものころ「そういえば、よくバアちゃんに手を引かれ、連れて行ってもらったもんだョ」というご年輩の方も少なくないでしょう。

 旧暦4月8日は、実はお釈迦様の誕生日で、お寺ではよく灌仏会(かんぶつえ)といって、小さなお堂を設け、そのなかに水盤を置き、その上に小さな小さな釈迦誕生仏をご安置し、甘茶をはっておいたものです。そして、参詣に訪れた人びとは、かたわらの柄杓で甘茶をすくっては、その誕生仏にかけ、お参りするといったことが、野田市内でもかつては各所で行われていました。生まれたばかりのお釈迦様は、左手をあげて天を指し、右手を下げて地を指し「天上天下、唯我独尊」といって悟ったそうですが、これにちなんで、この像も左手をあげ、右手を下げた恰好をしています。これが、一般に伝わるこの行事の大略です。そして特に、小さなお堂は美しい草花でその屋根を葺き飾ったことから、この日のことは俗に花祭りとも、あるいは単にお釈迦様の日とも呼ばれていたのです。このあたりでは藤の花がよく利用されていましたが、新暦が普及してからも、やはり花の季節まで移すことはできなかったとみえ、最近まで月遅れの5月8日に行われていたことがほとんどでした。

  灌仏会については『三宝絵』に「承和7年(840)4月8日に清涼殿にてはじめて御灌仏の行事を行なはしめたまふ」とあるのが文献初出のようですが、おおむねは近世になって、あちこちの寺院が盛んに行ったことで、全国的に広まったと考えられています。

(小林 稔)

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第61号(平成17年3月)                   2005.3

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せきはく豆事典 ~「関宿城の近景・中の島公園」~

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 茨城県五霞町には、江戸川水閘門に隣接する中の島公園(円山公園)という公園があります。千葉県立関宿城博物館から徒歩で約10分のところに位置します。この公園に関東最大(?)といわれる「コブシの木」が存在するのですが、3月に入ると次のような電話が当館に寄せられます。「管轄外とは思いますが、コブシの木はいつ頃見頃になるか分かりますか?分かったら教えてください」と。

 この木には、不思議な力が存在するのでしょうか?一度、満開になったその姿を見た者の心を捉えて離さないらしい。当博物館に勤務する我々も、他県の公園にあるこの木を自分の博物館の一部の様に感じています。これまで、当メールマガジンとおつきあいの長い方々には、季節だよりの中で、幾度となく触れてきたコブシですが、‘せきはく豆辞典’に登場するのは今回が初めてなので、「コブシの木」について少し詳しく触れてみたいと思います。

 コブシは、日本全国に分布する落葉の高木で、サクラよりも早く開花します。東北地方では、これが咲くと田植えの準備に取りかかることから、タウエザクラ、タウチザクラ、タネマキザクラ、ナワシロザクラなどの方言名が見られます。花の下に1個の若葉がつくのが特徴で、樹皮・芽・花は薬用や香辛料となります。

 さて、中の島公園のコブシの木は、昭和2年に水閘門完成時に記念樹として植樹されたという説があり、これから数えると樹齢は74年以上と考えられます。しかし、切ってみないと分からないというところが本当のところでしょう。この木は、高さ約12m・樹径約3.3mに達しています。

 今年は、昨年より開花が遅れ、四月初頭が見頃になるものと思われます。当館では、こぶしの木の様子をほぼ毎日ホームページにアップしています。リアルタイムとはいきませんが、是非一度ホームページをのぞいてみてください。 

参考資料:山渓カラー名鑑「日本の樹木」 山と渓谷社:日本の樹木 小学館      

(柴内 孝)

(※2020年現在、このコブシは老齢化による枯死衰弱が進んでしまったことから、大きく枝が伐り払われ、養生措置がとられています。)

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第60号(平成17年2月)                   2005.2

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せきはく豆事典 ~「高菜漬け」~

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 この頃(1月末~3月)になると関宿町内に「高菜漬けあり」との看板が見られるようになる。

 「高菜」と聞くと、西日本の多肉性の「タカナ」を思い出される方も多いと思う。現存する「タカナ」は、1905年中国四川省から導入されたものという。

 関宿の「高菜」はカラシナである。関宿の利根川氾濫原の砂質土壌で育ったカラシナは大きく伸びず柔らかい。これが塩漬けの漬け物として、美味である。     

関宿の「高菜」を食べた方は、この時季になると遠方から買いにこられる。このカラシナは、利根川や江戸川の堤防上や河川敷に帰化し野生化している。これは、セイヨウカラシナで、やはり、おひたしや漬け物として美味である。

 関宿の「高菜」は「鷹菜」とも書く。これは江戸時代、関宿藩の藩主であった久世氏の家紋が「並び鷹羽」であったことから「鷹菜」と語呂合わせで書くようになったとのことである。江戸時代からこの漬け物を久世氏に献上していたということもいわれているが、これはどうも‘まゆつば’ものである。

 しかし、関宿の「鷹菜漬」はおいしいの一言である。2月末から3月9日まで、高菜漬けの体験を博物館で行っているので、是非参加してみてください。

(瀬戸久夫)

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第59号(平成17年1月)                  2005.1

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せきはく豆事典 ~「高野家文書に見る薬の購入先」~

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 関宿城博物館に寄託されている高野家の古文書資料は、1,118通あり、その目録については平成16年度企画展展示図録に医学書などとともに高野家資料目録として掲載している。1,118通の古文書資料には江戸本町から差し出された「覚」が含まれている。江戸本町は、享保年間(1716~1735)に薬種問屋が起こったところであり、その結果、医薬の大衆化が進んだといわれている。これらの「覚」が江戸本町の薬種問屋で作成されたことは疑いなく、医家高野家との関係が注目される資料である。

 江戸本町から差し出された「覚」は6通になる。差出人数から言うと4人、つまり4か所の問屋からということになり、鰯屋市左衛門(2通)、今井半太夫(2通)、近江屋庄助、玉屋善太郎の店である。このうち薬剤が見られるのは玉屋善太郎の「覚」である。当館の客員研究員である林 保氏に読み下しをお願いしましたので、要点を紹介したい。

 「覚」には、御榧油三勺を三百文で、丁字香を百文で買い付け、その代金が確かに支払われたという内容である。さて榧油はカヤの実の核を圧搾して得られる薬油であり、丁字香は香料として用いられたようであるが、何を調合したのかは具体的には不明である。高野家では、「家伝開明散」、「家伝青眼膏」、「プロイム」が調合され、利根川、江戸川流域に広く販売されていたことがわかっており、これらと関係のあった薬剤と思われる。

 高野家で使用された薬剤は、包み紙に書かれた品名から「寒水石」、「地横」、「細辛」、「桃仁」などを知ることができるが、「覚」からはこれらの薬剤を確認することはできない。

 鰯屋市左衛門から差し出された1通に子壬(閏)二月廿五日の日付があることから、嘉永5年、西暦1852年に作成された「覚」で、唯一年代が特定できる資料である。この頃は4代目敬仲(桃寿)が関宿桐ヶ作で医療を行ない、弟の石寿は取手において高野家秘伝の妙薬を手広く販売していた時期にもあたり、医家として最も盛行していたと考えられる時期である。これら「覚」は江戸本町の薬種問屋と高野家の具体的な取引がわかる貴重な資料といえるであろう。

(阪田正一)

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第58号(平成16年12月)                    2004.12

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せきはく豆事典 ~「凧、凧あがれ、天まで上がれ」 ~

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 正月と聞いて連想するものの一つに“凧”があげられる。今回は、この凧について触れてみたい。

 凧は二千年以上も前に中国で発明されたといわれ、通信、測量、軍事目的の兵器として使われた。また、一説では、南太平洋の海洋民族が、木の葉で凧をつくり、魚を捕らえるのに用いられたともいわれる。この凧の起源については、諸説あってはっきりしないが、日本には平安時代以前に中国から伝えられたようである。平安時代には、豊作を願う祭りの道具として、戦国時代には戦いの道具として利用された。そして、江戸時代には、店の宣伝にも利用されるようになり、次第に庶民の間へ浸透して行くようになっていったという。

 凧の呼び名も地方によって様々で、関東の「たこ」、関西の「いか」、中国地方の「ふうりゅう」、長崎の「はた」、信州の「たか」などがある。凧に限ったことではないが、これだけの地方の呼び名が存在することは、長い歴史と庶民に受け入れられてきた歴史を持つからに他ならない。また、凧あげの季節も地域によって異なり、かつてはよく風の吹く時期が選ばれた。江戸では、1月~2月、京都では2月~3月、大阪では5~6月といった具合で、端午の節句やお盆にあげる地方もある。埼玉、神奈川、新潟、静岡県などでは大凧をあげて競う風習も残っている。

 現在の凧は、和凧・洋凧様々であるが、大空に舞う凧の美しさと力強さは、今も昔も変わらない。当博物館も10周年の年を迎え、「凧、凧あがれ、天まで上がれ」のごとく、関東の風習にのっとって、1月にコーナー展「たこ」を開催することにした。

 エントランス、及び2階展示室で、皆さんを凧がお迎えします。

(柴内 孝)

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第57号(平成16年11月)                  2004.11

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せきはく豆事典 ~「大師粥」 ~

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 十二月といえば、いよいよ師走。寒風も身にしみる季節となりました。ところで、このあたりでは、この時季になると、大師粥という行事が行われていたのを覚えておいででしょうか?かつて、四日・十四日・二十四日と、四の付く日は夜なべ仕事もお休みし、晩にはダイシッケェ(大師粥)、あるいはオデェシッケェなどといって、各家では団子を入れた小豆粥を作り、神棚や仏壇、荒神様等々に供えたのち、家族の者も皆していただいたものでした。大師粥は、本来旧暦十一月の行事ですが、月遅れ時代においては、ちょうど今の十二月頃が当時の十一月にほぼ相当していたのです。

 粥は下煮した小豆を入れて塩で味付けしましたが、特になかに入れる団子は、その年穫れた粳米の屑米を使って新粉に挽いてこしらえたものでした。もっとも、家によっては醤油味とした、砂糖をかけた、などがあって必ずしも一様ではなかったようですが…。そして、小豆粥にこうした団子を入れる作り方については、ある謂われがありました。それは、そもそも屑米の処分方法として、「お大師様が教えてくれた」ものだといい、団子そのもののことを「お大師様の頭」などとする伝承です。

 これを食べると「風邪をひかないのでよい」とはよく聞かれるところですが、ほかにも「頭がよくなる」などといったので、子供たちはよく親から「しっかり食べろ」と諭されたそうです。一方、各日にちをワセ大師・ナカ大師・オク大師と、それぞれ稲の早生・中手・晩生になぞらえ、たとえば、四日のワセ大師の日が晴天であれば豊作、十四日が荒天なら中手は不作、などというように、各日の天候の具合によって、翌年の作柄の良し悪しを占ったりもしたのです。

 今では忘れ去られた感のある行事ですが、もしも四日々々の晩が寒かったら、あったかい大師粥を、皆さんのご家庭でも一度ためしてみてはいかがでしょう。風邪にはいいかもしれませんョ。 

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第56号(平成16年10月)                   2004.10

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せきはく豆事典 ~「竹(2)」~

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 私は、南国九州鹿児島の生まれである。鹿児島には、多種多様の「竹」が生育していた。モウソウ竹、シノ竹、チンチク(沈竹)竹(ホウライチク)、コサン竹、女竹など多くの種類があり、いろいろなものに使われていた。竹の子として食されるのはモウソウ竹である。これは、春先一番に竹の子が出る。次に真竹の子である。そして、コサン(五三)竹で、この竹の子は、エグ味がなく、そのままで、みそ汁、炒めものの具になり、油揚げと一緒のみそ汁は絶品である。春先、家中竹の子で埋まる。九州ではこれを一度ゆでて、干し、「乾燥たけのこ」にして保存する。九州の熱い太陽の光で、からからになるまでに干しあげる。この「乾燥竹の子」には深い思い出がある。一年近く保存していたものを6月の田植えに使うのである。田植えの時期は、小学生も労働力、学校も休みである。田植えの前日「もどして」おいた「竹の子」を新じゃが・天ぷら(鹿児島では、薩摩揚げのことをこう呼ぶ)干し大根・昆布などを一緒に煮物にする。これが、田植えの手伝いにきてくれた人の昼のおかずとなる。こども達は、田植えの手伝いとして、苗投げ(苗の束を植える人の前に投げる)・ツナ張り(両方の畦から印のついたシュロ縄を張る)・昼やおやつの運搬である。昼は大きなにぎりめし(このときは銀シャり・日常はムギやいもの入ったごはん)・たけのこの煮物・漬け物・お茶がふつうである。おにぎりは、竹で編んだ大きな蓋付きの篭にいれ、煮物はお重に入れる。漬け物は大きな皿に……。このときは、学校も休みで、ごちそうも食べることができ、忙しいけれども楽しみであった。日本人は、このようにして、生活用品の大部分が竹か木であった。身近にあり、加工しやすい、竹を多く使った。

 今、各地に「熊」が出没するが、鹿児島は、イノシシである。春一番の旬の「竹の子」を掘るのは、人間かイノシシか競争であった。年に何回か、イノシシが捕れることがある。「ワナ」であったり「鉄砲」であったり、それを何人かで肉として分けるのであるが、このときの「川パキ」「毛ソギ」には、必ず、竹の刀が使われた。「毛ソギ」(毛をとること)は、火で毛を焼き、焼き残った毛を「竹の刀」で削り取る作業である。これをきちんとやらないと皮身が食べられないのである。このようにあらゆるものに竹は、生きていた。子どもの遊び具・鳥や魚の確保の道具・ざる・篭・屋根・壁・床(鹿児島には、竹を割り、一面に敷き詰めた涼しい床もあった。)このように生活の中に深く深く入り込んでいた竹も近年使われなくなり、邪魔者となってきている。あれほど重要視された竹林も荒れ放題となっている。つい最近、中国が炭の輸出を制限したという報告があったが、これから竹炭に変わるかも??竹炭は木炭よりも火力が高いと言われている。

 私の田舎では、鍋で物を煮るときは、「竹で煮るな!」という言い伝えがあった。それは、竹の火力を示す言葉であろう。昔の人は、自然界の生き物を大切にし、自然から知恵を授かり、自然と共に生きてきたのである。合同企画展「竹」で私たちは何を学ぶことができるだろうか?    

