利根運河改修請願資料

第16回 利根運河改修請願資料

利根運河改修請願資料

利根運河開通前は、利根川本、支流さらに霞ヶ浦、北浦等の船は関宿を経由していた。しかし、鬼怒川合流点から関宿までの利根川は浅瀬が多く、渇水時には船の通行が困難という問題点があった。
明治になり、東京・千葉・茨城の一府二県の知事は時の内務大臣山県有朋に運河開削の必要を陳情した。運河の設計に当たったのはオランダ人技師ムルデルで、工事は明治二十一年(1888)に開始され同二十三年に竣工した。千葉県葛飾郡新川村深井新田(現流山市)と同郡田中村舟戸(現柏市)までの江戸川と利根川を結ぶ全長約8kmの運河が開通し、多くの船が往き来するようになった。

利根運河開通後何度か水害に襲われている。明治二十九年の大洪水の際は、江戸川の防堤が決壊、明治四十三年、昭和十年、同十三年の洪水では水堰の破損などの被害を出している。その都度補修を施しているが、昭和十六年に至っては殆ど船の運航に耐えざる現状であった。そこで、昭和十六年四月二十三日に利根運河改修促進実行委員会により内務大臣宛に出されたのが、今回紹介する資料である。

時代は戦時色が強まる中であり、陳情書の中でも水運の必要性を述べている。特に軍需生産資材等の輸送に力点を置いていることがわかる。「速やかに改修をし、治水の完璧を期すると共に、水運交通の利便を増し、生産の確保と時局対応に善処し併せて地方民をして安堵させ、大政翼賛の誠を致さしめんことを」と陳情書は結んでいる。

しかし、昭和十六年七月の大洪水により利根運河の水堰が破壊されるなどの被害を受けた。同年十二月には利根川の洪水を防ぐ計画のため政府により利根運河会社は買収され、開通以来江戸川と利根川を結ぶ水運路としての役目を終えた。

(学芸課 額賀 栄司 / 2003年)

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