旧埴生郡 成田市寺台の祇園

3. 寺台の祇園の歴史

(1)資料にみる寺台の祇園

 享保8年(1723)「寺台村寺院書上下帳」に「牛頭天王宮壱ヶ所」「毎年七月廿七日祭礼仕来候」とあり、また享保21年(1736)「埴生神社志」に「七月廿六日神輿を市中に出す、翌日申の刻、宮に還る」とあることから、神輿渡御の祭礼が少なくとも享保年間には遡り得ることがわかります。
 明治17年(1884)「下総国下埴生郡寺台村誌」は「大祭毎年陰暦七月廿六、廿七両日トス」とのみ記しますが、大正元年(1912)『成田町誌』は少し詳しい記事を載せます。
家々にては軒提灯を吊し、白帳(白丁)を着けたる若者は御輿を舁ぎて徐々と廻るなり。(中略)往々にして昔の山法師の故智を学び、乱暴に流れ狼藉にかたむくの嫌あり。加ふるに近郷近在の若者連又続々来りて神輿にとりつき、もみつおしつ自己の村々へ奪ひ行かんとするなど、頗る雑閙(雑踏)を極め、喧嘩口論等の絶間なき程なりしが、近年其筋の注意により漸く其事なく、厳粛なる渡御を見るに至れり。
 平安時代に神輿を奉じて強訴に及んだ比叡山の山法師が引きあいに出され、荒々しい渡御の様子が垣間見えます。また一方で「其筋の注意」という圧力によって、一時的にせよ厳粛な渡御を見せた時代もあったことがわかります。
 果たして荒神輿の伝統は、度重なる祭礼の中断を経ながらも昭和48年まで続きました。

(2)九十九里浜への渡御

 寺台には、かつては3泊4日で九十九里浜にお浜下りに行ったという「伝説」があります。「伝説」といいながら、途中で神輿を取られてしまい、助っ人も一緒になって取返しに行ったことがあった、あるいは帰りに途中で嫌になって神輿を放り投げて帰ってきてしまったので、役員がトラックで取りに行ったなど、さらに発展した臨場感のある話も聞かれます。しかし不思議なことに、実際に九十九里浜まで行ったことを見たり、自分が行ったという人は、昔からいなかったそうです。
 上福田・大竹台の祇園や郷部の祇園も、同様の伝承を持ちます。本来、お浜下りとは海で行うものとの意識の表れでしょうか。

 保目神社のお浜下りについて確認できる資料は唯一、大正2年(1913)『千葉県印旛郡誌』で「六月十五日には神輿の渡御あり。お浜下りと称し同区保目川に至り禊をなす」とあります。しかし、引用の根拠として示されている「神社明細帳」「成田町誌」に同様の記事は見当たらず、祭礼の日程も他資料と矛盾します。旧暦6月17日に埴生神社の神輿のお浜下りが寺台の根木名川畔で行われていることを、保目神社のお浜下りと誤解しての記事でしょうか。

(3)戦後から昭和48年まで

 寺台の祇園は戦後、しばらく続いていましたが、20年代に一度中断しているといいます。そして現在の神輿が昭和33年に作られているので、この年に復活したのでしょうか。昭和37~38年頃は確かに神輿を投げていたという証言がありますが、その後また中断したそうです。そのため確かな時期は不明ですが、長老たちが先輩から聞いた話では、当時は宮出しから、すぐに根木名川へ向かったそうです。当時の根木名川は川幅が狭く蛇行し、川岸も急峻でした。橋から神輿を投げ入れると、若い者が先を競って橋の袂から川に降り、神輿を引き上げました。これを当時「お浜下り」と言ったかは不明ですが、他に例のない勇壮な荒れ神輿として名を馳せていたといいます。
 そして今の長老たちが神輿渡御を復活させたのが昭和46年で、46年から48年までの3年間は、確かに神輿を投げる祭りが行われていました。
 当時担ぎ棒は2本で、成田駅前まで担ぎに行き、駅や警察署の前など、あちこちで「ぶん投げ」、戻るときには担ぎ棒と心棒だけになりました。ぶん投げるとき、担ぎ手は両方の肩を入れ、左の担ぎ棒に肩を入れる者と右の担ぎ棒に肩を入れる者が、背中合わせになります。片側が両腕を伸ばして投げ上げ、反対側は首を丸めて直立の姿勢のままでいると、神輿は心棒の頭から地面に落ち、気持ちの良い音がして傷みも少なかったといいます。怖がって膝を折ると神輿が下がって斜めに落ち、屋根が破損しました。しかし壊れた破片でご飯を炊いたりお風呂の湯を沸かすと無病息災といわれ、見物人が競って拾ったといいます。