(瀬戸久夫)

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第55号(平成16年9月)                   2004.09

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せきはく豆事典 ~「竹(1)」~

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11月末から合同企画展「竹 なが~いともだち」が開催されます。

竹は古くから我々と生活を共にしてきました。現代こそ竹製品は少なくなりましたが、昔は多くの竹製品がいたるところにありました。竹は建築用材・器具材・家庭用品等、数百種類の多岐に渡ると言われています。エジソンが日本の竹を使って、白熱電球を作ったのは有名な話です。

 多くの種類のある竹でも食料になるのは、モウソウチクとネマガリタケのたけのこです。美味なのは、カンザンチク・カンチク・ハチク・ホテイチクです。

マダケも食されますが、それほどおいしくないようです。

 栄養分は、低カロリーで、ゆでると36キロカロリー(100g)で強力な造血作用をもつビタミンB12を含み食用繊維は整腸作用を持つと言われています。生食や缶詰にします。ゆでて干して発酵させたメンマ(シナチク)は栄誉価が高い。たけのこの皮は牛の飼料、葉はパンダの好物、竹の油は薬。

 いろいろ不思議な力を持つ“竹”。

 展示では何が感じられるか、乞うご期待!!

(瀬戸久夫)

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第54号(平成16年8月)                   2004.08

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せきはく豆事典 ~「今年の企画展は医学史が中心です(2)」~

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メルマガ50号の豆辞典では「天然痘」を中心に書きましたが、今回は、現在開催中の企画展を紹介いたします。

 企画展名は、「幕末の眼科医 高野敬仲」で、副題として‘利根川中流域の医療と文化’をつけました。

 企画するにあたって、以下の3つの要素を軸として考えました。

 『幕末』………新選組をはじめとして、今なおかつ日本人に熱き思いを抱

        かせる時代です。しかし、この時代を捉えるには、少なくと

        も江戸時代初期の鎖国まで遡ることが必要と考えました。

 『医』…………医の世界は、広く深いものです。この企画展では、眼科を

        主としますが、江戸時代中期における‘腑分け’による観臓

        図書の発行が医史を知る上で重要なものとなります。

 『高野敬仲』…高野家は、江戸中期から明治初期にかけて、6代に渡って

        活躍した医家です。高野家から寄託された資料は約4,000点

        あります。特に、『解体新書』など、「名前は知っているが

        見たことはない」というものを数多く展示しています。

 

 この3つを軸として、できるだけ分かりやすく、「当時の医療の様子を知ってもらいたい」、「地域の歴史掘り起こしの一端として高野敬仲を世に出したい」という願いのもとこの企画展を構成しました。

 

 以下、高野家の足跡(そくせき)についての概要を記載します。

 高野家は、初代敬仲が現在の茨城県龍ヶ崎市で眼科医を開業し、江戸時代の四大眼科医の一人、土生玄碩(はぶげんせき)に師事しました。3代目敬仲以降は、現在の野田市桐ヶ作に移り、関宿藩内の町医者として主に利根川中流域で活躍しました。

 高野家には、医師として活躍した人物は6人おり、初代から4代目までが 「敬仲」を名乗りました。その中で、3代目敬仲を椿寿(ちんじゅ)といいますが、彼の時代が医家としての高野家の全盛期でした。彼は広範囲(霞ヶ浦・手賀沼・印旛沼・利根川・江戸川周辺)から患者を集め、2人の子と共に手広く薬(開明散・青眼膏という家伝薬)の販売を行っていました。古河藩の家老であった人物がわざわざ他藩の、しかも町医者である高野に薬の処方を頼んだという事実からもかなり評判の良かった医師でした。

 3代目椿寿は、利根川中流域の文人達とも交流があり、医師としてだけでなく知識人としても活躍したことが分かっています。こうしたことから、高野家に遺された医学書や医療器具を通して、当時の医療の様子を是非御覧いただければと思います。

 また、展示解説も随時行っておりますので、図録を片手に、是非お越し下さい。江戸時代の医学の世界にご案内いたします。

(柴内 孝)

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第53号(平成16年7月)                   2004.07

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せきはく豆事典 ~「平将門の供養塔(板碑)について」~

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 明治40年に将門の首塚に造立された供養塔は、織田完之が神田連雀町の小栗家に伝わる拓本から再現したことは『平将門故蹟考』に詳しく説明されている。しかし残念ながら大正12年の大震災で倒れて亀裂が生じたため、耐久保存の目的で塗料をもって塗り固めたと昭和10年に刊行された武蔵野叢書第1輯『神田』に記録されている。その供養塔の写真が同じく『神田』に服部清五郎が執筆した「神田明神と平将門」の文中にある。タイトルは「元大蔵省将門塚」とあるが、写真には供養塔と石燈篭が撮影され、よく観ると供養塔の周辺を異質なものが覆っており、碑面の文字は織田が模写させた小栗家に伝わる拓本の文字と異なっている。服部清五郎は「六字名号は、時宗二祖他阿真教上人の名号書体と認められるべきものがあり、云々」としている。また、平将門、蓮阿弥陀仏や徳治二年の文字と名号との位置関係の比較も異なり、明治40年に造立された供養塔は小栗家に伝わる拓本が手本でないことがわかるが、手本が何であったか不明である。

昭和15年に西浅草日輪寺に所在する正和2(1313)年の名号板碑を模して供養塔が新調されたと『神田明神史考』にあるが、昭和50年に現在の供養塔と替えられ、今は岩井市延命院に施入されている。延命院の顕彰碑はその歴史を伝えている。

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第52号(平成16年6月)                 2004.06

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せきはく豆事典 ~「大杉様のお祭り」~

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あっという間に、早七月。暑い季節がやってきました。このあたりでは、あちこちで夏祭りが行われる季節でもあります。

 ところで、今から十数年も前のこと…。はじめてこの界隈で聞き取り調査をしていたときのこと。あるお爺さん曰く、「ここでは七月に祭りがある。ムラをあげての夏祭りだ」

「鎮守様のお祭りですね」

「う~ん、違う、違う。鎮守様の祭りじゃない」

「だって、鎮守様にある御輿を担ぎ出すんでしょう?」

「そうだ。鎮守様の香取様から御輿が出るんだ。でも、鎮守様の祭りじゃない」

「???…」

 こんなやりとりをしたこと思い出します。今となっては笑い話ですが、そうなんです、実はこの地域、大杉信仰*の盛んなところで、ムラの鎮守社といえば、たいていは香取神社となっているんですが、夏祭りといえば大杉様一色といってよいほどの土地柄なのでした。

 皆さんの地区ではどうでしょう、地区の祭りといえば、やはり鎮守様、氏神様などと呼ばれる、ある特定の地域を治める神社があって、その神社には年に一度、メインとなる祭りが存在する、そしていろいろな出し物も出て賑わう、そんな感じではないでしょうか。でも、ここでは違うんです。具体的にいいますと、鎮守様の香取様は香取様として本殿にいらしていて、そこに大杉様が合祀されているわけではない。あえて香取様の祭りといえば、オビシャという形でオヤジ連中(戸主)だけでやっている-。ところが、境内の一角には神輿倉があって、その中の神輿そのものが大杉様として祀られていて、夏になるとその神輿が登場する-。そんな風なんです。あくまでも神社の祭りではなくて、大杉様の祭りなんですね。利根川流域では、こうした二重構造のような祭りが顕著にみられます。

 *大杉信仰…茨城県桜川村の大杉神社本宮を中心とする信仰      

(小林 稔)

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第51号(平成16年5月)                   2004.05

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せきはく豆事典 ~干し納豆のひとりごと~

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 私は、関宿城博物館で、提供している「郷土食弁当」の中に、必ず入っている「干し納豆」である。(納豆を干したようなもので、少し固く、塩辛い。)

 私の名は、正式には「塩辛納豆」というんだよ。私は、糸引納豆君より古いんだ。奈良時代には、日本にいたんだよ。

 わしらは、煮た大豆をむしろに広げ、麹菌の繁殖を待つ。三日ほどすると大豆麹もできるこのとき、アミノ酸が大量にできるんだ。この大豆麹を塩水につけ込み三・四ヵ月間発酵させるんだ。これを平らなところに広げて、風を当て、乾燥させてできあがりじゃ。浜納豆ともいわれているなぁー。わしらは、「糸引き納豆」君より栄養価が高いといわれているんじゃ。生まれは中国大陸だけど、すっかり日本に根付いてしまったんだ。日本人は納豆が好きだから!!

 しかし、豆の発酵食品は、東南アジア・インドネシア・インドにも仲間がいるんだよ。おかずにも、さけのつまみにもいいんだよ!!

 関宿城博物館の「郷土食弁当」も好評で、一度は食べてもらいたいものじゃ。 

 (瀬戸久夫)

(※2020年現在、博物館による弁当の販売は行っておりません。)

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メルマガ 第50号(平成16年4月)              2004.04

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せきはく豆事典 ~今年の企画展は医学史が中心です(1)~

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さて、今回の豆事典では、「天然痘」について触れてみたいと思います。というのは、企画展に向けての様々な調査の中で、「種痘メス」(当館寄託資料)の実物に出会うことができ、以前から関心を持っていた「天然痘」を身近に感じることができたからです。天然痘といえば、「WHO(世界保健機関)が昭和55年に、その根絶を宣言した。」ということで、現在の我々には関係のないように思われます。確かに、現在、世界に患者はいないわけですが、これは、換言すれば、免疫を持っている人類がいない・ワクチンを製造していない(必要がない)・天然痘を熟知している医師が少ない、ということを物語っている事になるわけです。しかし、天然痘ウィルスが、地球上から消滅したわけではなく、研究用として保管されている以上、世界中で起こっているテロ等に利用されたら、非常に大きな脅威になるに違いありません。天然痘は、「文献にだけ残る病気」であってほしいと思います。

 ところで、今回の企画展と天然痘がどのように結びつくのかということですが、これは一言でいえば、天然痘と眼病には密接な関係があるということなのです。天然痘による失明、それに立ち向かう人々、その先端にいるのが医師であり、「幕末の眼科医 高野敬仲」であるわけです。天然痘・医師とくれば、ジェンナーでしょう。彼の“牛痘種痘法”の発明がなければ人類はもっと天然痘に苦しめられていたに違いありません。“人痘種痘法”では、あまりにも危険すぎます。「高野敬仲」が種痘の名医だったというわけでなく、医師である以上、分野(内科・外科・眼科など)にとらわれない様々な医療活動が必要とされたことに注目していきたいと考えます。

 本年度、当館の企画展は、「幕末の眼科医 高野敬仲~利根川中流域の医療と文化~」と題し、8月10日から9月12日までの34日間開催する予定です。概要は、メルマガVol.45で紹介してありますので、ここでは割愛させていただきます。(なお、メルマガバックナンバーは、当館ホームページで確認できます。( http://www2.chiba-muse.or.jp/SEKIYADO/  )         

(柴内 孝)

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メルマガ 第49号(平成16年3月)              2004.03

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せきはく豆事典(~ナマズの独り言~)

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 わしらナマズは、昔の利根川・江戸川や沼や池に多くの仲間がいたもんだ。近頃ずいぶん仲間も減ってしまったし、外国生まれの仲間が増えてしまった。日本のナマズ科は、わずか3種類である。外国から来た仲間のため日本の仲間はずいぶん減ってしまった。

 利根川流域や江戸川流域には、昔からわしらの料理がたくさんあった。蒲焼き・ひっこかし・てんぷら・煮付け・たたき揚げ等、食卓をにぎわせ、貴重なたんぱく源として大ごっそであった。つい最近スーパーのチラシで珍しい広告を見た。それは、「キャットフィシュの西京漬け(ベトナム産)」と書いてあった。日本語で言えば「ナマズの西京漬け」だよなー。お客さんは知っているのかねー。わしらの肉ということを!ついにわしらの世界も国際化になってしまったもんだ!!  

