第6回 起請文
起請文(きしょうもん)とは神仏に誓約する言葉を書き表した文書で、厄除けの護符を意味する牛王宝印(ごおうほういん)を押した料紙が用いらた。起請文の構成は、誓うべき事柄を書いた「前書」と神仏の名称を列挙記名した「神文」から成る。
牛王宝印を用いた起請文の初見は13世紀後半であり、中世末戦国時代においては緊張・対立関係にある者同士が一時休戦の意味を込めて起請文を取り交わす例が多く、誓約が後々までその効力を維持する例はほとんどなかった。
今回紹介する起請文は、天文二十年(1551)に相模国小田原の戦国大名北条氏康が古河公方足利氏の家臣で関宿城主の簗田晴助に宛てたもので、那智滝宝印が押された料紙が用いられている。神文には「梵天帝釈」「八幡大菩薩」「天満大自在天神」「三嶋大明神」「伊豆箱根両所権現」「惣而日本国大小神祇」が列挙され、誓約を守らなかった場合はこれら神仏の罰を受けるものとしている。
当時簗田氏は古河公方足利氏の筆頭家臣であるとともに、公方家臣と姻戚関係にあり、公方権力の中核的存在であった。しかし四代古河公方足利晴氏と北条氏綱の娘との婚姻成立を契機に、北関東への勢力伸張を図る後北条氏は公方権力に介入していく。
起請文には「晴助御覚悟相違之儀、御表裏之儀、至于有之者、彼神罰可帰御身候」とあり、簗田氏への強圧的な姿勢がうかがえる。しかし一方では「於氏康も対申晴助、不存別心所」「関宿御難儀之時、不可見離事」を約束しており、後北条氏が公方権力の形骸化を目論む過程で簗田氏への対処が最大の課題であり、その方策をめぐって苦慮していたことが容易に想像できる。
その後両氏の対立は激化し、天正二年(1574)に簗田氏は関宿城を明け渡した。
(学芸課 島田 洋 / 1998年)
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