旧埴生郡 成田市寺台の祇園

1. 地域の環境

(1)寺台の概要

 旧下埴生郡の南東部に位置し、集落の東側を根木名川が北流しています。台地上には寺台城跡があります。江戸時代には江戸から佐倉、成田、佐原、鹿島へと通じる成田道(鹿島往還)の宿駅が置かれ、伝馬継立場として繁栄しました。根木名川にも河岸が置かれ、利根川の安西河岸や新川河岸と伝馬船で結ばれて、物資の輸送のみならず新勝寺の参詣者も利用しました。しかし江戸時代中期以降、新勝寺の繁栄に天保元年(1830)年の寺台大火も重なり、次第に宿場の役割を門前町に奪われていきました。
 文化5年(1808)の家数41、人数192。明治5年(1872)の戸数44、人口223。街道に沿った町並みは上宿・中宿・下宿からなり、商人や職人が多く住んでいました。
 現在は勤め人が多くなり、また近年、宅地開発により新住民が増加し、アパートも含めた世帯数は500を超えます。一方、旧来の住民は高齢化が進み、独居世帯も増えているそうです。

(2)保目神社について

 江戸時代は牛頭天王社でした。明治維新後、社殿後方の斜面上に祀られていた后田(こうだ)神社を合祀し大市姫神社と称した時期がありましたが、まもなく所在地の字名から保目(ほうめ)神社とされ、寺台の鎮守社となりました。土地の人は今も「天王様」と呼び、災厄や疫病から寺台を守って下さる神様として信仰しています。天王様の紋が胡瓜の断面に似ていることから、寺台の者はキュウリを食べてはいけないといわれてきました。大正8年(1919)に大鷲神社、天御中主神社(妙見様)、海保神社、稲荷神社、厳島神社の5社を合祀しています。
 行事は年3回。正月、4月3日の神武天皇祭、7月の祇園です。4月3日は、本来は天王ビシャで、神社で「花見踊り」「弥勒踊り」などを奉納したあと御神体の箱を次の宿に渡す行事でした。今も神事のあと「弥勒踊り」など踊りの奉納が行われています。

千把ヶ池でのお浜下り神事
保目神社

(3)成田門前や郷部との関係

 永禄9年(1566)に成田山新勝寺を現在地に遷して再興したのは、最後の寺台城主、海保甲斐守三吉であったと伝えられます。一方、元禄14年(1701)の時点で成田村の家数は98軒。旅籠屋は1軒もなく、周辺諸村と同様の農村でした。しかしその後、元禄16年(1703)に新勝寺が江戸出開帳を成功させ、さらに篤信者であった市川団十郎が出開帳に合わせて「成田不動霊験記」を上演したことなどにより、急速に参詣者を増やし門前町の形成が進みました。

 成田山の不動信仰は出羽三山の湯殿山信仰と関連があります。成田山の不動明王と奥之院大日如来、現JR成田駅近くの湯殿山権現は同体と考えられ、成田祇園祭は、湯殿山権現社(権現山)の祭礼として享保8年(1723)には既に行われ、享和2年(1802)の新勝寺住職の記録によると、毎年6月8日に新勝寺の不動明王の神輿を権現山に移し、氏子33か村が祭礼を勤めていました。これが次第に「大日如来祭礼」または「祇園祭」と呼ばれるようになりました。

 また三宮埴生神社は昭和49年(1974)の境界変更まで成田(旧成田村)にありましたが、神官は郷部に住し、神輿の奉舁も郷部が担うなど郷部との結び付きが強く、旧暦6月17日の祭礼はいつしか「郷部の祇園」となりました。
 近代以降、7月7・8・9日に成田祇園、16・17日に郷部の祇園、26・27日に寺台の祇園という日程で、今日まで継承されてきました。そして寺台では、郷部や成田の祇園とは異なる「荒れ神輿」「投げ神輿」を持つ自負から、かつては、特に成田祇園に強い対抗意識を燃やしてきました。

 しかし近年では、他の祭礼との協調を重んじ、成田祇園祭の初日に10町へ「御神酒所回り」、すなわち役員がご祝儀と御神酒を持って祭典本部「御神酒所」に挨拶に行きます。また2日目・3日目には田町、東町(あずまちょう)、仲之町、新勝寺の山車が保目神社を参拝するため、公民館で接待を行います。また郷部の祇園では隔年ながら、埴生神社の神輿が寺台の根木名川畔でお浜下りの祭事を行うので、神輿を安置する場所に盛砂を作り、川の水を汲んで神輿を迎え、公民館で接待を行います。
 そして寺台の祭礼では、門前町10町と郷部の役員の参拝を受け、屋台曳き廻しでは東町と田町の接待を受けます。神輿や屋台の巡行も互いに手伝っており、総じて成田・郷部・寺台地区は7月いっぱい、祭の高揚した空気に包まれます。