1月にインドネシア・カリマンタン島マハカム川流域の少数民族を訪ねたとき市場にたくさんのわしらの仲間が並んでいた。特に「バオー」「パーティン」の仲間のカレー料理がうまかった。わしらも日本の川がきれいであれば、多くの仲間がいきていけるのだがーーー。             

(瀬戸久夫)

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メルマガ 第48号(平成16年2月)              2004.02

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せきはく豆事典~「関宿久世氏とお稲荷さん」~

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 ドンドコ、ドンドン・・・。先日2月8日そして翌9日の夕方、関宿城博物館の周囲の町内では子供達の太鼓の音が響きました。今年、9日は2月初の午の日。お稲荷さんをお祭りする、いわゆる「初午」です。屋敷にお稲荷さんを祀っている家々では、おのおの地口行灯(川柳・洒落言葉などに風刺画を添え描いた行灯)を掲げ、子供達は前の晩の「宵宮」と当日、神社にお籠もりし、また町内を太鼓を叩きながら回ります。お稲荷さんのある家を回るとちょっとしたおひねりや赤飯、またスミカツレと呼ぶ独特の料理を分けてもらえます。このような子供を中心とした初午行事は東日本を中心に広く見られるものですが、この周辺では、もと関宿城の城下町であった地域に限られています。その隣の旧二川村の集落では初午は行われず、またお稲荷さん自体もあまり祀っていません。

 文化9年(1812)~文政12年(1829)に十方庵敬順が記した江戸周辺の見聞録『遊歴雑記』三編巻之上をみると「総州葛飾郡関宿の城主久世大和守家には、稲荷の神を殊に信仰して例年の初午祭は勿論、ふいご祭には霜月七日より翌八日の深夜に至るまで、太鼓笛の鳴物いろいろの囃子ありて殊に賑はしく、夜は萬灯を照して昼のごとし」とあります。江戸後期、関宿藩の江戸屋敷でも稲荷で初午とふいご祭りを盛大に行っていたようです。その理由については、「伝えいふ、久世の始祖は三条小鍛治宗近にして、宗近が勧請したる宇賀の神なれば、斯ふいご祭をすることなりと諸人みな巷談す」とあります。宇賀の神とは穀物・稲の神すなわち稲荷神と同一視される神で、鍛冶職人の間でも火の神として信仰されていました。更に、十方庵は、久世家中屋敷に住む岡部嘉六という詮索好きな人物にその由来を尋ねています。それによると、久世家は宗近の枝流ではなく、藩内でも稲荷祭りは明暦から始まったと伝えられていたと言い、「明暦の頃土井能登守より久世家嫁入られし奥方ありて、此人殊に稲荷の神を信仰して衆に増りて崇敬せしが」その始まりではないか、しかし「いまだ実事を突留ず」としています。やはりはっきりしないようです。ただ、久世家についてこのような言い伝えが巷口にのぼるほど、この頃の関宿藩では稲荷信仰が強かったようです。

 そういえば、博物館の住所でもある三軒家地区では文字どおり三軒の家で関宿城の「鬼門除け稲荷」を合同で祀っています。これも、関宿藩の稲荷信仰を根強さを示すものでしょう。

 今日も天守閣から見下ろすと、ちゃんと赤い鳥居のお稲荷さんがお城を災厄から守るように鎮座しており、何やらほっと安心いたします。  

(榎 美香)

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メルマガ 第47号(平成16年1月)              2004.02

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せきはく豆事典~「近藤勇陣屋跡」~

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 今年のNHK大河ドラマは「新選組」です。第1回目の放映が11日にあり、高視聴率であったと報じられていました。このことからも、新選組に対する人々の関心の高さが伺えます。

 新選組というと京都の地を思い浮かべる方が多いと思います。しかし、ここ千葉県東葛飾郡にも新選組とゆかりの深い地があります。それは、流山にある「近藤勇陣屋跡」です。慶応4年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いに敗れた近藤勇はじめ新選組は江戸にもどります。3月には「甲陽鎮撫隊」を組織し、甲府にむかいます。ところが甲府はすでに官軍の手に落ちており、近藤たちは甲州勝沼で官軍と戦い敗れ去ります。甲府入城を果たせず、江戸へ引き返しました。その後、近藤は元新選組隊士などとともに、下総流山に入ります。近藤は大久保大和と名乗っていたといわれます。4月3日に近藤は官軍に捕らえられ、4月25日に板橋で斬首処刑され35年の波乱の生涯を閉じました。流山で近藤が屯所としていた酒造家長岡屋跡に「近藤勇陣屋跡」と書かれた高さ約1m・幅約2mの碑が昭和51年(1976)に、流山市観光協会によって建てられました。

 この流山には、JR常磐線の馬橋駅から総武流山電鉄に乗り換え、終点の流山駅まで行きます。馬橋駅から流山までは約5.7kmで乗車時間は11分間です。「近藤勇陣屋跡」は流山駅を降りて、徒歩4分の所にあります。  流山は江戸川に面しており、かつて河岸が存在し水運の要衝として栄えていました。また、江戸時代から日本有数の味醂の産地として知られています。今でも県道沿いに工場が建っています。流山の酒造家秋元三左衛門は味醂醸造で財をなし、雅号を双樹といい俳人小林一茶と親交がありました。小林一茶は度度、流山の秋元家を訪れています。この秋元家は流山市により記念館として改修され、平成7年に「一茶双樹記念館」としてオープンしています。一茶や双樹の直筆が展示されており、庭には一茶の句碑が建てられています。

 一茶双樹記念館を後にして再び県道に出て、流山駅の方に向かう途中に「元陸軍糧秣本廠流山出張所跡」の碑が建っています。大正14年(1925)に開設された陸軍の糧秣本廠流山出張所の跡に建てられたものです。総武流山電鉄に乗り、流山駅から「近藤勇陣屋跡」、江戸川堤防、「一茶双樹記念館」、「元陸軍糧秣本廠流山出張所跡」を巡り、再び流山駅に戻る、小さな歴史散策はいかがでしょうか。  

(額賀栄司)

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メルマガ 第46号(平成15年12月)             2003.12

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せきはく豆事典 ~「関宿藩主久世大和守広之の石塔」~

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 久世氏としては初めて久世広之が寛文9年6月に12代の関宿藩主として就任し、以降間断はあるが8代188年にわたり関宿藩を治めた。広之は延宝7年6月25日に71歳で亡くなり、広重が次代の藩主に就くことになった。

  広之の亡骸は当初甥にあたる広賢の四谷別荘に葬られたようで、現在は東京巣鴨の本妙寺に手厚く埋葬されている。久世氏の墓所は、石塀に囲まれ、37基の石塔群が所在している。広之の石塔は、高さ2.1mを測り二重基壇上に1.1mの塔身をのせ、頭部に宝珠をもつ笠をいただく笠塔婆となっており、「妙法蓮華経自證院殿日悟大居士」の銘がある。室の石塔は少し小ぶりで、「妙法蓮華経勝詮院殿日禅霊儀」の銘がある。2基ともに石塔群にあって必ずしも大きな石塔とはいえないが、広之と室の石塔は並んで造立されている。

  さて、広之の石塔は静岡県小笠郡大須賀町の浄泉寺にも所在することを同町の文化財保護審議委員をされる岡田昇氏のご教示によって知ることができた。現在の位置は造立当初とは異なると考えられているが、笠塔婆の形状をもつもので、正面に「妙法蓮華経自證院殿日悟祖儀」と広之の法名があり、側面には世喜宿云々の刻銘が認められ、広之の石塔であることがわかる。本妙寺と同様に脇に「妙法蓮華経勝詮院殿日禅□□」と刻銘された広之室の石塔が位置している。規模は本妙寺の石塔と比較すれば一回り小ぶりである。

  さらに、広之の石塔は東京品川養玉院にも所在している。広之の石塔には「自證院殿心光日悟大居士」とあり、ここでも脇に「勝詮院殿定峰日禅大姉」と室の石塔が並んで造立されている。石塔の規模及び形状はほぼ本妙寺のものと同様である。

  このように現在知ることのできる3か所の石塔は、それぞれ歴史的な経過をもって造立されたと考えられるが、広之の徳の高さを今に伝えているといえよう。広之は老中を勤めた名君であるとともに、法華宗への信仰心も篤く、法華の学者とも伝えている。広之の親父で久世氏中興の祖広宣が法華宗僧日豊の支援を受けた縁で法華宗に深く帰依し親父長宣の菩提を弔うために淨泉寺を創建したことから、広之は淨泉寺に対して経済的な支援をしていたのであろう。浄泉寺の石塔はこのような背景で造立された広之の供養塔ではないかと考えられる。一方、品川養玉院は、広之の室が対馬藩宗家に所縁のある女を生母とされていることから宗氏の菩提寺に室とともに広之の供養塔を造立したものと考えられる。

広之の石塔について、現時点で分かる範囲で調べてみたが、この間にあって久世氏に関する情報が以前より増える兆しがあるので、詳しいことについては、今後時期をみて再考を試みたいと思っている。

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メルマガ 第45号(平成15年11月)             2003.11

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せきはく豆事典 ~関宿が生んだ偉人~

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 これまで、当博物館では、関宿藩主 久世氏はもちろんのこと、関宿に関する偉人として、船橋随庵(1795~1872:関宿藩の家老、水害や米の不作に苦しむ農民のために水路を開いたり新田の開発を進めた。)・鈴木貫太郎(1867~1948:関宿藩の家臣鈴木由哲の長男、第二次世界大戦終了時の内閣総理大臣)・関根金次郎(1868~1946:第13世将棋名人、名人位を実力制に改めるなど、近代将棋の基礎を築く。阪田三吉とは名勝負を繰り広げた。)らを様々な形で紹介してきました。

 こうした先人達に新たに加わる人物として、現在、調査・研究をしている人物がおります。その名を「高野 敬仲(たかの けいちゅう)」といいます。彼は、江戸末期、水運全盛時代の利根川の河岸として栄えた、旧関宿町桐ヶ作(現野田市)に在住し、名医として評判の高かった蘭医(眼科医)です。

 当時、江戸をはじめ各藩には、藩医が置かれていたにもかかわらず、眼科医であった彼のもとに目を患った多くの人々や役人が評判を聞きつけて通ったといいます。何が人々を惹き付けたのか。優れた医術はもちろん、新薬を開発したという記録もあります。この「高野敬仲」という名は、四代に渡って使われ、『利根川図志』にも取り上げられています。また、眼科医としてだけでなく、薬を利根川流域の問屋に卸していたことから“利根川の医療と文化”をたどるうえで、重要な足がかりとなると考えられます。

 高野家からお預かりした貴重な医学書や医療器具を活用し、高野敬仲の遺した業績と旧関宿町を中心とした医家の系譜をたどり、それが現在どのようにこの地域に根付いているのかを来年度の企画展で紹介したいと考えています。

 なお、利根川流域においての医学資料や高野敬仲についての情報をお持ちの方がありましたら、是非、当館学芸課までご連絡下さい。(04-7196-1400)

(柴内 孝)

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メルマガ 第44号(平成15年10月)             2003.10

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せきはく豆事典 ~将門時代の食文化~

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 平安時代の前半、関東地方で活躍した平将門の時代は、関東平野の奥深く海が入り込み、岩井市周辺・関宿周辺は汽水域(川の水と海水が混じり合う場所)でした。これらの地域に産する動植物は、多種多様なものが生育したと思われます。将門は、関東平野の山村を開墾し、湖沼を干拓して、米等を作りました。

 平安時代の遺跡から出土する遺物を見ると汽水性の貝や木の実、またオニシリ状の固い炭化物が出土しています。また、『和名抄』を見ると、飲食部110品目・稲穀部38品目・果実部のうち58品目・菜蔬部の1品目・羽族部のうち8品目・毛群のうち49品目、鱗介部のうち106品目・草目部のうち280品目が食物に関するものです。

 これらを検討して、どのような食事を食べていたか検証します。現在よりも自然味あふれた食事であったろうと考えられます。この時季は、魚も果物も「旬」です。将門時代の食事の話と復元食を味わってもらいます。  

(瀬戸久夫)

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メルマガ 第43号(平成15年9月)              2003.09

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 せきはく豆事典  ~利根川の船大工~

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 かつて日本の水運を支えたのは和船を作る船大工たちの技術でした。利根川水系にも数十年前までは多くの船大工が腕を競い合っていましたが、今では数えるほどになってしまいました。その中にあって、関宿城博物館から利根川を挟んだ対岸に今もバリバリ現役の船大工さんが今日も作業を続けておられます。茨城県猿島郡境町の「森造船所」です。

  現当主の森栄一さんは船大工三代目。二代目までは大型の高瀬船も造っていたといいます。栄一さんが物心ついた時にはもう高瀬船を見かけることはなかったそうですが、その後も渡し船や漁船、サッパ船、また各家庭で洪水にそなえるための「用意船」などを専ら手掛けてこられました。

 栄一さんは注文を受けると、その用途に合わせて船のふくらみや傾斜・舳先の形状などを頭の中で計算し、材料の杉材を問屋で買い付けてきます。そして底板であるシキの部分をはぎ合わせ、これに、船の前後の「タテイタ」を取り付け、側面の「ハイタ」を反りをつけながら張っていきます。特に一定の面積を得るために「縫い釘」という特殊な釘で板と板はぎ合わせる工程は、板の継ぎ目がピッタリと吸い付くようで、実に見事です。但し、実は今はこの船釘を打つ鍛冶屋さんのほうがいなくなって、入手困難になっています。森造船所も今は後継者がいないということです。

「ものづくり日本」という言葉が最近聞かれますが、それを脈々と伝えてきた手仕事の技が目の前で次々と失われつつあります。この時代に生まれた我々としては、そうした技術が完全に忘れ去られる前に、その価値を見つめなおし後世に伝えていく必要があるのではないでしょうか。そして何より、そうした技術を知ることは、素人の我々にとっても非常に面白く、感心させられてしまうことが多いのです。今後も博物館では地域に積み重ねられてきた知識や経験、技術などを多くの方に御紹介するような活動を続けて参りたいと思います。

