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旧埴生郡 成田市 上福田と大竹台の祇園
1. 地域の環境
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(1)上福田の概要
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龍角寺古墳群の南東に位置し、当集落内にも一辺32メートルの方墳、上福田岩屋古墳を含む上福田古墳群があります。天正19年(1591)の検地帳に下総国香取郡埴生庄福田郷とあり、もとは下福田村とともに福田郷と称しましたが、寛永8年(1631)には上福田村として検地を受けています。享保19年(1734)の家数34、人数202。明治24年(1891)の戸数31、人口143。令和6年現在の戸数は39軒とのことです。鎮守は土師神社です。
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(2)大竹台クルワと成田龍角寺街道
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大竹にも大竹古墳群、大竹林畑遺跡、大竹玉作遺跡などがあり、古代埴生郡玉作郷の中心地域であったと推定されています。上福田同様もとは福田郷の一部でしたが、暦応年間(1338~42)に大竹左馬頭が居を構えたことから福田郷大竹となり、後に村名になったという伝承があります。台・平田・坂東・辺田の4つのクルワから構成されますが、台クルワはむしろ上福田と街道を挟んでひとつの集落を形成しています。
上福田と大竹台クルワの間を通る街道は、成田・公津方面から龍角寺、酒直、安食へと通じ、かつては成田龍角寺街道とも呼ばれました。当地は龍角寺参道が賑わったころの宿場だったそうです。そして、成田龍角寺街道と南羽鳥方面へ向かう道が直交する北東角地に、八坂神社(牛頭天王宮)が祀られてきました。宿の守護神として勧請されたのでしょう。氏子は上福田と大竹の台クルワで、管理と祭礼をともに担ってきました。
なお上福田にはこの地域では珍しくクルワがなく、上・中・下(カミ・ナカ・シモ)の3組で構成されています。福田村の一クルワが上福田村として独立した経緯を示すものと考えられます。
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上福田八坂神社
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(3)坂田ヶ池とおさが池
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上福田では、用水に「おさが池」と呼ばれるため池を利用していましたが、水量が足らず水の配分に苦労してきました。さらに「木下で降っても成田で降っても、利根川対岸の茨城で降ってもここは降らない」といわれるほど雨が少ない土地柄で、時に水不足に陥ったといいます。
一方「坂田ヶ池」は大竹区の田に引水され十分な水量がありましたが、堰が築かれ、上福田に分水されることはなかったそうです。堰が作られるまでは上福田側に水が流れていたともいわれ、「逆さ池」が「坂田ヶ池」になったとの伝承もあります。堰の上を成田龍角寺街道が通り、堰の修復に際して人柱とされた母子の伝説があります。