下志津新田しもしづしんでん出羽三山講(四街道市)

調査時期:2011年4月

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下志津新田出羽三山講では、1・4・7・11月に八日講の集まりを持っています。4月に梵天行事を行い、金毘羅神社境内の集会所で梵天を作ると、墓地の梵天塚へ持っていきます。3本の白梵天を中心に立て、色梵天5本を結界とします。梵天塚まで行く途中、2つある角を曲がったところで二手に分かれ、「国つ神」「天つ神」という掛け合いをくりかえします。

梵天の作り方

藁ヅトを作る
垂れ紙を貼る
垂れ紙とサカキをつける

手順

  1. 藁をまとめ、折り返して8本の藁ヅトを作る。
  2. 白梵天の垂れ紙は半紙を8分の1にして用いる。色梵天は、かつては半紙判の特別な色紙を用いていたが現在は入手が難しいため、文房具店などで購入できる普通の色紙を使っており、赤・黄・オレンジ・黄緑・空色など色とりどりである。切込みを入れ、3回折りさげて作る。
  3. 藁ヅトに半紙を巻き、切り口を下にして、垂れ紙を三段に、ぐるりと貼りつける。
  4. 頭に幣束1本を挿し、少し下がったところへ斜めに三角2本を挿す。これはすべて白い半紙で作る。
  5. マダケの支柱を挿し、中ほどに半紙を巻いてサカキを挿し、垂れ紙をつける。
  6. 梵天塚では、白3本の梵天は竹のヒネで1組に結わえ、梵天塚の中心奥まったところに立てる。色梵天は塚の周囲に4本を立て、さらに右奥に1本を立て、これを「離れ梵天」という。色梵天5本を紐で結んで結界を作る。

現在の行事と梵天

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金毘羅様を出る
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「国つ神」「天つ神」の掛け合いをする
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3本の白梵天を結わえ、塚の中心奥に立てる
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4本の色梵天で囲み、右奥に「離れ梵天」を立てる

江戸時代後期に成立した新田村であり、明治期に全戸移転の歴史も持つ地域である。 八日講は、もとは毎月のように行っていたが、今は1・4・7・11月だけになり、1月は月末に、ほかは8日に行っている。4月には梵天行事を行い、金毘羅様の境内にある集会所で白3本、色5本の梵天を作り、梵天塚に立てて拝む。金毘羅様の前と、梵天塚までの途中に2つある角を曲がったところで二手に分かれ、「国つ神」「天つ神」という掛け合いを3回くりかえす。この行事は、行人の葬式のやり方を伝えているのではないかとのこと。宿坊から檀那廻りに来る年は、その日にあわせて行う。

三山登拝の近況と梵天

「奥州参り」には10年に一度くらい、人数がまとまると行く。最近は地区に墓地を持たない新しい家の人にも声をかけているので、山へ行っても正月のお札はいらないという人がいる。直近では昭和58年、平成7年、平成17年に行った。ほとんどが一生に一度だけの登拝で、経験者が先達となって連れていく。宿坊は神林。2年に1度、3月ころに来訪がある。暮れにお札を送ってもらうのは44軒で、これが講員の人数になる。

三山へ行くときに梵天を作ったということはない。山へ行った翌年、墓地のはずれにある梵天塚に記念碑を立てる。宿坊で腰梵天を受けてくるが、行衣や宝冠などといっしょにしまっておくだけで、記念碑の下に埋めることはない。

行人の葬式と梵天

行人が梵天を作ったかつての葬式(昭和7年・こう 提供写真)

三山へ行った人は、死ぬとすぐ神になれると言い、葬式も特別だった。地域が2区に分かれており、その区の人たちで普通の葬式をしたあとに、別の区の山へ行った行人が白装束で4月の行事の梵天と同じものを作り、墓地に立てて拝んだ。土葬から火葬になって梵天を作らなくなり、昭和56年が最後となった。