(榎 美香)

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メルマガ 第42号(平成15年8月)              2003.08

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せきはく豆事典 ~地下を流れる川~

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私たちにとって見慣れた景観である川。童謡に歌われる「春の小川」や坂東太郎と呼ばれる「利根川」など、人それぞれに連想されることと思います。

 いずれにしても、それはその場に行けば、私たちは川の流れを目にすること が出来ます。しかし、今は直接目にすることが出来ない「地下の川」が存在していることはあまり知られていません。関宿城博物館の眼下を流れる江戸川に関係して、「地下の川」が存在しているのです。それは、昨年の企画展で取り上げましたが、「首都圏外郭放水路」です。中川・綾瀬川流域の浸水被害を解消するための治水施設です。完成すれば国道16号線に沿って、大落古利根川から江戸川までの約6.3kmに地下50mの深さの所を内径約10mの地下水路が通ることになります。大雨などにより川に集中した水を「立坑」という取水口から集め、地下50mの水路を通し、江戸川右岸の埼玉県庄和町に設置されている排水機場から江戸川にポンプで排水します。この地下水路は普段私たちが目にすることはありませんが、中川・綾瀬川流域の浸水被害を解消するために重要な役目を担っているわけです。

 直接目にすることは出来ない地下の川ですが、首都圏外郭放水路地底探検ミュージアム「龍Q館」(埼玉県北葛飾郡庄和町(※現春日部市)大字上金崎720  TEL048-746-0748 月曜日休館 開館時間9:30~16:30 入館無料)では概要を紹介しています。

 普段目にすることが出来ない、「地下の川」ですがその巨大さに驚かれるこ とと思います。                       

(額賀栄司)

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メルマガ 第41号(平成15年7月)              2003.07

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せきはく豆事典 ~平将門との出会い~

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今年度当館では、年十回の平将門関係の歴史講座と企画展を開催しています。歴史講座には多数の参加者があり、大変驚くとともに、感謝しております。また、集会室のキャパシティの問題もあり、希望講座に参加できなかった方もおり、大変申し訳なく思います。さて、今回のせきはく豆事典では、ちょっと違った視点から平将門について書かせていただきます。その視点というのは、若者(学生)は、いつ平将門に出会い、どのように教えられるのかといったことです。なぜ、こうした角度から豆事典を書くかというと主な理由は二つあります。一つは、博物館を訪れる方々の中で、中・高校生の来館者が少ないということ、二つ目は、私自身が自分の経験として語れるということです。さて、前置きが長くなりましたが、本論に入りましょう。

 まず、中学生と将門の出会いは「歴史」の授業です。将門は、承平・天慶の乱で活躍した人物として扱われ、藤原純友と同時に扱われます。

 通史の中では、地方豪族と国司の関係として扱われ、特に、将門・純友が京都を挟む格好で、同時期に東西で反乱を起こし、中央貴族(藤原氏)を大変驚かせたということに始まります。この部分で、生徒の興味・関心を惹き付けるため、伝説にふれることになりますが、私が主に用いた伝説は、将門影武者七人伝説と将門の首にまつわる伝説です。やはり、生徒にとってインパクトのある題材を選択したいからです。教科書の中では、朝敵(このような言葉は、教科書にはない)のように見える将門も、伝説を通してみると、地方に於いて、強力な力を持つとともに、大変、人気のあった人物という扱いになります。そして、この二つの乱の意義は、「武力を身につけたものに対して貴族は無力であることを思い知らされ、以後、貴族(朝廷)は武士を取り込み力を大きくしていこうとするに違いない」という予想が生徒から出てくるところにあります。

 そして、この予想を検証していく過程で、彼らは前九年の役や後三年の役と出会い、「侍(さぶらう)者」は、やがて、朝廷貴族の力を越え、武士の台頭(特に、平氏)と武士政権の誕生(特に、源氏・北条氏)につながっていくわけです。

 中学生の学習レベルとしては、まず、歴史を嫌いにさせないこと、探求学習の手法を用いて(これは、私のやり方ですが)生徒自らもっと調べたい、探求したいと思える授業の構成を作ることが中心になります。

 すこし、大きな言い方になりますが、人は誰でも、ものを語るときは、自分の経験(歴史)に基づいて話をするわけですから、歴史認識をきちんと中学生に教えていくことは、必要不可欠です。歴史を扱う博物館としては、中学生・高校生といった世代にもっと博物館に足を運んでもらいたいという願いもあります。

 今年度の企画展や歴史講座を通して、皆様のお役に立てればと考えております。人間、一生勉強です。お互い頑張りましょう。   

(柴内 孝)

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メルマガ 第40号(平成15年6月)              2003.06

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せきはく豆事典 ~平将門―史実と伝説―~

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平将門―史実と伝説―

『成田名所図会』では、平将門は西暦940年に数え38歳で死んだと書かれているので、903年に生まれてから今年はちょうど1,100年目にあたります。

この夏、千葉県立大利根博物館と関宿城博物館は共同で平将門展を開催します。なぜ、この2つの千葉県立博物館で「平将門」をテーマに取り上げるのでしょうか。平将門は平安時代中期、関東の国府を攻め落とし、自ら「新皇」を名乗った人物です。この乱の顛末は『将門記』という軍記物語によって詳細な記述が残されています。それによると、将門の本拠地は今の茨城県の岩井市や石下町などの一帯でした。

 しかし、将門の物語は、その後さまざまな形を経て伝説化されていきます。こうした伝説の普及に一役かっていたのは、将門の後裔を名乗った関東武士団、千葉氏と相馬氏でした。千葉氏の祖、平良文は将門の伯父にあたります。将門と良文を加護していた妙見菩薩がのちに千葉・相馬両氏の守護神となる物語を千葉氏は広めていきます。そして千葉・相馬両氏の領有地であった千葉県北部から茨城県の一部、そしてのちに下総相馬から奥州に分かれた福島県相馬地方の周辺には数多くの将門伝説が残されているのです。

 この2つの博物館の立地している場所は、まさにその伝説分布地帯にあたります。今回の展覧会では史実の将門像よりも、むしろ後世、人々の間で語り伝えられてきた伝説に焦点をあて、一体どのように将門伝説が生まれ、伝播していったのか、その系譜を探っています。              

(榎 美香)

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メルマガ 第39号(平成15年6月)              2003.06

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せきはく豆事典 ~利根川水系連合水防演習実施さる~

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利根川水系連合水防演習が、関宿城博物館がある関宿町三軒家の利根川河  川敷で5月24日(土)に行われました。この演習は昭和22年(1947)カスリーン台風による洪水で利根川が決壊し大被害を受けたことを教訓に昭和27年(1952)から実施されており、今年で52回目になります。

水防という言葉を聞いてもなじみが薄いかもしれません。消防という言葉  は消防自動車や消防署など日常生活の中でよく耳にしています。梅雨時の大  雨や台風シーズンの大雨で家屋浸水や堤防の決壊などをニュースで見ること  があると思います。ふだん、川は私たちに様々な恩恵をもたらしてくれていますが、ひとたび大雨などにより堤防が決壊したり越水が生じると、濁流となって流域をおそい生命・財産に多大な被害を及ぼします。そこで人々は水とのたたかいをくりひろげてきたわけです。「堤防が危険な状態になった時に応急的な処置を施すことや、堤防が破れた後に流入する水をできるかぎり制限したり、氾濫の拡大を防止する活動や常日頃の対応を含めて」水防と言います。昭和24年(1949)に「水防法」が制定されています。

 当日は、国土交通副大臣や千葉県知事、関宿町長、野田市長、国土交通省や多くの関係者が参加し、関宿町と野田市の水防団員が開会式後水防訓練を実施しました。「利根川の本川・支川では水位が異常に高くなり、カスリーン台風を越える出水になると見込まれる。」という想定の元演習が行われました。実施された水防工法は洗掘防止のために、木流し(樹木を使い、水の流れを弱めて、堤防がけずれることを防ぐ)、シート張り(けずりとられて場所をむしろやシートでおおい、けずられた部分の拡大を防ぐ)、亀裂防止のために、五徳縫い(堤防の亀裂が広がるのをふせぐ)、漏水防止のために、月の輪(土のうを積んで水をため吹きだし口の拡大を防ぐ)、越水防止のために、積土のう(土のうを積んで少しでも高さをかせぎ、水があふれないようにする)を行いました。

 演習第2部では、救出・救護訓練が実施されました。千葉県航空隊ヘリコプターや陸上自衛隊のヘリコプターにより、逃げ遅れた人たちの救助・救護が日本赤十字社も加わり実施されました。演習を目の当たりにし、また水防に関する展示物や資料を参観することにより訪れた多くの人たちに水防の重要性が理解される一日でした。                      

(額賀栄司)

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メルマガ 第38号(平成15年5月)              2003.05

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せきはく豆事典~「歴史が語る“下らない”話」

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関宿は、江戸時代、物資の集散地として栄えました。東北・北陸地方の物資が、関宿を経由して、江戸に送られました。また、江戸からの物資を関宿を経て、関東各地に配られました。

 この時代の商業の中心は、上方(いわゆる大阪・京都)でした。この上方(特に大阪)には各藩の飛び地があり、米や特産品を商っていました。

 この上方から他の地方に輸送された貨物のことを「下りもの」と呼んでいました。これに対し、近郷から江戸へはいる荷物のことを「地回りもの」と呼んでいました。「上がりもの」は、京阪からもたらされた上等品の意味が込められていました。今でいう、ブランド品です。

 つまり、“下らないもの”(上がりものにならない品)は、上等・高級品ではないということになったわけです。“下らないもの”の言葉はここから生まれました。

 下らない話になってしまいましたので、終わりにしたいと思います。

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第37号(平成15年3月)                   2003.03

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せきはく豆事典 ~坂東太郎のはなし(その2)~

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 前回、「坂東太郎」という名称について歴史的なお話しをとりあげました。そこで、今回はその第2弾です。

 実は「坂東太郎」という言葉は、川を表すだけのものではありません。

例えば、江戸の町で町衆が夏の空を見て

「おっ、今日は坂東太郎が随分おっ立ってやがんなあ。

こりゃあ、ひと雨くるかもしれねえなあ。」

という風に使いました。

 江戸の方言では入道雲のことを「坂東太郎」とも言ったのです。関東一帯で見られる入道雲は大抵、利根川上空に発生したことから、そう呼ばれるようになったようです。恐らく、山で発生した雷雲は川に沿って成長しながら下ってきて、関東平野で暴れまわったためではないか、と考えられています。

 ところが、これとよく似た言い方が全国各地に残されています。

 関西では丹波の方角の入道雲のことを「丹波太郎」とか「近江太郎」といいます。逆に奈良方面にできた入道雲は「奈良次郎」、和泉方面のものは「和泉小次郎」というように方角別の兄弟になぞらえています。

 反対に近江や越前の側からは、入道雲は南アルプス上空に見えるらしく、「信濃太郎」と呼びました。

 また、九州では同じく入道雲のことを「筑紫次郎」とか「彦太郎」、四国では「四国三郎」と呼んでいました。

 その他、とにかく全国に入道雲ができる方向に「~太郎」とか「~次郎」をつけて呼びならわす習慣は広くあったようです。恐らく「筑紫次郎」や「四国三郎」も利根川と同じように筑後川や吉野川の上空によく入道雲が発達したことから言われたのでしょう。

 こうしてみると、川だけでなく、大きく暴れん坊のイメージの自然現象に「太郎」をつけることは一般的なことだったのかもしれません。ただ、普通は自分の土地のものだけを呼ぶなら「~太郎」となるところを、わざわざ「筑紫次郎」「四国三郎」のように次男、三男に位置付けていることについては、「川の三兄弟」の言い方が定着した後、それを雲に転用するようになったからと思われます。

 昔の人の観察力と粋な表現力にあやかり、たまには空をゆっくり眺めてみてはいかがでしょう。                          

(榎 美香)

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第36号(平成15年2月)                   2003.02

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せきはく豆事典 ~坂東太郎のはなし~

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 以前、「せきはくマガジン4号」で「坂東太郎、筑紫次郎、四国三郎」という言い方を御紹介しました。日本の3大河川を言い表したものです。坂東地域に流れる日本一大きな利根川が長男、九州北部の筑後川が次男、そして高知県・徳島県を流れる吉野川が3男という3人兄弟になぞらえています。

 先日、ある方から、「この言い方はいつ頃からあったのでしょうか?」という質問がありました。そこで調べてみましたところ、まず、目に付いたのは「せきはくマガジン25号」でもご紹介した『南総里見八犬伝』の芳流閣上の犬塚志乃と犬飼現八の血闘シーンです。「志乃は逃るる路を見んとて、辛うじてよじ速船を繋ぎたり。こは俗に坂東太郎と唱えて、八州第一の大河たり。」という記述が出てきます。

 『南総里見八犬伝』は文化11年(1814)~天保13年(1842)に書かれた書物ですが、これより古いものはないかと、現在出版されている利根川関係の本をひっくり返してみましたが、どこにも出ていません。

