松澤熊野神社神幸祭
4.旧縁故者と神輿師
- 神社と特別な関わりを持って神幸に供奉してきた家や、祭典の場所や神官休憩所を提供してきた家を「旧縁故者」いいます。これらの家にかかわる伝承と現況を整理します。
(1)神主(宮司)・神職家
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縁起には、松沢への遷座の際、紀州熊野にも神託がくだり、宇井・鈴木・榎本等の神職が熊野の神を祀るために松沢の地まで下り、以後、彼らの子孫が祭祀を担当してきたとあります。
なかでも松沢の宇井家が、江戸時代を通じて神主を世襲していたことは、松澤熊野神社所蔵の数々の文書資料で確認できます。寛政期以降は出羽守を受領し、現在の神楽殿の裏手、境内地に隣接する場所に宇井家の屋敷がありました。しかし明治32年、宇井包高の跡を府馬の那智家、那智正敬が継承することとなり、さらに明治41年からは舟戸の左右大神の社家である上代家が承け、兼務で社掌を務めることになりました。上代太十郎、光祐、光正と継承され、現在の宮司は上代光正氏です。
宇井家の子孫は現在も柏市におり、平成11年の神幸祭までは旧神主家として行列に供奉しました。また、最盛期には神職家が42家あったと言われますが、近年まで10数家が存続し、旧神職家は「下社家」ともいわれています。平成11年の神幸祭には11名が供奉しましたが、このような縁も次第に薄れつつあり、今回の参加者は玄蕃(志高の松澤家)1名でした。
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旧神職家として伝わる家
- 「内殿(うちで・ないでん)」・・・古内の鈴木家
- 「外殿(そとで・がいでん)」・・・府馬(在郷)の高梨家
- 「掃部守(かもんのかみ)・左門尉(さえもんのじょう)」・・・府馬(在郷)の那智家
- 「玄蕃(げんば)」・・・志高の松澤家
- 「三左衛門(さんざえもん)」・・・古内の鈴木家
- 「太兵衛(たへえ)」・・・府馬(在郷)の宇井家
- 「石見(いわみ)」・・・松沢の鈴木家
- 「お休み権現」・・・仁良の竹蓋家
宇井、鈴木のほか那智や後述する四天王の玉井も、紀州熊野から来た家と伝えられています。仁良の竹蓋家、志高の松澤家には別の由緒がありますが、概してこれら旧神職家のほぼすべてが旧山田町域に所在することは、この地域と松澤熊野神社の縁の深さを物語るものでしょう。
また現在、神幸行列の先頭と、神輿の舁き手と警固を長岡、原宿(府馬の一集落)がつとめています。経緯は不明ですが、長岡、原宿には松沢と姻戚関係を持つ家が多く、「松沢の権現様は自分らが守る」との意識で式年神幸祭に参加しているそうです。
(2)左京と右京
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宮負本家を左京、越川本家を右京といい、松澤熊野神社の氏子をまとめる中心的な家です。
「宮負」には、三川から熊野大神のお宮(厨子)を背負ってきたという謂われがあります。屋号は「八幡(はちまん)」。また「越川」は、三川からの道中の川を渡る際に手を貸したという謂われがあり、屋号は「寿内(じゅうじ)」。越川壽一(実行委員会顧問)が54代だそうです。
松澤の草分けと言われるのは、宮負、越川に加えて塚本の3家で、「塚本」には、塚すなわち熊野大神が鎮座された社地をお守りする意味があるといわれています。
松澤熊野神社の氏子総代長は、式年神幸祭が行われる年に限っては、宮負と越川の両家が交代で担うこととされてきました。江戸時代には氏子の中心に宇井神主家がありましたが、明治中期に村の外から神職を迎えるようになったことから、氏子の紐帯として右京・左京の責任が、より一層大きくなったと考えられます。
(3)仁良の休熊野神社
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旧神職家のうち仁良の竹蓋家が直接、地元で祀ってきた神社に休熊野神社があります。熊野大神が松沢に入る前に一時留まった場所といわれ、「お休み権現」が通称です。
松澤熊野神社の正月の筒粥神事で、お休み権現の御手洗池(耕地整理により渇水)に生える片葉葦を使ってきたことからわかるように、松澤熊野神社とは何かと縁が深く、神幸行列では「先供(さきとも)」という露払い役を勤め、天狗と付き人3、4人で、神輿行列の先頭に立ってきました。神輿を待たずにどんどん先へ進んでいってしまったとその様子が伝えられていますが、火事見舞いの行き違いから昭和38年(1963)を最後に神幸祭への参加が途絶えています。
現在、行列の先頭は長岡区と原宿区の区長、区長代理がつとめています。 -
仁良 休熊野神社
(4)松澤玄蕃家と志高の若宮八幡神社について
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旧神職家のうち「玄蕃」、志高の松澤貞夫さんは、今回旧神職家から唯一の参加となりました。
