梵天ぼんてんにみる房総ぼうそう出羽三山でわさんざん信仰

写真:金田三山講の梵天

平成23年(2011年)度企画展「出羽三山と山伏 ―はるかなる神々の山をめざして―」では、千葉県内33地域の皆様の御協力を得て、さまざまに特徴のある「梵天」を展示させていただきました。企画展をもとに、民俗資料としても貴重な各地の梵天と、今に伝わる出羽三山信仰をご紹介します。

千葉県立中央博物館 歴史学研究科
作成公開 2013年3月
更新 2019年3月

梵天収集地

1.出羽三山信仰と梵天

出羽三山と房総
出羽三山と房総

 神社や寺院境内の一隅に、あるいは墓地の一角に、または集落のはずれに、羽黒山・月山・湯殿山という山の名を刻んだ石碑が並んでいる光景に出会うことは、千葉県ではめずらしくありません。土を盛りあげて作られた塚の上に、江戸時代の小ぶりなものから平成の年号の大きなものまで、10基を超える石碑が立ち並ぶ様子を不思議に感じたり、厳かな印象を持たれた方も多いのではないでしょうか。
 羽黒山・月山・湯殿山とは、山形県のほぼ中央に位置する山々で、総称して出羽三山と呼ばれています。山岳信仰の霊場として今も多くの参拝者を集めていますが、千葉県は全国的に見てもとりわけ出羽三山への信仰が盛んな地域として知られており、「男は一生に一度は三山(サンヤマ)に行くもの」という意識が根強くあります。サンヤマといえば千葉県では出羽三山のことで、サンヤマへの登拝を「奥州参り」といいます。出羽三山への登拝は、山に集まる先祖の霊を供養するためであり、また、山を巡ることで生きながらにして死後の世界を体験し、穢れに満ちた身を捨てて蘇ること(擬死再生)ができると考えられています。そして登拝をすませると一般の人とは異なる「行人ぎょうにん」となり、「三山講」「奥州講」「八日講」などと呼ばれる講のメンバーとなって、地域の安泰や豊作などを祈願する行事に参加します。
 三山への登拝は、同年代でまとまって一生に一度だけ行くという地域と、毎年あるいは2年に一度など頻繁に、講全体で繰り返し行く地域があります。同年代でまとまって一度だけ行くという地域では、帰って来ると記念の石碑を建てます。頻繁にでかける地域では、梵天供養という行事を行う際に記念の石碑を建てます。塚に並ぶ石碑には、その地域の出羽三山登拝の歴史が刻まれているのです。
 そして、山へ出かける前や記念の石碑を建てる際に、また行人たちの祈祷行事において「梵天」というものが作られています。紙と竹で作られる梵天は三山信仰の標ともいえるものですが、地域ごとに形や立て方、行事の行い方がさまざまに異なっています。
 平成23年度企画展「出羽三山と山伏―はるかなる神々の山をめざして―」では、県内33地域の皆様の御協力を得て梵天を展示し、梵天を通して県内各地の出羽三山信仰の在り様を紹介させていただきました。

2.梵天はいつ立てるか

奥州参り

出羽三山へ登拝する際、かつては行人の集会所である「行屋ぎょうや」の前などに梵天を立て、厳しい精進潔斎が行われました。そして奥州参りに出かけている間には、家族が毎日、無事を祈り、のどが乾かないよう、食べ物に困らないようにと、梵天に水や米を備えました。奥州参りは新たな命を得て蘇る「死出の旅」であり、梵天は仮の墓標だともいわれます。

梵天供養

千葉市南部から市原市、長柄町、長南町などの地域では、今も毎年のように出羽三山に登拝する地域がたくさんあります。出羽三山に初めて登拝する「新行しんぎょう」は、「腰梵天」と呼ばれる木札を宿坊で受け、これを身に着けて山へ登ります。参拝を重ねて腰梵天を持つ人が増えると、記念碑を建て、腰梵天を埋葬して供養します。行人の生前供養の意味があります。かつては万灯まんどう山車だしが曳き回され、近隣からも大勢の見物人が集まって賑わいました。

地区の行事

上総地域では多くの地域で、今も毎月のように講の集まりを持ち、拝みごとをしていますが、そのたびに梵天を作る訳ではありません。正五九しょうごく の月に年3回、あるいは冬と夏、または春と秋に、年2回作る例が多いようです。「冬行」「寒行」などと呼ぶところがあるように、かつては季節の節目に行う「ぎょう」の意義を強く持っていました。

現在は、年末や正月に一年の感謝と新年の祈念、春は災いや疫病除け、夏は水難者の供養、あるいは彼岸や盆に先祖供養と、年間を通じて、また地域によってさまざまな梵天行事が行われています。