 ところが、なんと「せきはくマガジン21号」でご紹介した『利根川図志』(安政5年(1858)刊)で、それ以前に出版された本をちゃんと調べて引用していました。

 「『廻国雑記標柱』利根川の条に、本朝一の大河なればとて坂東太郎という。

 これに次ぎたるを四国次郎(阿波の小鳴戸へ落つる吉野川)、筑紫三郎(筑

 後川なり)、これを日本三大河という」

 「また、『四神地名録巻七』に、利根川は坂東太郎と称し、いにしえより海内七大河のその一河にして常水の深さ川幅時として定まらず(中略)、七大河と称せるは筑後川(筑後)四万十川(土州)犀川(信州)淀川(山城)阿武隈川(奥州)北上川(奥州)といえり。なお考うべし。」

 『廻国雑記標柱』は文政8年(1825)、『四神地名録』は寛政6年(1794)の書物です。今のところ、これが確認できた最も古い文字史料です。ここでは次郎と三郎が逆転していたり、坂東太郎以外は並列に称されています。もしかしたら、「坂東太郎」という言い方だけ先に確定していて、あとの兄弟はこの時代まだ流動的だったのかもしれません。感心したのは、『利根川図志』の著者、赤松宗旦が、自分の意見を書く前にまず、過去の文献を探して紹介していたことです。

 昔の学者さんのきちんとした仕事には頭が下がります。

 もしも、皆さん、これより古い「坂東太郎」という文字を見つけたら、どうかご一報お願いします。                  

(榎 美香)

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第35号(平成15年1月)                   2003.01

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せきはく豆事典 ~県ざかいのお話~

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 関宿は利根川と江戸川が分流する町です。上越国境に源を発する利根川は、ここ関宿から我孫子、成田、佐原など古くからの町をうるおし銚子から太平洋へと注いでいます。この間約122kmが茨城県との県境となっています。江戸川も千葉県と埼玉県・東京都との境を流れて約60kmで東京湾に達します。このように千葉県は内房、外房の海岸線以外はすべて川を隔ててお隣りの都県と接しているのです。

 お隣り埼玉県も、八潮市から幸手市までの間、千葉県境は江戸川が、その上流、茨城、栃木、群馬各県の県境は利根川が流れています。埼玉県は県境の約半分が利根川水系で囲まれているのです。

 ついでに東京都を見てみると、神奈川県との境は河口から30km弱の間、多摩川に重なっていますが調布市の辺りで都県境は多摩川と袂を分かちます。 

 さらに、目を関東地方から全国に転じると、九州で筑後川の河口から40km弱、久留米市付近までが佐賀と福岡の県境、紀伊半島では熊野川河口、新宮市から20数kmが和歌山と三重の県境、中部地方で愛知県犬山市辺りから下流約40kmの間、木曾川が岐阜県との県境を画しています。全国をざっと見ても川が県境になっているのはこの程度です。

 わが国の、大河ベストテン信濃川、利根川、石狩川、天塩川、北上川、阿武隈川、最上川、木曾川、天竜川、阿賀野川といった代表的大河の流域をみても、利根川以外では先述の様に木曾川の一部がわずかに愛知県と岐阜県の境界になっているだけです。

 この事実からもお分かりのように、昔から川は政治、軍事、経済、文化などを隔てるバリアではなく、むしろ人々の生活は川を中心に発達し、大河のほとりにはそれぞれの地域の中心となる町が発達していったのです。世界の四大文明の発祥地の例を引くまでもなく、川こそ文明の母でありゆりかごなのです。

 わが国でも、信濃国、武蔵国、常陸国など昔の国の境界は山脈や山地がほとん

どで、利根川のように大河が県境になっているのは広大な関東平野にだけあてはまる特殊な例なのです。

 「国境の長いトンネルを抜けるとそこは…」は、かの名作『雪国』の冒頭の一節ですが「国境の長い鉄橋を渡たるとそこは…」は歴史的にも無理なようです。

(高木博彦)

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第34号(平成14年12月)                  2002.12

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せきはく豆事典 ~平成の大合併~

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 千葉県立関宿城博物館がある関宿町と野田市の合併が発表されました。12月に野田市長と関宿町長が合併協定書に調印し、平成15年6月6日に野田市と関宿町が合併するとの新聞報道がなされました。「東葛飾郡関宿町を廃し、その区域を野田市に編入する編入合併とする。」という合併の方式になります。平成15年6月6日より、人口約15万人の野田市がスタートします。

 今、平成の大合併と言われていますが、ちなみに千葉県下の市町村数の推移を

見てみると下記のようになります。

 

     年 月 日                 市町村数合計

                                  (最初の市の誕生は、大正10年の千葉市)

 明治22年(1889) 3月30日——– 2,547

  明治22(1889)    3月31日——–     358

  昭和28年(1953)10月 1日——–     284

  昭和31年(1956)10月 1日——–     104

  平成14年(2002) 4月 1日——–     80

 

 現在の野田市と関宿町も戦後合併をしています。野田市は昭和25年(1950)に野田町と旭、七福、梅郷各村を合併して市制を施行(人口 39,061)。昭和32年(1957)に川間、福田村を編入合併(人口 52,886)。関宿町は、昭和30年(1955)に、関宿町と二川、木間ヶ瀬村が合併し関宿町となりました(人口 13,795)。そして、来年野田市と関宿町が合併すると東を利根川、西を江戸川、南を利根運河と三方を川に囲まれた地域を範囲とする野田市になります。

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第33号(平成14年11月)

※せきはく豆事典未掲載号

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第32号(平成14年10月)                  2002.10

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せきはく豆事典 ~「歴史」って? ~

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 難しいことが苦手なので息抜き程度の話題しか提供できませんが、お許し下さい。「歴史」の「歴」の字を分解すると、上の部分は屋根の下に稲の束が並んでいる様子を表しています。下の部分の「止」は足をかたどったもので、両者を併せて稲束を数えながら歩くことを意味し、これが転じて「すぎる」「かぞえる」を意味するようになりました。一方、「史」は「中」と「又」に分解できます。「中」は神への祈りの言葉を書いて木の枝に結びつけたもの、「又」は手を表し、祭事にたずさわる者を意味します。ここから「歴史」とは人類社会の過去における変遷の記録を意味します。

 ところで、「歴史」という言葉に接するとロマンや郷愁を感じる方がいる一方で、年号や事柄の暗記で苦労し、「歴史アレルギー」になってしまった方も多いようです。でも私たちにとって「歴史」ほど身近なものはないと思います。例えば現在の政治・経済状況から昭和初期の金融恐慌を思い起こし、不安を募らせている方もいらっしゃるでしょう。また、かつてグループ・サウンズ(GS)ブームの中で大ヒットした「亜麻色の髪の乙女」が若い女性歌手(名前は知りません・・・)によってリバイバルヒットしています。長らくカラオケの「おじさんソング」として白眼視してきた若い人にとって新鮮に聞こえるそうです。     

 こうしてみると良きに付け悪しきに付け、あるいは好むと好まざるとに関わらず私たちを取り巻く様々な状況が「歴史」に大きく左右されています。もちろん私たち一人一人が「歴史は繰り返す」という格言を身を以て体現しているのです。

(シ)

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第31号(平成14年9月)                   2002.09

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せきはく豆事典 ~利根川中流域の川漁~

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 九十九里など海の地曳き網は有名ですが、利根川のような河川でも地曳き網が行われていたことをご存知ですか?

 関宿町には第2次大戦後しばらくまで、かなりの数の専業漁師さんがおり、利根川で川漁を行っていました。川魚は江戸川沿いの旅館や料亭などで名物料理として出され、行き交う旅人達に喜ばれていたといいます。

 川漁の漁法は色々です。例えばウナギのオキバリ漁は、針をつけた糸を篠竹の根本近くに結わえ、これを200~250本ほど川底に挿していく漁です。早朝、これを引き抜いていくと、ウナギがかかっているという按配。最盛期にはこれで毎日、1貫目(約4kg)のウナギが捕れたといいます。

 この他、ウナギやフナの三枚網漁(刺し網)、四ッ手網のクチボソ漁、投網ではザッコの他、コイやスズキなども捕れました。そしてまた、川に網を回して岸から引き寄せる地曳網も行われていました。

 利根川や江戸川の専業漁師達は「旅漁」といって船を家とし、魚を追って生活することもありました。関宿町の漁師の一人であった小久保喜太郎さん(69才)も少年時代には父親と共にタビに出かけたといいます。5,6月の漁期には10日間ほど、屋根のある屋形船で寝泊りしながら、上流は渡良瀬川、下流は鬼怒川との合流地点あたりまで行っていました。例えば下流にタビに行き、一度家に戻って1,2日休み、今度は上流にタビに出るという風だったそうです。当時は利根川もきれいで、川の水でご飯を炊いたりうどんを打ち、捕れたウナギをおかずにしたといいます。漁師達に縄張りのようなものも特に無く、よその漁師が近くに来れば、顔見知りでなくとも風呂に招いたりしたそうです。恐らくそのような中で技術の交流なども行われていったのでしょう。

 今は汚れて漁業の対象としては顧みられなくなった利根川ですが、かつては、さまざまな伝統的漁法が伝承されていたのです。             

(榎 美香)

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第30号(平成14年8月)                   2002.08

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せきはく豆事典 ~『関宿の女』(北原亞以子著)~

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 今回は関宿の名が題名になっている時代小説、北原亞以子著『関宿の女』という小編をご紹介します。

 時は幕末、打ち寄せる歴史の荒波にさらされる十七歳の白面の関宿藩主久世広文。関宿藩でも勤王佐幕の藩論が沸騰し、両陣営とも藩主広文の身柄の確保を狙って暗躍します。 江戸藩邸で病弱の広文を我が身に替えて守る藩士の娘、小淵志緒。勤皇になびく藩の大勢を冷ややかに眺めていた、志緒のいいなずけ三好小吉郎もついには同僚に切られて散っていきます。

 結局幕府の陣営に荷担した広文は敗残の身で関宿へ、家督を弟の広業に譲り政争の渦からはなれた時は既に明治の世となっていました。

 勤王佐幕の藩論が沸騰する激動期の関宿藩。親戚家族の絆、そして恋さえも砕いてしまう男たちの政争、それを一藩士の娘の目で見据えながらしっかり地に足をつけて生きていく志緒。関宿と縁のない人にもぜひ一読をお薦めしたい小編です。

 この小説は講談社文庫の『降りしきる』という文庫本の中に収められています。

なお北原亞以子氏は千葉県立第二高等学校(現在の県立千葉女子高等学校)卒業

で直木賞始め数々の文学賞に輝く女流作家。主に江戸の市井の人々の人情の機微に触れた作品が多く、巷では藤沢周平文学の後継者との声が高い作家です。

(高木博彦)

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第29号(平成14年7月)                   2002.07

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せきはく豆事典 ~江戸川流域の軍事施設~

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 戦後57年を迎えようとしている今、江戸川流域の軍事施設といってもすぐに浮かんでくる人は少ないでしょう。しかし、実際、いくつかの軍事施設が存在していたのです。今回はそれを紹介したいと思います。

 江戸川流域に軍事施設が設けられたのは明治18年(1885)陸軍教導団という下士官養成機関が、市川国府台の地に移ったのが最初でした。

 そして第一次世界大戦後には、工兵教育の充実を図るため大正9年(1920)陸軍が松戸に工兵学校を創設しました。

 大正14年(1925)には糧秣廠(りょうまつしょう/軍馬の餌を保管・供給する施設)が流山に開設されました。餌の原料である干し草の生産地は利根川流域であり、そのまま水運の便を利用して運び込むことができたわけです。また、近衛師団など東京の部隊に輸送するのにも流山鉄道や常磐線だけでなく、江戸川の水運も利用されました。

 昭和に入ると「国土防空」の重要性が説かれはじめました。特に重要視されたのが日本の中枢、帝都東京の防空でした。防空のための有効な手段は迎撃戦闘機による敵機撃墜です。帝都防空の任に当たる陸軍は、飛行場の建設を急ぎました。下総台地の千葉県東葛飾郡地域には、昭和16(1941)年までに柏(田中村十余二)、藤ヶ谷(風早村)、松戸に飛行場が建設されました。      

(額賀栄司)

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第28号(平成14年6月)                   2002.06

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せきはく豆事典 ~うどん文化~

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 関宿周辺は常総台地や武蔵野台地の縁辺部が広がっています。

 この周辺は今も小麦を多く作っており、6月、麦秋の頃収穫されます。ここでは、「寄せ事(祝い事など人が集まる時)」にはごちそうとして伝統的に「うどん」が出されます。これは江戸時代からこの地方が小麦の産地であったためです。

 加須市や館林市には江戸時代から続いているうどん屋もあります。

 なお、当ホームページでは、関宿の郷土色レシピをダウンロードできます。

詳しくはこちらをご覧ください⇓

https://www.chiba-muse.or.jp/SEKIYADO/activities/page-1519818344425/

(瀬戸久夫)

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第27号(平成14年5月)                   2002.05

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せきはく豆事典 ~迫水久常(さこみず・ひさつね)が語る鈴木貫太郎~

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 関宿藩家老の子として生まれた鈴木貫太郎(1867-1948)は、第2次世界大戦時最後の内閣総理大臣に就任しました。鈴木首相はポツダム宣言受諾、無条件降伏の実現により大戦を終結させました。

 鈴木内閣で書記官長を務めた迫水久常は、国立国会図書館長河野義克との対談で鈴木首相のエピソードを語っています。『迫水久常政治談話録音速記録』からいくつか紹介しましょう(原文のまま)。