庄司(荘園の役人)として鏑木に来着し、5代藤原義春が松沢庄の志高に移り姓を変えたと伝えられています。この5代義春が神職としての初代であり、松澤熊野神社の神職と、志高の若宮八幡神社の神主を務めてきたといわれています。
若宮八幡神社は志高の鎮守社で、安産・子育ての守護神です。熊野神の松沢への遷座に供奉し、志高に安着したといわれています。神幸出発の前日の日没後から出御祭を行い、お宮(背負い神輿)に御霊が入れられます。かつては、若宮八幡神社のお宮の後を、地域の方々が20~30名、揃いの着物に黄色の手拭を首にかけてお供したそうです。また安産の御利益に与りたい人たちが、八幡様の旗や黄色の手拭を欲しがり、小さく切って分けたそうです。現在は神幸の途次、お守り(麻)の頒布を行っています。 -
志高八幡神社供奉者
志高 若宮八幡神社
(5)南堀之内の初内大神と宇賀大神について
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現在、南堀之内の初内大神が、神輿に先立つ先供神社をつとめています。初内大神は菅谷家の氏神で初内はハトウジと読みます。菅谷家の屋号です。神幸に参加するようになった経緯は不明ですが、三川から松沢への遷座にお供して来たか、遷座の途中に熊野神が休憩したかのどちらかだろうとのことです。神幸祭には御霊を幣束に移して供奉してきました。平成11年までは、神幸祭のたびに松澤熊野神社の上代宮司が新しく幣束を切っていましたが、前回の23年に長期の使用に耐える木製の幣束を誂えました。
宇賀大神は南堀之内の鎮守社宇賀神社の御神霊です。志高の若宮八幡神社と同様、熊野神の松沢への遷座に供奉してきたといわれています。やはり子安の神、安産と子育ての守護神です。
令和5年には式年大祭の前日、9月30日に上代宮司により前日祭が行われ、まず初内大神で、次に宇賀神社で、御霊が幣束とお宮(背負い神輿)に、それぞれ遷されました。
宇賀神社のお宮は足揃え際、南堀之内の芸能一行にも同行し、神幸行列では随時、麻の入ったお守りの頒布を行っていました。 -
初内大神供奉者
宇賀大神供奉者によるお守りの頒布(三川浜)
宇賀大神供奉者によるお守りの頒布(網戸)
南堀之内 宇賀神社
(6)四天王
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四天王は神輿の前後を固めて神輿を守護する役目です。神命により紀州熊野から下った宇井、榎本、鈴木、玉井の4家がありましたが、宇井、榎本は絶え、現在は府馬の鈴木家から親子で2名、玉井家は府馬と小見川の家から1名ずつ、4名でつとめています。神輿の前に立つ「前そなえ」が玉井家、後に立つ「後ろそなえ」が鈴木家です。
渡海祭の四方祓(よもばらい)も四天王の役目であり、ここで使う矢は、当たっても怪我をしないようにと、先に丸い玉をつけて4本作ります。祭事用の鏑矢を擬してもいるのでしょう。この4本に、旧縁故者や神社関係者に納める矢をあわせて、合計30本の「御神矢(ごしんや)」が必要です。御神矢と4名が引く弓4張を、四天王を代表して鈴木敏通さんが一手に引き受け、矢竹や羽、弓にはモウソウ竹を用意して作成しています。
祭礼当日は熊野神社に集合する前に、鈴木家の氏神である金毘羅大権現の前に4名が並んで出陣式を行いました。金毘羅大権現は、紀州から来着した際に航海案内をつとめたのだそうです。
神幸の行列では羽織袴に陣笠の装束で、腰に真剣を差し、左手で鞘を握って供奉します。
御神矢のうち縁故者分は、松ヶ谷の多田家、蛇園の平山家、三川熊野堆の大久保家での、それぞれの奉迎祭で、2本ずつ贈呈されました。祭礼への協力に感謝し、家の弥栄を祈念する意を込めての贈呈とのことでした。贈呈を受けた家ではそれぞれ、次の神幸祭まで神棚にあげておくそうです。またかつて我留前家には12本の矢が贈呈され、我留前家では次の神幸祭まで、毎年の「鳥居先神幸」と呼ばれる秋の例大祭に出席する際、1本ずつ持参して熊野神社にお返ししたそうです。
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神幸祭に先立って熊野神社に奉納され御神矢と弓
御神矢の先端
御神矢に巻いた半紙と水引
出陣式会場
出陣式を終えた四天王
四方祓の弓矢を持ち召立を待つ
(7)波切の家
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旭市萬歳と成田市十余三の塚本家が「波切の家」といわれ、熊野堆から渡海祭の祭場まで波切旗を奉持し、渡海祭が終わりお浜降りに移る際に、浜の若衆に旗を渡す役割でした。神輿は2本の波切旗の間を通って海に出ました。
両塚本家は、元は松沢にあった家で、転出した後も御神幸に戻ってきてこの役を務めていましたが、旧縁者や四天王ほどの歴史のある役ではないとのことです。そして平成23年が最後となり、令和5年の神幸祭では、松沢区が引き受けることになりました。