 この頃、「保目神社の神様と三の宮神社(郷部の埴生神社)の神様は夫婦」「郷部の神様が女の神様、寺台の神様が男の神様で、女の神様から訪ねるもので、男から出向いてはいけない」などといわれていました。そのため郷部の神輿は4年に一度寺台に来て根木名川でお浜下りを行いますが、寺台の神輿は成田の町まで行き、仲ノ町の坂から郷部の方へ向かっても、郷部に入ることはできず、郷部の手前でUターンしたといいます。
 担ぎ手は白丁の袖が邪魔で、両袖を首に通して担いでいました。掛け声は次のようなもので、一人が声を出すと、ほかの皆で合いの手を入れました。
こらさ〜の、どっこいなっと!
  どっこい,どっこい,どっこいなっと!
寺でぇの祇園だっとー
  まだ、夜は長いよっと!
ここらで〜どうだい!
  まだまだ早いよっと!
そろそろ、よかんべっと!
  おいさっ!おいさっ!おいさっ!
 「ここらでどうだい!」というのは、神輿を投げるタイミングの投げ掛けで、最後は「おいさっ!おいさっ!・・・」と神輿を揉みながら、息を合わせて投げたそうです。
 また、「そうまか、いかね。てらでぇの祇園だっと!」という掛け声があり、他村から神輿を盗りに来るのを「そううまくはいかねえぞ」と追い返したのが由来だとも、「人生万事、そううまくいくものではない」という、大火など苦労が重なった地域ならでは掛け声だったともいわれています。
新勝寺前を渡御
新勝寺前を渡御
神輿を投げる
神輿を投げる

(4)屋台の導入とお浜下りの開始

 神輿を投げて道路の舗装を痛めると道路交通法違反になるといわれ、また神輿の修理にもお金がかかるため、神輿を投げる祭りは昭和48年を最後とせざるを得なかったといいます。そして、その後、神輿をただ担いで町内を一巡するだけではつまらないと、屋台を取り入れることになったのが昭和51年でした。子どもも女性も一緒に楽しめる屋台の祭りへと大きく舵を切ることになりました。

 一方で、荒神輿を惜しむ若衆たちの思いを汲んで、寺台の祭りに新たな命を吹き込もう、新しい名物を作ろうとして始められたのがお浜下りでした。開始は平成5年であり、その頃の長老たちは、戦後、根木名橋から神輿を落とした経験があったので、「半世紀ぶりの再開」として、地域をあげて盛り上がりを見せました。お浜下りを始めたことで祭りへの関心が高まり、住民の気持ちをひとつにすることができたそうです。
 根木名川の吾妻橋の下に祭壇を設けて神事を行い、川に神輿を担ぎ込む様子を見ようと、多くの人が集るようになり、そしてお浜下りに集まった人たちに赤飯を振舞うこともこの時に始まり、無病息災の御利益で喜ばれて、今も続けられています。
平成5年のお浜下り
根木名川でのお浜下り

(5)奉納相撲

 境内に土俵を作り、宵宮の午前中に子ども相撲を行う伝統がありました。0歳児のショッキリに始まり6年生までの参加とし、近所の保育園は園をあげて参加していました。ショッキリは引き分けとしてご祝儀を出しますが、ほかは年齢や学年ごとに勝ち抜き戦を行い、お菓子の詰め合わせなどの賞品が出ました。また全員に参加賞として花火を配っていました。かつて物のない時代には石鹸や餅網、七輪など日用品を賞品にしていたこともあり、その頃は他町内からの参加も多かったといいます。
 コロナ禍前まで行っていましたが、神輿、屋台、相撲とすべて回すには人も予算も足らないとのことで、相撲については再開が難しいとの判断があるようです。
奉納相撲 (令和元年)
奉納相撲

(6)これからの寺台の祇園

 屋台の祭りとお浜下りの創出によって新たな祇園祭としてよみがえり住民の心を繋いできた祇園祭ですが、近年は若衆に当たる年齢層が減少し、また住民の高齢化などにより、祭礼費が以前のように集まらないことが課題となっています。一方で新住民が増え、特に子どもの参加が増加傾向にあることが明るい材料となっており、彼らを巻き込み、さらに新たな形へ転換し発展していく方向が模索されています。