 

○あの人は全くものは何も知らないような恰好はしてるけど、このくらいよくものを心得てる人はない人だよ。

○総理が終戦を考えておったかどうかということはね、私は最初から終戦するつもりで総理大臣になっておられたと思うんですよ。

○やっぱり大人ですよ、あれ。極めてベリー・オリエンタル、極めて東洋的。

○健康そのものでしたね。ものはよく喰われるし。

○耳が聞こえないのは私はやっぱりなかなかうまく自由に操作されていたように思う節があるよ。

○総理はね、閣議においても最高戦争指導会議においても御前会議においても1回も意思を表示してないよ。1回も。そういうところは東洋的というかわからんけど、「ベリー・オリエンタル」だろうとは思うけど、僕たちだったらすぐ「俺が…」と言うけど、全然言わないよ。まぁ無為にして化しているんだな、あぁいうのは。

 

 この対談で迫水はこれらエピソードの他、東条内閣退陣、ポツダム宣言受諾、終戦の詔書など終戦の経緯を述べています。この録音テープ(迫水久常政治談話録音)は国立国会図書館で聴くことができます。詳しいことは同館にお問い合わせ下さい。          

国立国会図書館URL https://www.ndl.go.jp/

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第26号(平成14年4月)                   2002.04

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せきはく豆事典 ~利根川高瀬船~

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 「高瀬舟」というと、森鴎外の小説を思い起こされる方も多いかもしれません。小説では舞台は京都の高瀬川で、そこを上下する小舟が題名となったわけです。しかし、「高瀬船」という船の名は日本全国に見ることができます。各地の「高瀬船」の共通点は、川船であること、そして日本の急で狭い河川に適応できるように、底が平たく縦に長い形になっていることです。その名の由来は一説には、積荷が川の波しぶきで濡れないように背を高くした高「背」船からきた、或いは「瀬(川底)」が高い(=浅い)川の船という意味からきたのではないかといわれています。ただし、地域によって、「高瀬船」の形や大きさはさまざまです。

 利根川や江戸川では、江戸時代から昭和20年代頃まで大量の物資を江戸(東京)に運ぶ大きな高瀬船が活躍していました。長さは普通10~20m程度、米500~900俵を積むことが出来ました。中央には長い帆柱があり、大きな帆を張って風の力で進みました。風がない時は、水夫(かこ)たちが棹や櫓で船を操りました。利根川の高瀬船は日本の川船としては最も大きく、複雑に発達したものです。

 昔から利根川の風物詩として、浮世絵や絵画にも多く描かれています。それを見ると、真っ白い帆を立てた十数艘の高瀬船が水面を行き交い、往時の川の賑やかさ窺い知ることが出来ます。当時の船頭達は、自分達の船を大切にし、いつも磨いていたため、板材がピカピカに光り、それは美しかったといいます。今でも、流域にお住まいの年配の方々は、美しい高瀬船が颯爽と行き交った様子を懐かしそうに語られます。

 しかし、鉄道網の発達などで河川交通自体が廃れ、今では土砂の堆積で川底も浅くなって、船が川を航行することもできなくなりました。

 大きなものだっただけに、現在、利根川高瀬船の実物は日本に1艘も残されておらず、部品や写真、船大工さんからの聞き取りなどからしか全体像を知ることができなくなりました。近代化の波の中で最後はその存在価値を失って、保存の必要が言わる前にあっという間に姿を消してしまったのです。一時は日本の内陸和船技術の頂点を極めた高瀬船。つい数十年前まであったのに、本物を目にする機会は永遠に失われてしまったかと思うと残念ですね。

 なお、往時の高瀬船の様子を見てみたい、という方には、『写真集 利根川高瀬船』(平成6年)千葉県立大利根博物館発行がお勧めです。

(現在、絶版となっておりますが、最寄りの図書館の相互貸借制度をご利用いただくことで、ご覧になることができます。) 

(榎 美香)

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メルマガ 第25号(平成14年3月)              2002.3

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せきはく豆事典 ~南総里見八犬伝と関宿城~

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 曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」は、室町時代の関東を舞台に犬塚志乃、犬飼現八、犬山道節など犬の字を共有する八人の若武者が霊玉の縁により名門里見家の再興をとげるという荒唐無稽の物語です。

 下総国は滸我の城(古河城)」、芳流閣上の犬塚志乃と犬飼現八の血闘は前半の名場面、歌舞伎や国芳の錦絵でもよく知られています。死闘の末、ともに眼下の坂東太郎利根川に浮かぶ小舟の上に真っ逆様。悶絶した二人を乗せた小舟はそのまま川を下ってその日の内に行徳の浜に漂着します。

 さてここで歴史遊び。あくまでも架空の伝奇小説の中ではありますが、二人は古河からどの川筋をたどって行徳まで流れついたのでしょうか。

 馬琴が八犬伝を執筆した天保年間には、利根川は赤堀川を介して常陸下総の国境を銚子にへと流れていました。一方、江戸川は権現堂川・逆川・江戸川と流れ行徳で江戸湾に注いでいた。しかし、血闘のあったとされる文明10年(1478)、古河を流れていた渡良瀬川は、栗橋を経て太日川に流れ込み行徳で海に注いでおり、江戸川まだありませんでした。犬塚志乃たちは利根川の流れにのることなく葛飾行徳の浜に流れついたはずでする。江戸以前のこの地域を流れていた川筋や呼称についてはさまざまな学説があり断定はできませんが、芳流閣の場面…はるかに流るる大河は八州第一の坂東太郎…というのはいささか問題です。

 15世紀半ばには関宿城は築城されていたとされます。とすれば、文明10年 6月、犬塚・犬飼の二人は気を失ったまま関宿城の至近距離を行徳めざして流れていったことになります。

 いささか夢想空想の世界に遊びすぎましたが、もしかしたら八犬伝のこの場面は、江戸後期の知識人が両河川の変遷をどの程度理解していたかを推しはかる参考ぐらいにはなるかもしれません。           

(高木博彦)

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メルマガ 第24号(平成14年2月)              2002.2

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せきはく豆事典 ~街道の面影~

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 利根川と江戸川に挟まれている関宿、かつて関宿通多功道という街道がありました。日光御成街道や日光例幣使街道とともに日光道中(街道)脇街道の一つに数えられ、日光東往還とも呼ばれました。現在の南柏駅付近を起点とし、野田・関宿・結城を経由して宇都宮に至る二十里三十四町(約82キロメートル)の道法でした。

 現在、関宿を「結城・野田線」「我孫子・関宿線」の二県道が貫いていますが、前者がかつての多功道にあたります。今や都心や県南と北関東を結ぶ幹線道路として交通量が著しく多いが、ここを歩いてみると道標や石仏などが目に入り、往時の面影を見出すことができます。

 関宿町新田戸の「街道」地区。県道が左右にカーブを描いていますが、ここを北上して左手に「見晴屋」の看板を掲げた商店が見えてきます。この商店の隣脇に未舗装の道があります。幅2メートル程の、一見するとどこかの家の庭先に通じるような細い道ですが、これが昔の姿をそのままに残す多功道です。現在とは異なり、必要にして十分な道幅だったのでしょう。

 ここで多功道は県道から反れて江戸川沿いを北上します。元町に入ると関宿城下が間近になります。すると道が右に左にと直角に曲がってクランクを描きます。敵勢力が城下へ侵入するのを防ぐための造りになっています。

 浮き世の喧噪から逃れて、昔日を思い描きながら歩くのもまた楽しいものです。

 なお、拙稿「関宿通多功道の消えた風景」(『月報五街道』89号)、及び『五街道分間延絵図関宿通多功道見取絵図』第二巻(木原徹也氏と共著、ともに2001年、東京美術刊行)もご参照ください。            

(島田 洋)

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メルマガ 第23号(平成14年1月)              2002.1

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せきはく豆事典 ~江戸川流頭部~

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 日本で最大の流域面積を持つ利根川に比べ、江戸川は全国的にはあまり知られていないかもしれません。関宿城博物館4階展望室からは利根川から分派し東京湾に向かって流れ出す江戸川の流頭部を見ることができます。

 流頭部は現在利根川と江戸川の堤防に囲まれ、低水路と増水した時水が流れる高水路が拡がっています。四季おりおりに表情を変え、来館者の方々を楽しませてくれます。管理橋を渡っていくと中之島公園に行くことができます。中之島公園は関宿水閘門のすぐ近くであり、低水路(本川)と増水したとき水が流れる高水路に挟まれた島のような所です。普段は高水路に水が流れていないので、なかなか島のような印象は受けにくいのですが、昨年9月の台風の後は高水路も水が勢いよく流れておりまさしく島のような状況でした。4階展望室に、平常時と平成11年8月増水したときの流頭部の写真を展示してありますが、来館された方々はそのあまりの違いに驚きの声をあげ、まさしく中之島公園が島のように見える写真に見入っています。

 中之島公園内には利根川治水大成碑や大型掘削機械のバケット、明治40年(1907)から大正15年(1926)まで総武鉄道(市川ー小岩)の江戸川に架けられていた鉄橋、関宿棒出しで使われていた石などが説明板と共にあり、さながら野外博物館のようです。また、桜やコブシの木があり、開花時には多くの人が訪れます。特にコブシは関東一を誇る大木であり、毎年見事な花を咲かせています。昨年は関宿城博物館のホームページ上で開花予想クイズを実施したところ多くの方々から申込みがありました。コブシの花ごしに関宿城を見るとまたちがった趣があります。時間があれば、コブシや桜の時期に中之島公園、関宿水閘門を通って茨城県側まで行き、江戸川流頭部や関宿城を見てみてはいかがでしょうか。

(N)

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メルマガ 第22号(平成13年12月)             2001.12

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せきはく豆事典 ~関宿の偉人・船橋随庵~

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  千葉県の県北に位置する関宿町は、江戸時代利根川・江戸川の水運で栄えたところで大変繁栄していました。この町の3大偉人といえば、江戸時代の土木治水家船橋随庵・明治時代生まれの近代将棋の祖といわれる関根金次郎・終戦時の総理大臣鈴木貫太郎らがあげられるでしょう。

  今回は、江戸時代の偉人船橋随庵を取り上げてみましょう。

  船橋家は本国近江、生国は加賀となっており、随庵は初代から数えて6代目に当たります。船橋家は、代々武術に優れていたようで随庵も剣術の指南をしていたようです。随庵が、儒学者・土木治水家としての才能を発揮するのは、21代藩主久世広周(くぜ・ひろちか/1830~1862)の時でした。それまでの関宿藩の大方の藩領は、湿田や低地の水田が多く、一旦台風や大雨が有るとほとんど米がとれないところでした。苦労する農民の姿を見て随庵は、排水路の工事に着手したり湿田の乾田化を計り耕作可能な水田に改良する仕事を藩内いたる所で行いました。いつも農民の側に立った行政マンだったのです。

 随庵は、あまりにも農民側についたため、これに反発する他の藩士のために投獄されています。このような生涯を送った随庵は近年まで「船橋様」と呼ばれ、顕彰碑の前を子供たちがお辞儀して通っていたとの話が残っています。

   随庵には、多くの著書も残されています。

  なお、最近、船橋随庵の一生涯をまとめた本が以下の通り出版されました。

 

  『開削決水の道を講ぜん』  高崎哲朗 著   2,100円 

     2000.7.10       鹿島出版会

 

     是非隠れた偉人の生涯をご一読下さい。

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メルマガ 第21号(平成13年11月)                       2001.11

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せきはく豆事典 ~『利根川図志』~

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 江戸時代後期の安政5年(1858)、利根川流域の優れた地誌として名高い『利根川図志』が出版されました。著者は下総国布川村の医師、赤松宗旦。利根川中・下流域の風物や寺社旧跡を記した全6巻の書籍です。

 古河・関宿から始まり下流に下りながら河口の銚子まで、著者自身が見聞きしたり興味を持ったさまざまなことがらを、細密で美しい挿し絵と共に紹介しています。

 読み物として面白いだけでなく、古い遺跡の図面や河岸場の様子、祭礼行事や

伝説、漁業や物産など、記録に残りにくい風俗事象も多く記されており、当時の利根川の流域文化を知るには非常に貴重な記録といえます。

 民俗学の父、柳田国男は赤松宗旦ゆかりの布川の地で少年期を過ごし、その時

に目にしたこの本から、多くの示唆を得ています。のちに民俗学的上の重要なテーマとなった「弥勒信仰」や「御霊信仰」、「隠れ里伝説」などへ発展していく記述も見られ、本書は柳田民俗学の出発点ともいえます。昭和13年には柳田の校訂による岩波文庫本も刊行されています。

 ちなみに、関宿城博物館のマスコットキャラクターにもなっている河童も、非常にリアルな挿し絵が描かれています。

 岩波文庫本のほか、口語訳付きや解説付きでいくつかの出版社から刊行されていますので、興味のある方は図書館などでお探しください。

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メルマガ 第20号(平成13年10月)             2001.10

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せきはく豆事典 ~幕末の関宿藩士たち~

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先日、京都にお住まいの旧関宿藩士の子孫というお客様から、幕末の関宿藩の動向についてメールでご質問がありました。そこで、今回は幕末の関宿藩の様子をとりあげてみましょう。

 