(8)沿道の祭典関係者
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志高の遠藤家、松ヶ谷の多田家、蛇園の平山家、三川下宿の大久保家、三川曽根の我留前家、そして還御における新町の石嶋家・加瀬家が、長く祭典の場所や神官休憩所を提供してきた家です。特に平山家の氏神の裏手の祭典場の由来は天保2年「御幸図」にも由来が記されています。熊野の大神様が三川から松沢に移る際に休まれた場所で、卯の年に4本の若竹が生え、そこにしめ縄をかけて祭典を執り行ってきたといわれます。現在は、この場所には通常、篠竹が生い茂っているため、祭礼前にしめ縄をかけるのに相応しい4本を残して伐採し、神輿を安置するための土壇を築いています。
令和5年は、9月30日の朝に蛇園区内の真言宗寺院、還来寺の住職が土壇に大日如来の真言「オンアビラウンケン」の梵字を記した幣を立て、土公供(仏式の地鎮祭的な供養)を行い、その後、土壇の側面に芝が貼られ、上面には三川浜から採ってきた砂が敷かれました。 -
平山家 七五三掛竹祭りの祭場準備
土公供
真言が記された幣 - 志高の遠藤家においても、平成11年まで氏神の前には同様の土壇が築かれていました。
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遠藤家の祭場に作られた土壇 -
松ヶ谷の多田家では、神様が来ると松ケ谷辺りで日が暮れて、この先に人家がないのでヤドを提供したと伝えられているそうです。以前は表門が四つ足門で、神輿が入れなかったため門の外に駐輦し御旅所祭が行われ、その後、主だった供奉者は、多田家で酒食の提供を受けて仮眠を取り、座敷にあがれない大半の人は軒下や作業小屋で休みました。馬は門の外の杉林の中に繋がれました。
多田家では供奉者のおもてなし料理は昭和38年まではすべて家で用意し、そのために親戚や近所に手伝いを頼んでいました。神職が一番上座に、全員で80名くらいが座敷にあがり、お膳を出してお振舞をしたものだそうです。昭和50年からは飯岡駅前の魚屋さんに仕出しを頼むようになり、そこで膳椀も貸してくれるようになりましたが、それからも2俵近く、100キロもの糯米を赤飯に炊いて、皆に食べてもらったとのことです。お振舞については、事前に平山家とも相談しながら準備をしました。毎年「おいで」のために積立てをし、「おいで」にあわせて家のあちこちを直したり、作業小屋を作ったりしてきたのだそうです。
今回は祭りに集まった親族のために5升ほどの赤飯を炊いたくらいだったそうですが、祭典の供物にあげる餅や米、酒を用意し、特に餅は、2升の重ね餅を前々日に搗いて準備しました。祭典が終わると神棚にあげ、その後は祭りに集まった親族で、わけていただいたそうです。 -
平成11年の神幸祭で門に掲げた木札
木札裏面(宮司から神幸祭のたびに進呈された) -
主だった方たちを家にあげて酒肴でもてなしたのは蛇園の平山家も同様で、平成11年までは丁寧なおもてなしをしていましたが、今回はすべて遠慮するという神社の方針によって、式典のお供え物の用意だけを行ったとのことでした。
熊野の神の降臨の家である我留前(小林)家と、我留前の塩釜に降り立った熊野の神を松沢へ遷座まで150年にわたり熊野堆で祭祀したといわれる大久保家の両家がともに途絶し、祭礼の大元がゆらぐ事態となりましたが、熊野堆の土地は大久保家の本家にあたる家筋で買い取り、「旧縁者」としての家柄も継承されることになりました。
なお、大友の大井戸や祭場の塚の由来は、残念ながら伝承を確認することができませんでしたが、祭礼のおよそ2週間前になる9月17日に、地域をあげて井戸浚いや塚の整備が行われました。
(9)神輿と神輿師
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神幸祭で使う熊野神社の神輿を「おいで神輿」といい、この神輿を松沢区の人たちが担ぐことはないのだそうです。触れるのは、拝殿から境内に降ろすなどの移動や、錺金具をつけたり力綱を掛けたりなどの準備の時だけで、神輿を担ぐ舁夫は松沢以外の氏子の役目とされています。毎年開催される例祭の鳥居先神幸でも、松沢を除いた氏子区の人たちが担いで、鳥居を回ります。神幸祭でも建前は同様ですが、結果的に警固役の長岡・原宿区の若衆が担いでいたのが実態でした。今回の神幸祭では、正式に舁夫の役割が長岡・原宿区へと変更されて実施されました。
なお先代の神輿は昭和43年の火災で社殿とともに焼け、現在の神輿は昭和48年に新調されました。神輿の製作や修理を代々担当してきたのは溝原の菅谷家で、現在の当主菅谷敏明氏で8代目となります。「神輿師(じんよし)」として式典に参加し、また神幸行列にも終始供奉し、神輿の状態に気を配っています。 -
神輿の組み方を指導する菅谷敏明氏(10月1日)