醤油看板

第10回 醤油看板

醤油看板

野田における醤油産業の嚆矢は戦国時代まで遡るとされる。永禄年間に飯田市郎兵衛の醤油が甲斐武田信玄に納められ、川中島合戦でその美味が士気を鼓舞したので、「川中島御用溜醤油」と名付けられたという伝承がある。

史料的に創始が確認できるのは高梨兵左衛門の寛文元年(1661)で、その100年後には茂木七左衛門の他多くの家が醤油醸造を始め、天明元年(1781)には七家による野田醤油仲間が結成された。このように野田において醤油産業が活気を呈した背景は、原材料となる大豆や小麦の確保が容易であったことや、麹菌の繁殖に適した温暖な気候であること、そして江戸川に面していて8時間余りで大市場江戸へ製品を供給できるという地の利を得ていることである。また、北関東で養蚕業が盛んになったために自前醤油造りから購入という習慣の変化によって需要が拡大したことも看過できない。大正六年、野田の醤油醸造家が合同して野田醤油株式会社を設立した。現在のキッコーマン株式会社である。

今回紹介する醤油看板は明治初期のもので、看板右に醸造元として「千葉県野田町茂木房五郎」とある。先述の野田醤油仲間の1つである茂木七郎右衛門(2代目)から分家し、「安楽(あらく)」と通称された。中央の登録商標は「水上」を図案化したものであるが、これは利根川の水源である大水上山から連想したものであろうか。

この看板を掲げた店舗が左に「大販売店」とある「下総国境町青木伝太郎」で、茂木房五郎家の販売代理店として醤油と醤油粕(肥料として用いられる)を商っていた。野田から高瀬船で運ばれたこれらの品々を別の船や荷車に積み替えて、猿島郡をはじめ常総地方の広範囲で販売活動を展開した。青木家は伝太郎一代限りで醤油販売を廃業したようである。

看板を見つめていると醤油の香りとともに青木家の往時の活気を偲ぶことができよう。

(学芸課 島田 洋 / 2000年)

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