関所通行手形

第3回 関所通行手形

関所通行手形

一、此弐人、江戸より野州芳賀郡小貫村迄罷越候間、御関所無相違御通可被下候、為後日仍如件、湯嶋天神門前町

家持

天明八申年四月四日

谷右衛門(印)

関宿
御関所
御番衆中様

江戸時代、旅人は関所通過の際に通行手形を必要とした。この手形を示して関所役人に通過許可を願い出る場面は、テレビの時代劇でもおなじみである。

本資料は、小貫村(栃木県茂木町)へ旅行する2名の店子(たなこ)の関所通過の許可をえるために、江戸湯島の家主が発行した通行手形で、宛ては関宿関所の役人となっている。

近世の関所は「入鉄砲、出女」を統制するために江戸幕府が主要街道に設置したもので、なかでも関宿関所は箱根や碓氷などとともに「最重要関所五十三」に位置づけられていた。

関宿関所は、現在の埼玉県幸手市西関宿にあった棒出し(権現堂川から江戸川に流入する水量を減少させる堤)に置かれ、その管理は関宿藩が行った。

関宿関所は、街道の取り締まりのみならず、水番所として水運の監視も行っていたところに大きな特色がある。奥原謹爾著『関宿志』によると、関所は午前6時から午後6時まで開けられた。往来する川船の下審査を河岸問屋が行い、関所役人は下審査済み書類の捺印を見て、「きがいびっぽう」と叫びながら取調完了の宣告をした。

明治二年(1869)、関宿関所は他の関所とともに廃止された。近代の河川改修による江戸川拡幅のため、関所の面影は残されていない。

(学芸課 島田 洋 / 1997年)

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