木野子きのこ奥州講(佐倉市)

調査時期:2011年4月、5月

写真

木野子奥州講では、一緒に山へ行った仲間で、別々に行事を行っています。昭和60年登拝の方々は7月下旬に公民館で出羽三山の掛け軸をかけ、梵天を作ります。
墓地の供養塚を4本の梵天で囲い、中心に大きな梵天を1本立てて、それぞれを麻で結びます。

梵天の作り方

「かんざし」の柄にする竹を割る
「かんざし」
垂れ紙を折る
藁ヅトの元を切り揃える
垂れ紙を麻紐に挟む
大梵天の頭

手順

  1. 藁束を元から20センチほどのところを縛って折り返し、麻紐で縛る。切り揃えて半紙を巻き、上下2か所を麻紐で縛る。1つは大きめに作り、5本それぞれマダケの支柱を挿す。
  2. 半紙をそのままの大きさで3枚重ねにして切れ込みを入れ、3回折下げて垂れ紙を作る。
  3. 垂れ紙を麻紐に挟むようにして3組下げる。大梵天には同じ3枚重ねの半紙で作った垂れ紙を4組下げる。
  4. 5本の梵天のどれも、上に三角の「かんざし」を5枚挿す。
  5. 支柱の中ほどにサカキの小枝を麻紐で結ぶ。

現在の行事と梵天

一緒に山へ行った仲間で別々に行事を行っている。昭和60年に登拝した人たちは7月20日前後の日曜に年1回集まる。それ以前に登拝した先輩たちは春と秋の彼岸に年2回集まっている。どちらも公民館に三山の掛け軸をかけ、梵天を作って供養塚に立て、その後直会を行っている。梵天は白いものを5本作る。供養塚の四方を小さな梵天で囲い、中心に大きな梵天を1本たて、それぞれを麻で結ぶ。唱えごとは伝わっておらず、二礼二拍手一礼のみ。

昭和60年の会では登拝後およそ10年後に、再度三山へお礼参りに行った。また2年に一度、親睦旅行を行っている。4人ずつ2年間、当番をつとめ、旅行が終わると次の当番に引き継いでいる。

三山登拝の近況と梵天

およそ10年に一度、同年代の人たちでまとまって三山に行く。一生に一度のことで、山へ行くと奥州講に入ったが、昭和60年に登拝した人は17人と多かったので独立し、その前に行った人たちとは別に行事を行っている。その後平成11年に行った人は会を作らず、先輩たちの講にも入っていない。宿坊はずっと林坊だったが、絶えてしまったため昭和60年から生田坊になった。

山へ行く前に梵天を立てることはなく、腰梵天を宿坊から受けてくることもないが、山へ行った翌年に記念の石を立てる。昭和61年の石立てには宿坊から拝みに来てくれた。

行人の葬式と梵天

奥州講の人が亡くなると、三山で判を押してもらった晒の布(本来は袢纏)を棺に入れ、また白い梵天を5本作ってイシラント(墓石)に立てた。当地区ではかつては埋め墓と参り墓が別々だった。昭和60年登拝の仲間のうち一人が亡くなったときに梵天を作ったが、これが最後になるのではないかとのこと。

梵天や行事の変化

昭和62年にノートに記した「梵天のつくり方」では、大梵天には5枚重ねの半紙で作った「かざり」(垂れ紙)を3組下げるとあり、今回の大梵天の垂れ紙とは、重ねた半紙の枚数も下げた組数も異なっている。またノートには、梵天の頭に三角の紙をはさんだ「かんざし」と何もはさまない「くし」を3本ずつつけると記されているが、今回作成された梵天には「かんざし」が5本で「くし」はなかった。