一方、北総地域では「天道てんどう念仏」が特徴的です。春のはじめに天候の順調なめぐりや地域の安寧を祈る行事です。

葬儀

行人が亡くなると、梵天を作り、墓地に立てて送ります。死者には、三山を登拝したときに身に着けた行衣を着せ、杖や笠を持たせます。山へ行かずに亡くなると行人としての葬儀を営んでもらえないこととなるので、三山登拝は死支度ともいわれます。

3.梵天の色と形

①梵天の数

梵天は3本をひと組で、あるいは1本で立てる場合があり、また地域によっては4本や5本、6本を記念碑の周囲を囲むように立てるところもあります。葬式においても、1本、3本、4本、5本、場合によっては8本、9本など、地域によって立て方も本数も様々です。同じ地域でも、亡くなった方の行人としてのレベルによって本数が変わる場合もあります。
 このような梵天の本数の違いの由来や意味を考えるための資料が、君津市俵田の飯田家に遺されています。『湯殿山月山羽黒山行人次第記』と『御湯殿山縁起祭文禮拝之次第』という江戸時代中期の文書です。ここには、3本の梵天が大日、阿弥陀、釈迦を表し、即ちそれは仏の三身さんじんである法身ほっしん報身ほうじん応身おうじんをあらわしていること、立てる場面によって梵天の数が3本、5本、8本、あるいは1本の場合などがあり、それぞれの梵天があらわす神仏も変わることが記されています。「湯殿行」という修験の行のしつらえが、房総各地で伝承される過程で次第に変化を遂げ、現在の本数の違いとなったと考えられます。

②白梵天と色梵天

梵天には白い紙だけで作るものと、赤・黄・緑・青などの色紙も使って作るものがあります。修験の五智・五仏・五行は青黄赤白黒の五色で表現されるので、神仏分離の影響により色梵天から白梵天に変化した例もあったのではないかと想像されます。
 一方、ひとつの地域で白梵天と色梵天を作り分けているところがあります。作り分けはさまざまで、3本を1組として作る際に、中央の「親梵天」だけに色紙を用いる例が市原市飯沼、同上高根、木更津市有吉、一宮町中ノ原にあります。また奥州参りの前に立てる梵天で、新行しんぎょうは白、2回目以上の行人は色(赤)とするのは、市原市上高根、長生村金田です。
 葬式とほかの行事で作り分けている例もあります。四街道市内黒田、市原市朝生原では葬式にだけ色梵天を作り、逆に市原市不入斗、千葉市南柏井では葬式だけが白梵天です。
 また白梵天の使い方として特徴的なのは、たとえば八千代市吉橋花輪区や同勝田の天道念仏で、5本の色梵天の棚から1本だけを離して立てる梵天が白であるような形です。千葉市南柏井でも棚を作る5本の色梵天のほかに1本の白梵天を作り、これは最後に川のほとりに立てます。佐倉市上志津でも水神様に立てる梵天だけが白であり、1本の白梵天には特別の意味がこめられているようです。

③梵天の細部に宿る意味

梵天の藁ヅトには、垂れ紙だけでなく三角の紙、竹串、切れ込みを入れた細い紙を巻いて花のようにしたものなどが挿し込まれますが、これらが持つ意味も興味深く感じられます。特に花のような飾りは地域によって「松葉」「花」「ハガチ」などと呼ばれていますが、伝統的な葬具として作られてきたシカバナと同様のものです。また三角の紙は三山をあらわしていると説明されることが多いですが、かならずしも3枚ではなく、1、5、6、8、9枚の例があります。木更津市有吉ではこれを鎌といい、何もつけない竹串を鍬としています。長生村金田のように三角が1つの梵天は他に例がありませんが、梵天は山へ行く人の身代わりであり、また山へ行くと人は一度死んで、新たな命をいただいて蘇って帰ってくるのだという説明をオーバーラップさせると、三角は死者の標かとも連想されるのです。一方で不入斗では藁ヅトの頭には三角を3本立てますが、梵天の元には八角の紙を2枚重ねて8本の三角を挿します。これは大日如来の座す八葉はちようではないかと考えられます。
 また、八千代市勝田で黒く塗った割竹を「カラス」といい、長柄町刑部では幣束を「太陽」、割竹を「月」というのは、太陽の使いをカラス、月の使いをウサギとして対置させる修験道の観念によるものでしょう。また、千葉市南生実町や木更津市有吉、長南町蔵持では建前で用いる日の丸扇をつけますが、大日如来を本尊とすることから発想されたものでしょうか。
 これらの由来や意味を地元でお聞きすることはほとんどありませんが、それぞれの地域で長い年月の間に梵天の細部の意匠にも取捨選択が行われ、形や意義に変化が加えられてきたのではないでしょうか。

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