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旧埴生郡 成田市松崎の祇園
1. 地域の環境
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(1)松崎の概要
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上福田、大竹地区の南東域に位置し、南西側は印旛沼に接しています。
木下河岸・安食河岸から成田山新勝寺に向かう街道が村内を通り、天保9年(1838)の家数96、人数463。安政7年(1860)には家数96戸のうち47軒が何らかの農間商いに従事する宿場的色彩が強い村でした。上福田と同じく松崎も水に苦労した土地で、谷津の湧水を水源とした用水溜池がいくつも作られ、なかでも千把ヶ池、浅間池の規模が大きかったようです。一方で、印旛沼に接する地域は印旛沼の溢水にも苦しめられたといいます。現在は約220戸が20班に分かれています。班は、かつてのクルワだそうです。
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(2)千把ケ池と浅間池
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松崎の祇園祭礼では、神輿が神社を出てまず向かったのは千把ヶ池で、ここで行う「お浜下り」が大事な祭事でした。昭和54~55年頃に成田ニュータウンの開発で埋められてから、浅間池に場所を移して行っています。
延享3年(1746)の村明細帳が千把ヶ池を「湯川谷津」、浅間池を「浅間谷津」と記しているように、どちらも谷津のしぼり水、湧き水を集めた溜池で、千把ヶ池の水は北流して根木名川に入り、浅間池の水は印旛沼方面に流れました。
千把ヶ池も浅間池もとてもきれいな浅い池だったため、子どもたちが良く遊びに行き、小魚をつかまえたり、飛び込んで泳いだりしたそうです。池から流れ出るミオ(水路)にはシジミやドジョウ、サワガニもいました。また夏に田へ水を落とすと、ウナギやナマズ、フナなどが獲れたそうです。
千把ヶ池には次のような話が伝えられています。
お鶴は力自慢の仕事上手で、ある年の田植で千把ノ苗を一日で植え終えた後、慢心の余りに股の間から夕陽を覗き「お日様はまだ入リやらぬ」と叫んだところ、たちまち天罰を受けてその場で死んでしまった。村民がその田を掘って池としたのが千把ヶ池である。
この話にはバリエーションがあります。お鶴が日没までに千把植えようとしたが、植え終えることができずに股の下から太陽を招き返したので天罰が下ったという話も、良く語られます。田植えの最中に若い女性が死ぬという民話は全国にあり、農神に女性を生贄として捧げることにより豊穣が齎されるという古い観念を背景とした話だそうです。明和7年(1770)の二十三夜供養塔と文化11年(1814)の三界万霊塔が千把ヶ池の畔だった場所に今も立ち、お鶴の供養に立てられたと伝えられています。
浅間池も土地改良後に用水として使われなくなってからは周囲をコンクリートで固めてしまい、つかまるところもなく危ないため、今は中に入ることができません。
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(3)二宮神社
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松崎の祇園はオボスナ様(鎮守社)である二宮神社、通称「にのみや様」の例大祭です。二宮神社は、古代埴生郡玉作郷の氏神として創建されたと考えられている古社です。
延享3年(1746)「埴生郡松崎村寺社指出シ帳」には「正一位二宮埴生大明神社」とあります。明治7年(1874)「松崎村神社明細調帳」によれば、明治4年(1871)に二宮埴生神社と改号し、祭神は経津主命。松崎・大竹・上福田・下福田・宝田の5村の鎮守であり、祭日は1月20日、6月27日、9月20日でした。
1月20日は現在も行われているオビシャです。班ごとに3本足のカラスと6本足のウサギの的を篠竹の弓矢で射り、その年の豊作を祈願する行事が行われています。6月27日は月遅れの7月27日を祭日に移して行われている例祭(祇園)で、今も区をあげて行われている松崎最大の行事です。当資料には「氏戸五ヶ村役人立会納涼祭」とあります。また9月20日の秋祭りは、現在の10月17日神嘗祭(秋祭り)につながる収穫祭でしょう。
なお現在の神社の祭礼日は、1月3日歳旦祭、4月20日オゴト(仕事始め)、7月27日例祭、10月17日神嘗祭となっています。
神職は江戸時代までは村内に神職家があり、延享3年(1746)は松崎美濃守が神主でした。明治期の『千葉県神社明細帳』に、明治25年(1892)に認可を受けた社掌として「宮崎重造」の名が記されるため、江戸時代末から明治25年の間に松崎の神職家が途絶え、三宮埴生神社の兼務になったようです。
今も二宮神社が八生地域の総鎮守との意識は根強く、特に正月の初詣には大勢の参詣者があります。また祇園の山車を曳く子供たちも、八生小学校区全域から参加しています。
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松崎二宮神社