 幕末の関宿藩主久世広周(くぜ・ひろちか)は、江戸幕府の老中として、「日米修好通商条約」の調印に携わったり、また、皇女和宮の降嫁を実現させて公武合体に奔走した人物です。しかし、それは結局は失敗に終わり、老中を罷免、一万石を削られ謹慎を命じられます。

 その後の藩主を継いだのはわずか10才、しかも病弱の嫡男広文(ひろぶみ)です。ところが時代は風雲急を告げる幕末期。慶応3年(1867)年、大政奉還が実施され、王政復古の大号令により、天皇中心の新政府が樹立しました。明けて明治元年、戊申の年、旧幕府側はこの新政府に反発し、京都を攻撃します。戊辰戦争の勃発です。

 関宿藩の藩士達は幼君を擁し、天皇につく「勤王派」と幕府を支持する「佐幕派」のまっぷたつに分かれ、藩内部で激しく対立しました。

 この年、、百余名の佐幕派藩士達は江戸深川藩邸にいた広文を守る、として関宿を脱走して江戸に駆けつけます。これに対し、勤王派は藩主を奪還しようとして、深川邸内で乱闘に及びますが数名が討死にし、目的は達せられませんでした。その後、佐幕派の一部は「万字隊」として上野彰義隊に投じて戦死、残った一派は広文を擁して各地に逃走しますが、結局は関宿に帰ってくることになります。

  当館でお預かりしている明治初期の『旧関宿藩士人名録』という資料には、当時の藩士の行動が記されています。それによると、関宿脱走 95人/上野山入 60人/奥州脱走 6人/深川邸死 5人/牢入 5人/東京在住 88人/関宿在住 283人 とあります。

 また、この明治初期の時点での「現今在京」者は94人を数えています。勤王派の藩士達の一部が、この事件を契機に京都に移り住んだと思われます。

 メールをいただいた方の数代前のご先祖様もこのような状況の中で、時代の行く末を案じて奔走した人物のお一人でした。

 学校で習う歴史の教科書は紙に書かれた事件の羅列ですが、現実の私たちの暮らしはそうした出来事の結果として成り立っているのですね。

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メルマガ 第19号(平成13年9月)              2001.9

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せきはく豆事典 ~治水共同体「領」のはなし~

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 台風の季節、テレビでは洪水対策や川の水量情報などのニュースが関心を集めます。

 洪水対策では、普通は川を堤防で固めて水があふれるのを防ぐ、というのが一般的です。しかし以前は、川を囲むのではなく、人の住む地域を丸ごと堤防で取り囲んでしまう、というやり方があったのです。自分たち自身が囲われていれば、たとえ川が氾濫しても大丈夫、という発想です。

 このように堤防で囲まれた集落形態として有名なのは濃尾平野の「輪中(わじゅう)」でしょう。木曽川・長良川・揖斐川などの水害から守るため、まさに堤防の輪の中に作られた集落形態です。小学校社会科の教科書にも取り上げられていますので、聞いたことがある、という方も多いでしょう。

 しかし、これと同じような集落群が関東平野にもあったこと、ご存知ですか?

 実は、利根川・江戸川沿いにもあったのです。これを「領(りょう)」と呼んでいました。但し、「輪中」がかなり人工的に堤防を作っていったのに対し、「領」は自然に発達した輪中状の自然堤防の中に集落が形成されたものです。

 現在の埼玉県東部、中条堤から下流の一帯に分布しています。特に中川流域は低湿地帯であったため、利根川・荒川からの水の被害を受けやすく、「領」も集中しています。

 一つの「領」の中にある多数の村々は強い結束力を持っていました。日頃も、一つの村だけではできないような堤防工事や用水路・排水路の整備などを共同で行い、また、洪水時には運命を共にする共同体として一致協力して対応にあたりました。行政単位とは違った意味での生活共同体だったのです。現在の埼玉県三郷市を中心に広がる「二合半領」という領には80以上の村があったといいます。

 現在は、河岸工事技術の発達によって実際に利根川や江戸川が決壊することはほとんどなくなり、この地域の人たちも、治水共同体「領」の存在を意識することは少なくなっているようです。

 しかし、川を制御する、という方法だけでなく、人間のほうが自然に合わせた生活空間を作っていく、という発想は、「自然との共生」といったスローガンが声高に叫ばれる今日、考えさせられるものがあります。

「領」について、詳しくお知りになりたい方は、

こちら↓↓↓ 

https://www.chiba-muse.or.jp/SEKIYADO/page-1519829515689/

https://www.chiba-muse.or.jp/SEKIYADO/page-1519017028924/

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メルマガ 第18号(平成13年8月)              2001.8

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せきはく豆事典 ~関東の水上交通権を掌握した関宿城主、簗田氏~

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 いよいよ9月から始まる企画展「戦国の争乱と関宿」。この展示の目玉はなんといっても、これまでほとんど世に出ることの無かった「簗田家文書(やなだけもんじょ)」です。これにより、関東の戦国史の新しい一面が明らかになってきました。

 そのさわりをちょっとだけご紹介しましょう。

 

 戦国時代初期、鎌倉公方(かまくらくぼう)足利家が室町幕府に反逆を図り、古河(茨城県古河市)に移り住んで古河公方(こがくぼう)を名乗ります。

  簗田氏はこの頃から足利家を助け、古河公方、足利家の筆頭家臣となっています。家臣とはいえ関宿に城を構えて河川の水上交通権を掌握していた簗田氏の存在は大きく、数代にわたって足利家と姻戚関係をむすんでいます。つまり簗田氏から嫁いだ女性の息子が次の古河公方に就くという構図ができており、単なる主従関係を超えた関係であったことが分かります。

 しかし、古河公方家の乗っ取りをもくろんだのが北条早雲に始まる後北条家です。

「関宿を手に入れることは一国を得ることに値する」とまで記されています。そして、ついに後北条家から足利家に嫁いだ女性の子が、簗田家筋の嫡男を押しのける形で古河公方となります。一時はこの後北条系の古河公方に居城を関宿から古河に移された簗田氏ですが、その頃、関東に進出してきた上杉謙信と手を結び、関宿に復帰します。

 その後も武田信玄や佐竹氏と手を結んだりしていますが、後北条氏の3次にわたる関宿攻撃(関宿合戦)で、ついに関宿城を明け渡すことになるのです。その後は後北条家に組み込まれますが、結局は簗田氏が2度と関宿城に戻ることはありませんでした。

 現在のゆったりした利根の流れを見ていると、そんな権謀術策と争乱にあけくれた日々が、ここ関宿の地にあったことなど想像もつきませんが、これまで埋もれていた新資料の発見により、関東の覇権を争う戦国大名達がいかにここ関宿を、すなわち水上交通の権利を欲したか、その一端を知ることができたのです。

 また、今回は、中世の関東の河川の流路や道の様子を描いたと思われる「下総之国図」(複製/原品船橋市西図書館蔵)も展示されます。これまで、近世より以前の下総の川の流路を知る資料はほとんど無かったのですが、これがもし本当に中世期の様子を描いたものだったとしたら、関東河川史の新しいページの扉を開くことになるかもしれません。

 「悠久の川の流れ」は、実は時代と共に変わっており、また、そこを行き交う人々の動きも、現在とは全く違っていたことでしょう。

(島田洋)

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メルマガ 第17号(平成13年7月)              2001.7

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せきはく豆事典 ~河童のはなし~

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 今回は、せきはくのマスコットキャラクターにもなっている、河童(かっぱ)君についてとりあげてみましょう。

 河童は日本全国の水辺に住む妖怪です。但し、地方ごとに色々な呼び方があり

ます。「カッパ」はその中でも東日本や九州における方言の一つで、河童という字から分かるように、川に住む子供の姿をしたものという意味です。カワワラワ、

カワッパ、カワコ、カワタロウなどと呼ぶところもあります。

  その他、ミヅチ(水蛇)、ガメ(亀)、エンコ(猿公)、ヒョウスベなど、動物に仮託した名前や、スイコ(水虎)、スイジン(水神)など、実に様々な名前があります。姿形も色々です。江戸時代になると、こうした各地の伝承をまとめて紹介するような書物なども現れ、次第に「河童」という名前や、甲羅に水掻き、頭に皿を乗せて相撲とキュウリが大好き、といった一つの型が定着していったのです。

 子供の髪型の一つ「おかっぱ頭」もこうした河童の姿から来ています。

 妖怪の中でも河童は多少とぼけた所があり、捕まえられて腕を取られたり、その腕を返して貰うために秘伝の薬を伝授してくれたり、というお話もあります。利根川周辺ですと、ネネコという関八州の河童の親玉が茨城県利根町で捕まって、傷薬を残していますし、千葉県佐原では与田浦在住の河童が伝えた膏薬が昭和48年まで作られていました。

 しかし一方、河童は、人や馬を水中に引きずり込んで溺死させたり、田畑を荒らしたり、といった恐ろしい一面も持っていました。人馬の肝や尻子玉を好むと言われ、水死者のお尻の穴が開いているのはそれが抜かれた証拠とされました。

 関宿町を初めとする利根川周辺でも、12月~1月頃に行われるカピタリ(川浸り)という行事があります。これは、子供が河童に引き込まれないように、つまり水難に遭わないようにと、餅をついて川に供えるものです。

 即ち河童は本来、川や水の霊、水神であり、恐怖と恩恵の両方をもたらす存在なのです。

 ちなみに、関宿町の河童は、利根側沿いの「妖柳(ばけやなぎ)」と呼ばれる大きな柳の辺りに住んでいて、以前は柳の位置を変えて見せ、船の方向感覚を惑わせたりしたそうです。

(榎美香)

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メルマガ 第16号(平成13年6月)              2001.6

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せきはく豆事典 ~西国大名が利根川を復旧?~

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 寛保2年(1742)、夏。台風による大洪水が利根川で起きました。この洪水は江戸時代でも最大規模のもので、江戸における溺死者は3,914人にものぼり、台風で関宿城も大破したと伝えられています。

 この大水害の後、幕府は復旧のための普請(ふしん…つまり工事のこと)を下のような西国の11大名に命じました。

  伊勢国(三重県)津       備前国(岡山県)岡山

  長門国(山口県)萩       周防国(山口県)岩国

  備後国(広島県)福山      越前前国(福井県)鯖江

  但馬国(兵庫県)岩城      讃岐国(香川県)丸亀

  豊後国(大分県)臼杵      日向国(宮崎県)飫肥

  肥後国(熊本県)熊本

これらの城主達にそれぞれ被害のあった利根川とその支流の河川を割り振って、復旧工事にあたらせました。これを「御手伝普請(おてつだいふしん)」と言います。

 工事延長は172里に及び、御手伝金は23万両、人夫は延べ100万人を上回ったと伝えられています。長州藩毛利家では重臣以下1,700名を派遣し現場にあたったようです。

 この工事の人足には地元住民すなわち水害の被災者当事者が雇われました。

人足に出れば、相応の賃金や米が支払われたので、人々は「御救普請」と呼んで生活の糧にしていました。つまり一種の被災者救済の公共事業という意味合いもあったようです。

 水害で困窮していた人々はわれ先に仕事をもらおうと詰めかけます。その数は定数をはるかに越え、雇いきれない人足を何とか帰そうとした役人が、詰めかけた農民から砂をかけられたり殴る蹴るの暴行を受ける、という事件が起こっています。また、人足が仕事中に怠けているのを見咎めた役人が、その村の者の賃金を差し引こうとしたところ、これに激昂した村人が大名方の小屋に乱暴した、というような事件の記録も残されています。

 この時代は、幕府に命ぜられると、遠い地方の大名達が見知らぬ土地の公共

事業も「お手伝い」しなければならなかったんですね。

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メルマガ 第15号(平成13年5月)              2001.5

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せきはく豆知識 ~利根川のトーセン~

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 関東平野を貫く大河、利根川。この利根川の「トーセン」って何だか分かります?知ってる人は知ってるかな?でも、日常的には耳慣れない言葉なのではないでしょうか。漢字で書くと東に遷す(うつす)と書いて「東遷」。江戸時代の初め頃、利根川の流れが東に遷っていったことをこのように言うのです。

 現在、利根川は、新潟・長野・群馬県の県境である三国山脈北部に源を発し銚子から海に注いでいます。ちょうど関宿からは千葉県と茨城県の境界線にあたっています。ところが、江戸時代初期まで、利根川は平野の中を幾筋にも分かれつつ東京湾へと注ぎ込んでいたのです。それが、天正18年(1590)の徳川家康の江戸入府を契機に、約60年にわたって利根川本流の開削工事が何回かにわたって行われていきました。その目的は、江戸のまちの洪水対策、河川交通の整備、新田開発と農業生産力の増強、などであったと言われています。川の流れを途中で締め切ったり、新たに川を作って別の川に注ぎ込ませたりしながら、利根川の流れは次第に東へ東へと移っていき、現在のように銚子に注ぐようになったのです。

 もう、「利根川のトーセン」と言われて「それって何?」と聞き返さなくても大丈夫!・・・かな!?

