勝浦の秋祭り—遠見岬神社と八幡神社の祭礼—

3.勝浦の秋祭りの歴史

(1)砂浜で行われたお浜下りと船渡し

 郷田洋文が昭和28年に発表した「上総沿岸のシホフミ」に、遠見岬神社の祭礼について次のように記されています。
此日串浜、墨名、松部、浜勝浦などの各大字から神輿が出て各部落を渡御する。渡御の折はそれが終るまで鳴り物の囃などは一切禁止され、犯す者があると神輿は先へ進まぬという。神輿は最後にミヤウジンネへ集つて別れるのであるが、これをハマクダリといい神輿に汐水をかける。
 「尊浜(タカバマ)とかミヤウジンネと呼ばれている浜」とも記され、明神根が尊浜(タカバマ)、すなわち現在の尊磯(タカイソ)でした。勝浦湾内の海底地形は岩礁と砂地が入り組み、岩礁地帯を「根」、砂地を「クマ」といって、根はアワビやサザエ、イセエビなどの良い漁場となるそうです。尊磯は、浜の近くまで磯根となっている場所でした。そこに浜勝浦と墨名だけでなく串浜、松部の神輿も集まって汐水をかけたそうです。そして、明神様の神輿は砂浜を一目散に駆けてオチョウイリしました。串浜や松部の神輿は明神様の神輿の還御を見送ってからでないと、自村へ帰ることはできなかったとのことです。遠見岬神社の祭礼に周辺集落から神輿が集まることは、大漁祭りに始まったのではなく前史があったことがわかります。台座が4尺8寸の大神輿を担いで砂浜を駆け抜けたというのですから、当時の担ぎ手たちの猛者ぶりが窺えます。

 昭和36年に尊磯の手前の防波堤ができると、お浜下りの場所は防波堤手前の砂浜に移りました。そしてその砂浜もコンクリート護岸となり、今の勝浦港の船曳場にお浜下りをするようになったのは、昭和40年頃のことです。
 八幡様の神輿も、漁港が整備される昭和40年までは、浜勝浦橋(下本町境の幟を立てる場所)辺りの砂浜から海に入りました。しばらく海のなかで揉むと、神輿を八幡様に送るために待つ漁船から、綱を持った者が飛び込み、担ぎ手たちの隙を見て神輿に綱をかけて引っ張り上げました。祭りを終わらせたくない者が懐中から包丁を出し、神輿を引き上げようとする綱を切ってしまうこともあったといいます。

 神輿が引き上げられると、漁港内を回りながら待っていた船が一列に並び、次から次へと渡されて、最後に載せた船が先頭になって湾内を3周したあと八幡様の下の浜に赴きます。そこで神輿を降ろすと浜の井戸で潮を洗い、急坂をあがって神社に納めたそうです。郷田の報告にも「八幡様まで運んでゆく」「腰につけた新藁の注連縄は鳥居などに巻いて帰るという。」とあります。
 ただし、これがいつまでのことか定かでなく、岸壁から直接、八幡様の神輿を船に載せるようになった昭和41年には、八幡岬に向かった船は岬の先端近くまで行くと、八幡様を拝礼して海にお神酒を注ぎ、神輿を載せたまま港に戻ってきたそうです。そして神輿はしばらく、鮮魚商組合の倉庫や消防団の詰所に保管していましたが、50年頃から遠見岬神社の神輿庫に収めるようになりました。
 八幡様の下の浜は今も海士漁の拠点となっており、清水の湧出を確認することができます。

鳥居に提灯をつける
鳳凰や囲垣を取り、晒を巻いて海に入る 
船渡しの船を待たせて神輿を揉む
船渡しの船を待たせて神輿を揉む

(2)暴れ神輿

 平成10年頃までは、駅のロータリーまで行くと肩をはずし、わざと神輿を落としたといいます。また、新官や沢倉などほかの区の神輿が来るのを待っていて、神輿が出合うと神輿を担いだままぶつかり、その後は神輿を下に置いて取っ組み合いの喧嘩になりました。お酒の量も多かったので、自分たちの神輿が一番だと張り合う気持ちでぶつかり合ったといいます。神輿を足の上に落として怪我人が出るようなことも日常茶飯事でしたが、いい大人が集まって普段やらない馬鹿なこと―大暴れをするのが祭の魅力で、その頃は仕事で都会に出ている人も大勢、神輿を担ぐために帰ってきていたそうです。当時の祭りを知っている者には、今はただ担いでいるだけで迫力がなく、つまらないとも感じられるそうです。

(3)これからの勝浦の秋祭り

 勝浦の秋祭りは、伝統と信仰、そして地域の人々の情熱に支えられてきました。数は減ったとはいえ、浜区には依然海で働く人が多く、信仰心も篤い土地柄です。開拓神を祀る遠見岬神社の存在、浜勝浦ならではの大神輿、そして神輿唄を歌いながらの勇壮な渡御は地域の誇りであり、「代々受け継いできたものだから祭りは大事、皆で協力しないとできないのが祭りで、終わりにするわけにはいかない」というのも、多くの住民の思いだそうです。しかし、若い世代の減少は如何ともしがたく、祭のやり方がその時々の状況で変わるのはやむを得ないことだとも考えているとのこと。近年は国際武道大学からアルバイトを雇い、準備や後片付け、お供えを持って神社に上がったり高張提灯を持つなどの、力を必要とする補助的な仕事を手伝わせるようになりました。
 また神輿の担ぎ手が足らず、浜勝浦の衣装(「濱」の文字が入った半纏・白丁ズボン・白足袋)さえ着ていれば、誰でも担げることとしているため、電車で担ぎに来る人もいるそうです。それでも、特に周りの地域でも同様に祭りを行っている3日目は人が足らず、令和6年は何度となく神輿を落としそうになり、また揉み、差しやお帳入りの駆け足に、厳しさが見られました。
 神輿を担ぐことを楽しみに1年を待っている若衆もたくさんいるとのことですが、一方で20~30代の減少は著しく、担ぎ手は昔の3分の1だそうです。
 勝浦の漁業は高齢化しており、漁業資源の減少から、漁業自体が難しくなっていることも要因のひとつだそうです。地域の生業とともに、大漁祈願・海上安全の祈りをもって行われてきた祭りであるからこそ、今は転換期にあるのかもしれません。