火之御番并御防

第5回 火之御番并御防

火之御番并御防

俗に「火事と喧嘩は江戸の華」と言われたが、家屋が密集した江戸では、「振り袖火事(明暦の大火)」や「八百屋お七の火事」など数多くの火災が発生した。時代劇では鯔背(いなせ)な町火消が纏(まとい)を掲げて大活躍するのが定番だが、江戸城の消火は大名火消が担当した。

大名火消は江戸幕府が大名に命じた火消役で、寛永十八年(1641)の桶町火事をきっかけに、翌々年に組織された。大名火消の任務は江戸城本丸・二ノ丸・西ノ丸のほか、寛永寺・増上寺・浅草寺米倉など重要施設の防火・消火であった。

火災の際にはものものしい火事装束に身を固め、隊列を整えて粛々と出動したと言われる。当時の消火法は、風下(かざしも)の建物を壊して延焼を防ぐ破壊消防が主であった。

今回紹介する資料は、旧関宿藩士石塚家から寄贈されたもので、十六代藩主久世重之から二十代広運までの「火の番」としての配備場所や当番日が記されている。当番に割り当てられた日は二ノ丸・西ノ丸・桜田門・紅葉門などの各所に詰めていたことがわかる。

藩主久世氏といえば、老中や寺社奉行として幕府の中枢の位置にあったことは有名だが、他の大名と同様に大名火消として江戸城の防火の任務に当たっていたことがわかる。久世氏はその他にも大手門や桜田門・半蔵門の門番や、要人の警護などの任務についており、江戸では多忙な日々を送っていたことがうかがえる。

本資料は右の内容以外にも久世氏の系図や戒名・墓所、藩領、役職家臣の席順などが記録されており、関宿藩の実情を多方面に知ることのできる貴重な資料である。

(学芸課 島田 洋 / 1998年)

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