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メルマガ 第13号(平成13年3月)              2001.3

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せきはく豆事典 ~関宿城―その構造~

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 関宿城は、かつて利根川と江戸川を結ぶ逆川(ぎゃくがわ、さかさがわ)という川に面した所にありました関宿城を囲むようにして流れるこれらの川は、外壕の機能を有していました。しかし平地に立地した平城であったため、度重なる洪水に悩まされました。

 城郭の主要部にあたる主郭(しゅかく)には本丸、二の丸、三の丸、発端(八反)曲輪(くるわ)、天神曲輪といった区画が配置されました。本丸に天守閣があり、本丸を取り囲む二の丸や三の丸、各曲輪には上級家臣の屋敷や武器蔵・厩(うまや)などが置かれました。

 主郭の外側は外郭(がいかく)と呼ばれ、家臣団や関宿関所役人の屋敷が置かれました。

 本丸にある天守閣は古い記録によると江戸城富士見櫓(やぐら)を模して建てられました。その高さは9間5尺7寸五分、約18.1メートルありました。

 現在の天守閣は当時のままに忠実に再現したものです。

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メルマガ 第12号(平成13年2月)              2001.2

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せきはく豆事典 ~関宿城―その歴史~

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 関宿城の起源は長禄元年(1457)に古河公方足利成氏(しげうじ)の家臣簗田成助(やなだしげすけ)が水海城(みずうみじょう=茨城県総和町)から関宿に移って築城したこととされています。以来、関宿城は簗田氏の居城になりましたが、小田原の後北条氏にとっても北関東へ勢力を伸ばすために重要視しました。やがて両者は争い、天正2年(1574)に関宿城は後北条氏の支城となりました。

 天正18年の後北条氏滅亡後、関東に移封された徳川家康は異父弟の松平康元を関宿に配しました。これが関宿藩の始まりとされています。その後江戸幕府は小笠原氏、板倉氏、牧野氏といった譜代大名を配してきましたが、中でも久世氏が藩主として最も長く、同氏は老中や寺社奉行など幕府の要職にも就きました。

 幕末になると藩内は勤皇・佐幕派に分裂し、波乱の中で明治維新を迎えました。明治4年(1871)の廃藩置県で関宿藩が廃止されました。翌年には新政府の方針で関宿城の廃城が決定され、数年のうちにすべて取り壊されました。ここに400年余りに及ぶ関宿城の歴史に終止符が打たれたのです。

 ※次回は「関宿城―その構造」をお送りします。

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メルマガ 第11号(平成13年1月)              2001.1

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せきはく豆事典 ~河岸(かし)の成立~

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 河川交通の発達に伴い、流域には「河岸」と呼ばれる集落が誕生しました。この言葉は「魚河岸」や「河岸を変える(別の場所でお酒を飲み直す)」などでもおなじみですよね。河岸は舟運による物資輸送の基地であるとともに、これにたずさわる様々な職種の人々の生活の場でもあり、大変な賑わいを見せました。

 近世初期の利根川東遷(とうせん)という大規模な河川工事によって銚子から関宿を経由して江戸日本橋に至る河川交通路が成立しました。これをきっかけとして流域各所に自然発生的に河岸が誕生しました。当初は船着き場程度であったところも、藩や幕府直轄領の年貢米で舟運が大きな役割を果たすことに及んで河岸の規模が拡大してきました。特に元禄期以前に成立した河岸を「旧河岸」といいます。

 元禄期以降、江戸の経済的繁栄につれて年貢米の他商品荷物の輸送にも舟運が利用されるようになりました。このような舟運の需要増大に伴い、旧河岸以外の場所でも新たな河岸が成立しました。「新河岸」といいます。新河岸は、より早くより安い荷物輸送を望む荷主に応えて新たなルート(新道)を開発し、旧河岸の存在を脅かすほどにまで成長しました。また、新しい問屋の出現に対し、旧来の問屋が河岸の枠を越えて連合して代官所に河岸の取り締まりを訴えるなど、河岸内部でも新旧の対立が目立つようになってきました。

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メルマガ 第10号(平成12年12月)             2000.12

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せきはく豆事典 ~関宿の偉人~

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 関東平野の中心に位置する関宿は河川交通の要衝として、古くから歴史上の舞台になったところです。平岩弓枝さんの「御宿かわせみ 春の高瀬舟」をはじめとする小説や時代劇などに関宿がたびたび登場します。そしてここ関宿からは歴史に名を残す数多くの人々を輩出しました。

 ここでは新しい時代のふたりの人物を紹介します。

●鈴木貫太郎(すずきかんたろう 1867~1948)

 関宿藩家臣鈴木由哲の長男として藩の飛地領である和泉国大鳥郡伏尾(大阪府堺市)に生まれました。日清・日露戦争で活躍し、海軍大将になりました。昭和4年に侍従長になり、天皇に仕えました。同11年の2.26事件で反乱軍に襲撃され眉間や心臓など3箇所に銃弾を受けましたが、奇跡的に一命を取り止めました。

 枢密院議長を経て昭和20年、小磯国昭内閣の後を受けて内閣総理大臣に任命されました。時は太平洋戦争の末期という重大な局面の中で主戦派の徹底抗戦論に屈せずに同年8月14日ポツダム宣言受諾を決定し、翌15日終戦の証書を発表後に内閣総辞職を行いました。

 再び枢密院議長に就き、日本国憲法の成立に関与しましたが、その後は関宿で余生を過ごし、昭和23年に亡くなりました。墓所は関宿町の実相寺(じっそうじ)にあります。また、同町内の鈴木貫太郎記念館(0471-96-0102)では軍服やサーベルなど数多くの遺品が展示されています。

●関根金次郎(せきねきんじろう 1868~1946)

 関宿町東宝珠花(ひがしほうしゅばな)で生まれ、幼い頃より将棋に夢中になり、大人もかなわないほど将棋が強く「宝珠花小僧」と呼ばれるようになりました。第11世名人伊藤宗印の弟子となり、全国各地を遊歴しながら実力を高めていきました。大正7年には第13世名人を襲位しました。関根は江戸時代から続く名人の襲位制を廃して実力名人制に改めるなど棋界革新を断行し、近代将棋制度の基礎を築きました。歌『王将』のモデルとなった大阪の坂田三吉とは宿命のライバルで、数多くの名勝負を重ねてきました。

 生地の東宝珠花には将棋の駒の形をした墓碑があります。そしてこのほど関宿町に日本将棋連盟関根金次郎支部が置かれ、明日の関根金次郎を目指す人々が将棋の練習に取り組んでいます。

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メルマガ 第9号(平成12年11月)              2000.11

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せきはく豆事典 ~関宿の関所~

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 江戸時代、旅人が関所役人に通行手形を差し出して関所の通行許可を願い出る場面はテレビの時代劇でおなじみの場面ですね。江戸幕府は「入鉄砲・出女」を統制するため、各地に関所を設けました。東海道の箱根、中山道の碓氷(うすい)、甲州街道の小仏(こぼとけ)などが代表的な関所です。関所は街道だけではなく河川交通の重要地点にも設けられました。関宿関所もその1つです。江戸川の流頭部には棒出し―江戸川への水量を減少させるための東西の対(つい)の堤―がありましたが、関宿関所は東棒出し(現在の埼玉県幸手市西関宿)あり、その管理は関宿藩が行いました。

 関宿関所は水番所として利根川水運の監視を行っていたことに大きな特色があります。このような関所は松戸(千葉県)、栗橋(埼玉県)、五料(群馬県)などにも設けられました。

詳しくはこちらで↓↓↓

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メルマガ 第8号(平成12年10月)              2000.10

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せきはく豆事典 ~関宿藩の専売「猿島茶」~

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 江戸時代、諸藩では財政の建て直しの一環として藩政改革が行われました。この中で、財政収入を目的として領内特産物の独占的な生産・販売が行われました。これを専売制度といいます。仙台藩の塩、天童藩の紅花、和歌山藩のみかん、会津藩や熊本藩の蝋(ろう)などが代表的で、今日まで受け継がれている特産物も数多くあります。

 関宿は利根川舟運の中継地として隆盛を極めましたが、その一方で水害などの影響で農業生産力は高い位置にありませんでした。この状況を打ち破るために関宿藩は茶栽培を奨励しました。岩井の中山元成、境の野村佐平治らが茶の品種改良や製茶法の改善に力を注ぎました。これが「猿島茶」といわれるもので、彼らの努力によりその名が広く知れ渡るようになりました。そこで関宿藩は嘉永6年(1853)、江戸に物産会所を設立して猿島茶を独占的に販売しました。こうして猿島茶の名声が一層広まり、欧米に輸出されるようになりました。

猿島茶の伝統は現在も息づいており、境町など猿島地方を歩くとお茶の看板を目にすることができます。

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メルマガ 第7号(平成12年9月)                2000.9

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せきはく豆事典 ~関東流と紀州流~

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 近世の治水土木工法の代表的なものに関東流と紀州流がありました。

 関東流は関東郡代伊奈一族が用いた工法です。蛇行(だこう)する河川に乗越堤などの流出用堤防を予め設けておき、それに隣接して遊水池(ゆうすいち)も設けます。増水時に川の水を緩やかに流出させて洪水を防ぎました。

 紀州流は井沢為永が開発した工法です。関東流で設けられた遊水池を干拓して耕地として利用し、あわせて川筋を直線的に改修し、周囲に連続した高い堤防を築いて洪水を防ぐというものです。

 これら治水土木工法は数多くの洪水とのたたかいの中であみ出されたもので、その技術は今日の治水工事にも活用されています。

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メルマガ 第6号(平成12年8月)               2000.8

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せきはく豆事典 ~久世大和守(くぜやまとのかみ)~

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 古いところでは「樅の木は残った」(’70)、最近では「八代将軍吉宗」(’95)、「徳川慶喜」(’98)。これらNHK大河ドラマに登場したのが久世大和守(くぜやまとのかみ)です。それぞれ久世広之(ひろゆき 1609-79)、重之(しげゆき 1660-1720)、広周(ひろちか 1819-64)で、3人とも関宿藩主であるとともに、江戸幕府最高位である老中(ろうじゅう)という職に就いていました。

 広之の時代は、幕府の政策がこれまでの武断政治から文治政治へと移行する時期であり、広之は老中として法令の諸整備を実施しました。「樅の木は…」は仙台藩伊達家お家騒動を題材としたものですが、広之は将軍徳川家綱や大老(たいろう)酒井雅楽頭(うたのかみ)忠清の命を受けて騒動の収束を図りました。

 徳川宗家が絶え、紀州和歌山藩主から八代将軍に就任した徳川吉宗を老中として補佐したのが重之でした。幕藩体制の安定化を図るための法令整備や目安箱の設置、通貨の統一、新田開発などの諸政策、いわゆる享保の改革の実施に重之は尽力しました。

 大老井伊直弼(いいなおすけ)が断行した安政の大獄を批判し、老中職を追われたのが広周です。井伊が桜田門外の変で横死の後に再び老中に返り咲きました。広周は同じ老中の安藤信正とともに「久世・安藤政権」をつくり、開国政策をきっかけとして対立した幕府と朝廷の融和をはかるために公武合体政策を押し進めました。そして孝明天皇の妹和宮(かずのみや)と将軍家茂(いえもち)の婚姻実現を図りました(皇女和宮降嫁)。

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メルマガ 第5号(平成12年7月)               2000.7

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せきはく豆事典 ~関東のヘソ~

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 千葉県の北西端にある関宿。地図を見ると、地元の方が「関東のヘソ」と胸張って自慢されるのも頷けます。まさに関東平野のド真ん中といってもいい位置にあるのですから。

 川が複雑に入り組むこの地は歴史上の舞台として重要な役割を果たしました。特に戦国時代は越後(新潟県)の上杉謙信、甲斐(山梨県)の武田信玄、相模(神奈川県)の北条氏綱・氏康といった有力戦国大名が関東平野に自己の勢力を伸ばそうとしていました。彼らにとって関宿はどのような意味があるのでしょうか?それを探る手がかりになるのが当時の文書に見られる次の文言です。

 「抑彼地入御手候事者、一国を被為取候ニも不可替候」

 なんだかずらずら漢字が並んでいて難しそうですが、「彼地」つまり関宿を手に入れることは一国を手に入れるのと同じ価値があると言っているのです。この関宿の地を支配したのが古河公方足利氏の筆頭家臣簗田(やなだ)氏です。簗田氏は利根川水上交通支配権を背景に勢力を強めましたが、やがて北条氏は三次にわたる戦い(関宿合戦)を経て関宿を勢力下におきました。北条氏滅亡後、徳川家康は弟の松平康元を関宿に配しました。これが関宿藩の始まりです。

 世の中にヘソは数多くあれど、関東のヘソは実に奥深いものなのです。

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メルマガ第4号(平成12年6月)                2000.6

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新コーナー せきはく豆事典 ~川の3兄弟!~

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 ご質問に便乗して急きょ新しいコーナーを作りました。

 「坂東太郎」の由来ですが、そもそも坂東とは足柄峠(神奈川県)や碓氷峠(長野県)より東の地域をさします。そこを流れる日本一の川、つまり長男なので坂東太郎という愛称で親しまれたのです。流路延長322キロメートル(信濃川に次いで国内第2位)、流域面積16,840平方キロメートル(国内第1位、東京ドーム526,250個分!!)。この数字を見れば納得ですね。

 せっかくですから次男と三男も紹介しましょう。次男は九州北部を流れる筑後川(流路延長143キロメートル、流域面積2,860平方キロメートル)で「筑紫次郎(つくしじろう)」、三男は高知県・徳島県を流れる吉野川(194キロメ

ートル、3,750平方キロメートル)で「四国三郎」と呼ばれました。

 だんごや河川以外にもいろんな3兄弟がありそうですね。

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関宿城博物館